無重力帽子

《 Unknown Knowns 〜 セルフ哲学と万物の摂理 》論ずるよりも 知るより…

無重力帽子

《 Unknown Knowns 〜 セルフ哲学と万物の摂理 》論ずるよりも 知るよりも ただ探求と想像の楽しさを徒然と綴る。アートディレクター&クリエイター&ちょっと農業&その他いろいろしながら生きています(*コメントは全て有難く拝見してますが返信はなしにてご了承ください🙏)

マガジン

  • 広告よさらば(社会系コラム集)

    – A Farewell to Ads – グラフィックデザイナーやコピーライターとして広告や商業デザインに携わり20年程で引退した元アートディレクターのつぶやき。 商業主義社会において「広告」の人間へのリアルな現象と効果について、大げさに名付けるなら『広告脳に支配された現代社会』への憂いや危機感をボソボソと綴っていきます。

  • コラム・エッセイ

    – Column & Essay – 読み切り・単体のコラムや、なんでもない徒然とした随想やエッセイ的な、つまりはブログです。

最近の記事

海よありがとう 《 3.11後からの日本を案ず(5)》

海へ来なさい震災後の一週間後くらいだったと思いますが、当時、私は大手ブログサービスでブログを書いていて、あまりにもネットの中でも皆が情緒不安定の上、あくまでも私感ではありますが、とてもひどい言葉をたくさん見ました。 海のバカヤローとかの暴言をはじめとして、中には一見は愛を表現しているかのような平和的な文面なのですが、よくよく見て見るとなにかをとても責めていて、加虐性を秘めた自己愛というか、非常に利己的とも感じる言葉が集まったものもたくさんありました。 私が感じた特徴のひと

    • 地球を告訴する種族 《 3.11後からの日本を案ず(4)》

      天災を批評する滑稽さどんなものでも…こんなものでも、一応文章というものを書くのは久しぶりのことなので、こんなまとまりのないものでも、書いていくうちにだんだんと自分の特徴を掴めたり、肩慣らし的な練習のような気持ちでいます。 そうこうして今回で第4回目です。特にふたつ感じることがあります。ひとつは「本当に集中できていない文章だな」というのが嫌になるくらい自分で把握しています。このことはまた、次の機会になんらかの検証をしてみたいと思っていますが、いまの自分では確かに、そこまで集中

      • 加害者なき提訴と被害者ありきの正義 《 3.11後からの日本を案ず(3)》

        感情主義的社会構造本当は一回だけでまとめて掲載したかったのですが、結局、あれもこれもと迷いながら書いていたら、結論にも行き着かずにまだまだ彷徨いそうな気配がするので、三回目である今回からは、もうまとめようとせずに、ただただ連載していこうと思っています。とはいえ、べつに文字数制限があるわけでもないのですが、10回以内では終えたいと思ってます。 総合タイトル的なものを設定すべきですが、それさえも徒然とどこへ向かうか、構成すら無いので、最後まで書いてから、必要を感じたら設定しよう

        • ただ生きているドラマ 《 3.11後からの日本を案ず(2)》

          ただ「生きる」というダイナミズム前回の「朝顔を見ながら」を書いて投稿した翌日の3月10日、録画しておいた「監察医 朝顔」の最新話を見た。お母さん(里子)の遺骨がついに戻ってきて、本当によかった。“他人の骨(歯)を本当の遺族に返したら、戻ってきたんだね”と、見ながら家族と話した。 そういうところ。本当にこのドラマはちゃんと描けている。こういうことこそが本当に“自然”なんだ。きっと現代の多くの人間がそういうのを奇跡と呼んでしまうことだろうけれど、生きていると自然はこういうふうな

        海よありがとう 《 3.11後からの日本を案ず(5)》

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        • 広告よさらば(社会系コラム集)
          45本
        • コラム・エッセイ
          2本

        記事

          『朝顔』を見ながら 《 3.11後からの日本を案ず(1)》

          とけてきたこれを書いているのは2021年3月。東日本大震災から10年が経過したことに、感覚的に驚きを覚えています。私なりに強く思うことがあって、そんな話題を今回は書こうと思っていたのですが、数日の間、書こうかな?やっぱりやめたほうがいいかな?と、答えは出ませんでした。 止める気持ちがあるということは、やっぱり時期尚早ということなのかもしれません。私は被災者ではありませんが、しかし、10年経って、やっと見えてくる風景があるのも事実なんです。こんな私でも、なにかが心にあるんです

          『朝顔』を見ながら 《 3.11後からの日本を案ず(1)》

          「モノ」 時間泥棒を追って(4)

          今回は、本当は主題的にもっととっておこうと思っていた「モノ」についてです。昨今では、まるで時の速度が早くなったのではないかと感じる程に、「物」も「時」も、移り変わっていくような気がしています。 ここで言いたいのは、とても単純な話だ。それは結論「物は時間を使う」ということ。人間視点から言えば、擬人法的な表現で「物が時間を奪う」または「物は時間を喰う」のだ。 とても私的な話ではあるが、ひとつの仮説をここで発言しようと思う。 「時=光」そして「物体=光の残像(または、光の止まっ

          「モノ」 時間泥棒を追って(4)

          「無駄」 時間泥棒を追って(3)

          「いやぁ、テレビ見てたら、あっという間にもう夕方だよ。」 「昨日、ネット朝まで見ちゃって、今日は眠いよ。」 学校で、職場で、一度は聞いたことがある言葉かもしれない。そして、その発展版とも言える発言もある。 「なんか、深夜の通販番組で商品買っちゃったよ。」 「なんか、あの事件って、ホントは○○が××らしいよ。」 何を見たいわけでもなく、チャンネルやリンクを辿って、いつのまにか、時間が過ぎていること、たぶん、誰しもが経験していることだと思う。 企業であれば、ネット自体を禁

          「無駄」 時間泥棒を追って(3)

          「風景」 時間泥棒を追って(2)

          「駆け込まないでください!」「少しでも空いているドアへおまわりください!!」「無理なご乗車はお止めください!!!」 ── 毎朝繰り返される風景。事故や確認で、電車が長時間止まると、必ずホームや改札で見られる風景もある。 『どうしてくれるんだ!』「○○線で○○駅でお乗り換えください。」『責任をとれ!!!』 ── その口論を横目に、多くの人が改札を足早に抜けていく。急いでいるのなら、そんなところで過失のない駅員さんを責めてないで、早く歩いた方がいい。大体、過ぎてしまった時間

          「風景」 時間泥棒を追って(2)

          時間泥棒を追って(1)

          十年以上前から、ずっと読みたかった本がある。ミヒャエル・エンデ著「MOMO」である。世界的ベストセラーである本作は、もうすでに不朽の名作の棚に並んでいて、今更おいそれと手を出しにくいとも思える作品だった。 私の世代から言えば、ミヒャエル・エンデの名は知らなくても「ネバーエンディング・ストーリー」は、知らない人間はいない。 当時、小学生だった私が記憶にあるのは、テレビの映画番組による日本語吹き替えの放送。そして小学校なのか、中学校かは、忘れてしまったが、全校生徒でステージの

          時間泥棒を追って(1)

          「儲かリストの純真」 商業主義社会の常識

          「さよなら商業デザイナー」として約1年余りにわたり、私個人のグラフィックデザイン委託制作業務の引退に関する心情等を書いてきました。もちろんすべての気持ちや要点などを書き表せたわけではないですが、予定よりは遅延の末、晴れて退くことができましたので、ここでこのテーマの話題はある意味で最終話と致します。 最後に書いてみたいのは「儲かる」ということについてです。 おわかりだとは思いますが「儲かる」とは言っても『儲かるための10の方法』だとか『儲かってる社長は○○が違う!』や『儲か

          「儲かリストの純真」 商業主義社会の常識

          無計画にすゝめ 《さよなら商業デザイナー(29)最終回》

          委託制作デザイン部門の引退後の半月間は「気ままにデトックス雑記」と称して、引退直後にしか出て来ないだろう気持ちや文章がまだ余韻のように自分の中にあるだろうとも思ったので、一年前あたりから書き始めた「さよなら商業デザイナー」という文章の流れに続き「さよなら商業主義社会」という題目で、最後に残った内容を書き出して、前回が最終話となりました。 なぜ前回が最終話にしたのかというと、それは最近の見出しに使用していた「ゆで卵の画像」があれでおしまいだったからです(笑)あの写真は、それこ

          無計画にすゝめ 《さよなら商業デザイナー(29)最終回》

          循環 〜 ものを大切にするということ 《さよなら商業デザイナー(28)》

          以前の「綺麗にして土に還す。」という内容の文末で、長年望み続けて来た委託デザイン制作業からの引退日の前夜になって「わかった!」と言いながら、書いてなかったことを今回は記すことにします。きっと私が辞める理由の中で、「もうこれ以上やることは避けたい」と思えるような、実はこれが一番大きな理由なのではないかと思うことです。 これはもちろん一般論にも値しない話で、万人共通の内容ではないとは思うのですが、しかし社会の中で出会った一部のお客様に共通に感じていたことです。そしてこれはあくま

          循環 〜 ものを大切にするということ 《さよなら商業デザイナー(28)》

          社会から引き退き自然の儘に還る 《さよなら商業デザイナー(27)》

          前回の「商業主義社会からの引退」という表題について、この表現「引退」ではなくて『商業主義からの脱却』などでもタイトル的にはコピーとして成立するのですよね。それにきっと『脱却』のほうがキャッチコピーとしての印象としては文章も読んでもらえるかもしれません。つまりは広告的視点で言えばそうかもしれないのですが、しかし前回の内容で述べましたが、あくまでも「私が勝手にそんな社会に自ら入っていた」のですから、この場合は「引退」なのです。 唐突におかしな話題から書き始めましたが、このポイン

          社会から引き退き自然の儘に還る 《さよなら商業デザイナー(27)》

          さよなら商業主義社会 《さよなら商業デザイナー(26)》

          さよなら商業デザイナー本当であれば「商業主義社会」ではなく『(現代)資本主義世界』という題目をつけるべきなのではないだろうかとも思う私も確かにいる。しかしいま現状では、そこまで追及する必要性を感じていない私がいるということのほうが感覚的に「近距離」に感じている。 第一章として「さよなら商業デザイナー」という表題にて、実際に私自身が商業デザインの受注制作を引退するまでの心情を重ねて書いてきました。 【さよなら商業デザイナー】「辞めたい人」の不都合な心理分析という感じでした。

          さよなら商業主義社会 《さよなら商業デザイナー(26)》

          商業社会のおける肩書きの罠(後日談) 《さよなら商業デザイナー(25)》

          「ブランディング」という名の罠先月末日で商業デザイナーを辞め、無理矢理にでも期日通りに形式上ではりますが、商業デザイン業務を廃部させていただきました。その上で「さよなら商業デザイナー」という引退に対する文章のあとがきも書いて、終わったわけですが、現実は、今も残務的なこともまだあるものです。そんな中、次の展開の準備や考えなどもまとめたりもしています。 今回は、後日談として、ひとつだけ追記しようと思いました。辞めたのだから心機一転、様変わりして、商業主義的な事業と差別化を計る為

          商業社会のおける肩書きの罠(後日談) 《さよなら商業デザイナー(25)》

          理解と同意は別物 《さよなら商業デザイナー(24)》

          前回の内容にあったように、しばらくは気分次第に、徒然と思い浮かんだものを吐き出すように書き出してしまおうということで、少しだけこれまでよりも、こうして書いたり発言したりする内容も、ある意味で自由になっていくと自分では思っています。制限なんて別に無いのですが、個人的な性分として、自分の中でモラル的にやはり一線が存在してしまうのですよね。(こんな私でも…) これまでの委託制作という職業上、様々な業種や個性や、時には独特な思想をもった不特定多数のクライアントと期間限定だとしても、

          理解と同意は別物 《さよなら商業デザイナー(24)》