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父と僕と、私の大人の定義。

 今日の話は思い出話でもあって、私がかつて「僕」という幼さの残る一人称だった頃に書いた文章で、思春期を迎えた頃の出来事を記したものがある。そこに10年後の現在の私が加筆もしながら編集し結んでみたいと思う。

 人間は思春期以前、それまでは私という意識は親と共にあったのだといえるのかもしれない。親を見て、親と繋がって、親を通して世界を認識していたのだろう。それがいつしか一個体の人格として意識が確立し始めたのが、きっとちょうどこの頃なのだと思える。

 その頃から人間は、大人になりはじめるとも言えるのかもしれない。体も大人に変わる頃、虫で表せば、そうしてまた長い期間を経過して変態を重ね、いつしか成虫になるのだが、人間のその後にはそれほど明確な変容は表れない。ならば人はいつどこから「大人」になるのだろう。

 それはそのような目に見える形として表出できるような身体的な変化ではなく、もっと内面や人生における状況によって定義することができるのかもしれないが、そういうものは目には見えないのだ。それがまたこの世界のいじわるで巧みな面白さだと私は感じる。


 —— 小学生の終わり頃から中学生くらいになると体も育ち、声も変わり体毛が生えたりヒゲを剃ることを覚えたり、どこかムズムズとオトナになりはじめる。そんな成長というぎこちない変態と共に、心や自我と世界との関係性も変化し始め、特に近しい家族や親との距離感もぎこちなくなっていく、そんな頃だ。ずっと心に刻まれている思い出がある。

 父の思い出。それは、ある夏の僕の消えない思い出。その日、父がナイターの野球観戦に連れていってくれた。神宮球場だからヤクルト戦だと思う。——


 いま思えば、まだまだ幼い体ではあったが、心は思春期のようなものになりかけていたのだと思う。まだまだ無邪気であるとしても、心のどこかでなんだか父といることが、どことなく恥ずかしくて、それまで無意識の様に親子として自然だった関係も、急に目覚めたかのような得体の知れない意識が芽生えてなにかを邪魔してしまって、きっとその頃から親である父に子供である僕が、なぜか話しかけづらくなっていったのだと思う。

 たぶんそれ以前は、いまとなっては記憶もおぼろげだが、離れるのもぐずったりするほどに、父にも母にもべったりじゃれていた頃があるのだと思う。僕だけのことではなく、きっと誰もがそうなのかもしれない。子供から見れば、親は唯一無二の絶対の親であって、あえて意識する必要もないほどに自分の存在する世界に最初から当たり前に居た人であり、僕にとって常に完全な大人なのだ。

 しかしその他の世間のオトナたちは、ただ先に生まれた故に体が大きいというだけで、そこには明確な境も区別も大人という認識を裏付けるだけの意味すら無く、皆一様にして同じく、ただのオトナという生き物に見えていた。いま、大人と呼ばれる年齢になった自分から見ると、同じ様に子供は子供で、しかし子供の頃には知らなかったことがあることに気がつく。それは、この世に大人というものは存在していないということ。

 僕と同じ様に、子供も大人も老人も皆、本当は誰もが大人ではないかもしれない。どこか心細く、どこか真剣で皆、不安と希望を、過去と未来と今に託して生きている。僕という自分も年齢的には大人という句切りを越えたのだが、いつから大人になったのかという明確な定義すら不明であって、正直な感覚だが、なによりも自分という人間は僕から見る限り、まったく大人になどなっていない気がする。

 だけど、父は大人だと思う。そんな出来事だった。それがきっと、僕の中での「大人であることの定義」なのだと思う。あれから何十年と経ったが、あの日の父に見た大人という認識は、僕という人間がこの世界で生きる上での大切な基準となったのだと思える。

 子供の認識にとって親は世界そのものでもあり、時にこれから生きて行く子供の生命の手本として、子供の人間性とこの世界との接点や基準とも言える程に、親の生き様とはどんな行いでも子供にとってはまるで正義の味方として道徳の指針にもなるだろうし、そしてなによりも生まれた瞬間や生まれる前からにして、もはや当然で自然にして当たり前だとも思わない程に、生きる上で死んでもなお、なんでもなくして親は親で、子は子なのである。


 —— 球場に入ると、大勢の人や車や大きな歓声と応援団の演奏が絶え間なく夏の夜空に響いていた。夏の夜空は、爽やかで素直だからこそ、どこか心をくすぐるような、やんちゃな笑みを浮かべているようで、球場の客席を埋め尽くす大人たちは誰もが、どこか子供のようだった。そんな生まれて初めての野球場の外野席の奥の人ごみの中、父と僕は立ち見で野球を観戦した。——


 実を言えば現在の自分もその頃の僕も、別に野球は特別好きでもない。ただ父が見ていた野球を見ていて、父がそれを見て喜んだホームランを打った選手や話に出てくる名前や用語を、僕も覚えて話していたんだ。今思えば、野球が好きだったというわけではなく、また別に野球である必要もなく、きっとただ僕は父が好きだったのだ。大好きな父が野球を見ているから、僕も野球を見て話して、一緒に喜んでいたのだと思う。

 今でも思うが、片田舎の夏の夜の家庭での思い出には、必ずナイターの野球中継がテレビから流れている音が家の中にあったけれど、父が熱心な野球ファンであったとは、今でも僕には思えない。父もただ普通に野球を見ていたのだと思う。僕は、巨人軍がいま「ホームラン打ったよー!」と、夜も仕事をしていた父に走って行って伝えて、ただきっと、父がそれを喜ぶことが嬉しかった。

 いま、そんな大人になって思う。あの時代、父親が息子に野球を伝えることや、キャッチボールをすることなどは、たぶんまるで当然のことや常識のことのように思える。それこそON時代などではないが、まだまだ野球が国民的スポーツで、少年達の夢や大人の男性のステータスだったのだと思う。例外も無く僕も理由も無く野球帽を被っていた子供だった。そんな昭和の時代だった。

 それはまるで子供の頃にきっと当たり前だと思っていたようなことのひとつで、誰もがいつか大人になるということや、大人になったら結婚をして子供も生まれて、自分もいつか親になるということなどを、子供の頃は普通に誰もがそうなれるのだと思い込んでいた。それがどうだろう、現在の自分があの頃の父の年齢に近づいてしまった大人という年齢になったいまでも、僕は東京で一人暮らしをして、どこか自由で、どこかいつでも不安定な人生を送っている。

 あの頃の父は、いまの僕の年齢には既に子供も養いながら家庭をもっていたのだ。思春期を迎え、きっとその頃から、そんな子供であった自分が存在したいたあたたかく幸せな家庭という完全とも言える程に小さな世界から、もっと外の世界へ出てみたくなって、それからというもの僕はずっとそんな世界からただ離れようと逃げているのかもしれないと、近頃ではふと思えるようになった。

 夢だとか自分だけの人生だとか、そんなフレーズを頭の中で抱きながら、実はただ自分は、本当はただ大人になりたいだけなのではないのだろうか。だとするならば、僕が大人だと定義できる自分とはどんな状態なのだろう。そして、なぜ現在の僕は、自分の認識の中でいつまでも大人になれずにいるのだろう。やはりそこで思うのが、父なのだ。きっと僕という自分は、父になるということを、本当は求めているのではないだろうかと思えてくる。きっとそれが僕の中での人生や幸せの象徴とも表せる、大人の定義なのだろう。


 家業を継いだ父の職業は農業だが、個人としてはとても器用な人で、家具でも住居でもなんらかのオブジェのような作品でも、どんなものでも自分で作ってしまう人だった。それを見ていた僕は、たぶんその父の姿に多くのものを黙って受け継いだと感じている。きっとそんな父をもち、そんな家庭で育って、親の仕事やものづくりへの姿勢や、自然物をはじめこの世界との関わり方を見ながら育った子供である僕としては、自分が創作の道に進んだのも、もしかすると真っ当で自然なことだったのかもしれない。

 そう思うと、様々なことに反発もして、どこかで一生懸命に自分だけの行き先を探していたつもりの少年だったはずだけど、いまになって見返すと実際のところは、かなり従順に親の資質や観念に添って、僕という人間は先代のなにかを真っ当に引き継いでいるのかもしれないと思えてくる。後を継ぐというのは、そういうことかもしれないと思える。

 遺産相続や家柄や資産や家業の看板や、そんな目に見える形ばかりに埋め尽くされた遺言を推奨するような現代に生きながら、そういう目には見えないものを受け継ぐという性質や観念こそを感じる人間に育てていただけたことを、なによりも感謝する僕がいる。昨今の大人達の間では相続税や法的書類の処理に囲まれながら死に際を迎える人生も多いそうだけれど、僕の認識では、親に育ててもらい共に生きてくれて、その生き方を見せてくれたそれだけで、既に有り余る程の遺産を僕はいただいていると感じている。

 ただ、そんな僕だからなのかは、別に親のせいでも環境や誰かのせいでもないのだが、現在でも僕の中では、あまりの物欲や金銭的な価値への欲求が少ないことによって、いまもこうして社会的にはうだつの上がらない生活を続けていて、孫も抱かせてあげられていないことが、本当は申し訳ないと思っている自分もいる。だけど反面、そのおかげなのかはわからないけれど、両親は他の同年代の大人よりも、遥かに若く見える。息子が落ち着かなくまだまだこんなだから、きっと安心などできずに現役として生きているのだと感じる。

 実家に帰省すると、父はいまでもなにかを作っている。夕食時のテレビ番組は、いまでは野球は一切なくなって、懐かしの歌謡番組などが多くなった。きっとこれは半分以上はチャンネルの主導権が母に移ったからなのだろうとは思うが、父は食後に居間でひとりでニュースを見ながら居眠りをしていることも多くなった。そんな父が、あの頃の時代だったとしても、ただありふれた日本のお父さんのように野球に熱心だとは子供心にも思えなかった。だけどただなんでもないような家庭のなんでもないテレビから流れていたのは、野球中継だった。きっとそんな時代で、それがただそうだったのだと思う。

 そんななんでもない家庭の思い出を浮かべると、野球の音が流れてくる。それがなぜか、いまの僕にとってはまるで、そんなどこにでもあるなんでもない家庭の音や風景が、平和や幸せの象徴かのような感覚になる。いま、自分がその頃の父の年齢になって思う。ひとりの男として、人間としても思う。父はちゃんと、父親をがんばってくれていたんだと。無論、母にも同じく思う。

 きっと誰もが大人になんかなれるわけでもなく、だけど親にはなった父や母というひとりの人間が、ただただきっとどうにかこうにか家庭を生きてきてくれたのだろう。大人とか成功だとかそんなものよりも先に、親になって投げ出さずにずっと、とにかく親として生きてくれたのだろうと思う。そんな父が、父として息子を野球に連れてきてくれたんだ。子供心にそれはとても嬉しくて、それはなぜかぎこちないかなしさのような不思議な感情もであり、それとあとそこには、独特な照れくささのようなものがあった。


 —— 球場に入り、父はビールを、僕はジュース。そして弁当の牛丼を父は買ってくれた。僕が牛丼というものを食べたのは、この日が産まれてはじめてのことだった。往き慣れていない都会のナイター観戦で、車を止めるのに手こずり遅れた自由席の僕らは、グラウンドからは遠い外野の立ち見で、遠く小さくなった選手達を、人混みの中で立って牛丼を食べながら試合を見ていた。

 立ち見でまわりは皆、僕よりも背の高い大人たちで、一人だけ背の低い中途半端に子供の僕は、人見知りのような心細さと田舎育ちで人ごみなんてあまり味わったことのない緊張感や、なんとも言えない疎外感のような、不思議なおとなしい少年のまま、大人の中に紛れて居心地の悪さを感じていた。

 だけれど、隣の父と一緒に野球を見ていることがなによりも嬉しくて、息子としてこの嬉しさをできるだけ父にも伝わってほしかったような気持ちもあって、そんな心細さなど微塵もないかのように、自分も大人として周りの皆と同じく独り立ちして、野球を楽しんでいるのだという顔を、きっと一生懸命に繕いながら保とうとしていた気がする。

 周りは皆、僕から見れば見上げるばかりの身長のざわついた知らない大きな人たちの中で、ひとりくぼんだ僕は、呼吸のしづらい空気の少なさを感じていたのだと思う。けれどグラウンドがよく見える場所を、決して強引にではなく、まるで謙虚に他人に迷惑にならぬように、父はそっと探し出し、自分よりも息子の僕をそこに案内してくれようとする父がいた。——


 そんな、その一日は、僕にはとても特別で、とてもとても嬉しい日だった。実際その日の野球のことなんて、いまではこれっぽっちも覚えてもいない。どの球団の試合なのかさえも覚えていない。それでもプロ野球の公式戦だということで記憶は充分だと思う。それにあの時代なら、どの試合も巨人戦だということにして記憶すら塗り替えてしまってもよいくらいに、曖昧な野球ファンのような強いて言えば巨人ファンだと言う人の多い時代なのだから。

 あの頃から見れば未来である現在から、大事に記憶の箱にしまった思い出を取り出し、夜の中にポッカリと光輝いたその日の球場を夏の夜空からゆっくりと遠く覗き込んだ時に、とある親子の父と息子がただ、会話も少なくただ立ちすくんで、球場の中にいたという思い出が、僕はいまでもこの上なく嬉しい。そしてこの日の思い出が、僕にとってなによりも消えない思い出になったあることが起きた。


 —— 僕は、子供の頃から現在でもたまねぎが嫌いで、その時もたまねぎを取り除いて牛丼を食べていたものだから、スチロール製の空になった弁当箱の中に、たまねぎと少しのご飯粒が残っていて、それを捨てる場所もないので、僕は手に持ったまま立って、そのまま人混みの中で試合を見ていた。

 すると突然、僕にぶつかってきた大人がいて、その大人は、そんなことも気にせずにどこかへ消えていってしまったのだが、その時僕は、ぶつかった衝撃で、手に持った弁当箱を落としてしまった。その拍子に下を見ると、大人の足がいっぱいあった。そして、僕の足元には、たまねぎとご飯粒と弁当箱が散乱していた。驚いていたその時、父は、なんのためらいもなく行動した。その時のその父に、僕は驚いた。

 父は、そんな人ごみの中に、ひとり屈んで、コンクリートの地面に散乱したたまねぎやご飯粒を、なにもないから、そのまま素手で掻き集め、拾い上げ、また弁当箱の中に入れた。たぶん、その作業に1~2分くらいのものだったんだろうけれど、僕には、もっともっと長い時間に感じた。

 大人たちの足が絡み付くほどの足元で、さっきまで見上げるほど高かった大人たちの群れの中で、いま、父だけがぼくよりも遥かに下の位置にいて、僕にとってまわりの大人たちの高さと変わりないはずの大人の父が、こんな大衆の人ごみの中で、ひとりしゃがみ込んで、落ちたご飯粒を一粒一粒拾っている。

 なにも出来ず、立ちすくんでいる僕は一瞬、周りの大人たちを見上げた。周りの人たちは、その父の行動を好奇な目で見ていて、その嫌な空気感を感じた僕は、頭の中がわからなくなってしまいどうすることもできなかった。その時、僕は、大衆である大人の群衆の中に居て、はじめて感じる恥ずかしさと違和感のような感覚を覚えた。

 でもそれには、詳しく言えば二つあって。なにもできない自分や、まわりから白い目でみられているような自分が、心細くて恥ずかしかった。そして僕はその時、ひとり地面にいる父を、同じくして恥ずかしいと思ってしまった。

 当時は特にだと思うが、野球場なんかは特に足元には空き缶やタバコの吸い殻や、いろいろなゴミが落ちていて当たり前で、街や道や自然の中でだって皆、平気でポイ捨てしているような時代だった。その後、その光景は、ずっと僕の中にあって。それから、その父の姿は、僕の生きる上での指針でもあり、僕の誇りだ。——


 思えばいつでもそうだったのかもしれないと、これを書きながらいまにして思う。父親の行為として、それは当然なのかもしれない。そうしてあの頃の僕の十代の年頃まで、子供である僕は、幼い頃から何度となく、ものを食べればこぼし、ものを持てば落とし、動けばものを壊したり、ずっとしてきたのだと思う。その度に親はなにも言わずにこうして黙って、子供よりも下方にしゃがみ込んでは、拾ったり直したり、片を付けてくれていたのだ。

 この時の僕はきっとはじめて、そのことを意識で確認したのだ。それまでに目の前で何度も行われていた状況であるにもかかわらず、きっとこの時はじめて、僕はそれを見たのだ。自分という意識ではじめて、それを知った瞬間だったのだろう。そして僕はそれから自分の人生を歩み始めて行く。自分で決めて選んで、自分で失い、また決めて。なにをしても自分で片をつけなければならない。そんなそれからのはじまりの時だったのだろう。

 こうしてあの日を思い返すまでは、ずっと自分で歩いていると思い込んでいたような僕がいた。だけれど、そうではないのだ。それまでもそれからも現在までも、まだまだきっとそんな風に、自分では気がつかないどこかで、こぼしたり、落としたり、壊したりしまくっているのだろう。それを今でも誰かが片付けてくれているのかもしれない。あの頃は見えなかったけれど、あの野球場の日まで、それをずっと親はやってくれていたのだと思う。それを知らずに、あの日、僕はそんな父を下側に見て立ちすくんでいたんだ。

 だから父にとっては、きっとあれは自然な行為だったのだろう。今でも見上げた視点の周りの大人達の画や、見下ろした時の大人の足がいっぱいにある世界の中に父がひとりいる画を鮮明に思い浮かべることができるけれど、ああやって、人様よりも下方に、自分の子供よりも下側の位置へ、自然にすぐに体が動いて、自分の息子の粗相を片付ける人。そんな父。

 あのあとすぐに、確か成長期ですぐに父の身長を超えた僕だったが、いまでも父は僕の中で、とてつもなく大きな存在で居続ける。大きくて信頼できて尊敬できる大人であって、その高みには到底追いつくことができない感覚がある。あの夏の日の野球場で立ちすくんだままなにも出来ずにいた僕が自分の膝の位置くらいの下のあたりに見えた景色、そんなあの日の父が、僕の「大人の定義」になったんだ。


 この思い出話をはじめて文章として書いてから10年後の現在。僕は大人になれただろうか。それは自分ではよくわからないが、いまこうして再びこの文章に追記をしながら私が思うのは、大人であろうと心から思う。

 そんな現在の私も数年前までは、大人なんかになろうがならなかろうがどうでもいいし人間は人間だ、子供や大人や老人などの区分けは社会的な秩序を保つ上で、あくまでも必要である概念としての定義であって、年老いても子供の自分はそのまま個人の要素として別人格のようにでも存在し続けるものだなどと高を括っていたのだが、それはそれで間違いではないのだが、しかし、今ではそんな認識は人間として誤りだったと思っている。

 どんな人間でも、どんな大人であっても、子供から見上げられたのなら大人なのだ。なにもかもがおぼつかずに大人になることを恐れるかのように自分の愛情や尊厳の居所を幼心の中にいつまでも守っていたいと思っていたとしても、たとえどんなに大人であることが不器用であったとしても、潔く蛹の殻を脱ぐかのように、人はそれぞれの春を迎え入れて大人になるのだろう。

 そう思うと、あの頃の僕は、何度もそんな春をどうにかしてやり過ごして生きていたような気もする。それこそ今にして思うのなら、あの頃はそんな春の訪れを、まるで冬のように自分で自分に思い込ませていたのだと思う。


 あの日、僕が見下ろした視界に父がいて、その父を見て、あの頃の僕は「大人」を知った。そしてあれから随分と月日も過ぎて、野球はもう全く見ることはなくなったけれど、いまの私は父になったのだ。だからあの頃の僕のように、子供から見れば私は大人であるのだから。そんな親を見せてあげたいと思う。あの頃の僕の父のように。

20110615(20180212 18:18加筆編集)
> 原文は「ボクが巨人ファンである理由。」から抜粋







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