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加害者なき提訴と被害者ありきの正義 《 3.11後からの日本を案ず(3)》

── 前回「ただ生きているドラマ」の続きです

感情主義的社会構造

本当は一回だけでまとめて掲載したかったのですが、結局、あれもこれもと迷いながら書いていたら、結論にも行き着かずにまだまだ彷徨いそうな気配がするので、三回目である今回からは、もうまとめようとせずに、ただただ連載していこうと思っています。とはいえ、べつに文字数制限があるわけでもないのですが、10回以内では終えたいと思ってます。

総合タイトル的なものを設定すべきですが、それさえも徒然とどこへ向かうか、構成すら無いので、最後まで書いてから、必要を感じたら設定しようと思っています。


取り上げたい話題もあるのですが、やはり「災害」に触れての話題ですので、どうしても「書くべきか?書いたらダメか?」という、つまりは誰かを傷つけてしまうかもしれないということや、異論や誤解などをうけて責められてしまうかもしれないということなど、常に『これは大丈夫だろうか?』と迷ってしまう話題なのです。

このサイトを誰も見ていないということは承知の上ですけどね(笑)それでも独り言やつぶやきでさえもやはりリテラシー以前にデリカシーはとても大切だと思っています。その上で現代では、意に沿わぬことには、他人が口を出すどころか、無関係の第三者が「謝罪しろ」「責任を取れ」などと干渉もしてくるほどの時代性です。無論、そこで学ぶべきは、自分の言動の至らなさであることは確かだとは言えます。


前回の「ただ生きているドラマ」でも触れていますが、ある意味で「正義」や「平和」といった、謂わば共通概念に対しても、そのような同調圧力的な社会構成を時代性として昨今ではとても強く感じます。しかし、その基準は、共通認識としての「法」や「ルール」などの基準や規則があるわけではなく、あくまでも個人的感覚ですが、そこには捉え方も表現方法もインプットもアウトプットも、とても感情的で、感情主義の域から逆に理性や常識を利用しているようにも感じてしまうことが多いです。

先述の内容に続くのなら、日本人が「生きる」という根底の理念を失ったいま、ベースのプログラムやシステム自体を失った上にコマンドだけが発生するわけですから、もうそれこそ自我的な感情や反射的な感覚での反応として、すべてを認識するしかない状態に陥っているとも定義可能なのではないかと思います。


アンテナショップ乱立のような話

当時、東日本大震災後から2週間から1ヶ月くらい経った頃だったと思いますが、同じタイプの案件のご依頼の問い合わせが数件続きました。プランが明確であったものを除き、ほとんどの案件を辞退させていただきました。

それらの内容がどういうものだったのかと言うと「商品の売り上げから東北へ寄付する通販ショップブランドを起ち上げたい」「福島の工芸品や生産物を世界中に発信して売りたい」など、皆さん同様に同じお話をされていました。

私からの問いとしては「日本中や世界中に優れた品は溢れるほどあるのに、どうして福島だけなの?」「それって本当に優れた御品なの?」「なぜ世界に向けたいの?」など、そういう質問に対し、答えは皆共通で『助けたい』などの支援や復興を言葉では語っていたのですが、私からはあえてあまり語らずに、お断りいたしました。しかし、その中でひとつだけ話したことを覚えています。


それはつまりは「私の考えは逆なんです」ということです。戦後の日本人はどうしても“海外で認められる”というステイタスをずっと持っています。それも西洋圏の一部の国で認められるという方向のみの視野です。では南米では?インドには?アフリカ諸国へは?という視点はあまり存在しない。

海外や国内でも県外の品を取り寄せるという行為こそはとても世界が豊かになった証拠でもあるとは思いますが、どうして「売り」に出てしまうのか?そう、私の考えは逆で発信や紹介はした上で、なぜ「買い」に来てもらおうという思考に及ばないのか?という考えなんです。

本当に福島の工芸品が世界一に優れているのなら世界中から買いに来るんです。それこそがブランドなんです。日本人の思考にあるステイタスは、ひとつ間違えれば「安売り」なんです。その土地だからこそわざわざ足を運んで来る。それが観光的にも発展に繋がるんだと思うのです。


そしてもっと重要なことがあります。そうしてわざわざ出向いてまで安売りをした結果、日本の技術や発明、そしてある意味で「魂」まで、模倣され盗まれてしまった。それが現代の日本なんです。

本当に、あなた自身が福島の品に本当に惚れているのなら、きっとやろうとすることは、そういうことじゃないと私は思う。被災地で大変な状況であることは間違いないですし、やるべきことはやるべきですが、ある意味で震災をブランド化してまでやるべきことなのか?それらの製作者や生産者は本当にあなたに売って欲しいのか?

そして、それ以上に、あなたにできることはまずもっと目の前に、きっとたくさんあると思う。それこそなりふり構わず助けたいのなら、その意志を感じるなら私だって応えたいと思うかもしれないけど、たぶんここでかかるコストをそのまま寄付したほうがいいのではということも一回は考えてみてほしい。それ、あなたが本当にやりたいことなのかどうか?


「イイコト」を求めたがる人々

震災直後に日本中の都道府県から個人個人で被災地に来てしまう人が増えすぎて、各個人が各々で車で来て大渋滞が生じてしまい、救助に来た各機関の車両や物資が届けられないなど様々な問題が生まれ困っているという事象がありました。

私の知人でも「みんなで福島へ行こう!」といちはやく電話してきた者もいました。私が冷静に断ったら「じっとしてられない!たすけになりたい!」って、むしろお前が求めてるのか!?と言いたくなるような発言をしていました。たぶん私は「人でなし」に認定されたかもしれません。

先ほどの依頼があったという話に戻りますが、それらの案件には、実はもっと決定的な特徴もあるのです。私は、その場ではその件については一切触れずに、帰って来ましたが、皆が皆、自分のおかしさに気がついていないのなら、人間とは大方、そのようなものなのだと言えてしまうかもしれません。

その特徴とは「これは復興支援の事業です。だから、○○さんもボランティア精神でご協力お願いします。」と、とても意義をもったかのように、平気な顔で言ってくる。これには、本当に驚きました。そして学びました。

みんな何って、救援でも意義でも大義でも、はたまた生き甲斐でもやり甲斐でも生きる意味でも情熱でも、本当はただ自分がやりたいと求めている(誰も頼んでいませんからね…)のに、とにかく「“イイコト”をしている」という画になっているんです。じぶんだけじゃできないからからこそ人に頼んできて“イイコト”だからタダでやって… と他人にまで求める。私は顔には出しませんが、それこそ心底で唖然としてました。

… すみません。ちょっと言いすぎているかもしれませんが、私はこの「イイコトシンドローム」による「イイコトファシズム」が、3.11以降の日本に蔓延してしまったと感じています。そしてそういう場合の「イイコト思考」の活用形には、ある原理が存在すると思っています。

そう、それが“感情主義”による「被害者意識」です。また、つまりは「イイコト」をしなければならない理由として、社会や国家や世間や家族でも夫婦間にでも、常に、そのような人の世界では『ヨクナイコト』や『ユクナイモノ』が存在している世界構成になっているということです。


被害者たちの定義

先ほどの話ですが、誤解を避けるためにも言いますが、なにも「タダの要求」がいけないということではないですからね。熱意や条件やそれこそ魅力があるのなら、タダや分割や出世払いで構いませんし、こちらから出資することをお願いをすることだってあるわけですから。

ここで問題にしているのはタダではなくて「善意の強要」という謂わば『同調圧力』なんです。

「絆」や多くのボランティアによる支援や瓦礫受け入れや、様々な実際のたたえるべき事実や本当に心温まる出来事、ましてや多くの人々の努力や苦労があって、復興はまだ続いています。ここでは、なにもそういうことに対して、水を差したいわけではないのです。

ただ、ここでは、また別の観点から考察してみたいと思っているだけですので、どうか、自分や世間一般と違う話をする人がいても、どうか拒否したり否定したりという圧力をかけないでくださいね。しかしながら、当内容などでお気を悪くされる方がいらっしゃいましたら、どうかご容赦ください。

そうこうしてお請けした案件も中にはありましたが、早ければ1年後には機能していないものも出て来ます。そして2〜3年後が経過してお話をうかがってみると「あー、あの寄付金付きのやつね。あれ儲からないからやめたよ。」って、平然と話してきた方もいて、再び驚かされました。

結局、言葉ではきっと自分自身も思い込んでまるまる勢いに乗っていたようなものなんでしょうけれど、正直、流行と同じように、震災ブランドとしての、震災ビジネスモデルだったのですよね。本当に、自分自身でそのことに気がついていないのだと思います。悪気などはもちろんないのでしょう。

ここで着目すべきは、前回や前々回の記事内容にも通じる結論ですが、こんなにも“自分のない人々が大勢いる”ということだと思うのです。しかもそういう人間の方が大多数なんだと。

きっと自分で自分の選択や人生を選んでいる気でいるのだと思います。自尊心にしても自分は正常だと思い込んでいる。しかし、実際はその都度流されているのかもしれません。時には時代に、時には多数決的な常識に、そしてまた時には流行的な正義や平和や幸福の形に。そうして、自分では気がつかない間に、満足も不足や不満や不安さえも支給されている。

そして、その集団的正義や平和や絆の形について、震災のあとには、良くも悪くも大きく変わったというか、根強く確定化された、それは概念や集団的意識の固定化というよりもきっと、思考停止に近いものだと感じます。

その後、多様性なども普及しはじめましたが、なぜかそこには「弱者の怒りの権利」のような、非常に恐ろしくも感じる思考回路を感じざるを得ません。そして、その頃から、まるで「○○でなければイイコトではない!」という社会が出来上がった気がします。

つまりは、とても滑稽に思うのですが「多様性を認めない者は“認めない”!」という正解不能な公式がまかりとおるのです。それは同時に「強者は弱者を脅かす“ヨクナイモノ”」という図式に展開して「だから、弱者は強者を責めて良い」という強引な解答を強要します。

そしてそんな「イイコト」に賛同しないヨクナイモノたちは、どうなるのかというと自動的に「加害者」にさせられてしまうのです。被害者と異なる者や被害者に賛同しない者が必ずしも加害者であるということではありません。ましてや、被害者だと自称する者が本当に被害者だということに関しても、それは不明なのです。

ただきっと、現在の被害者の定義を見出すのならば、それはきっと「傷つけられた者」ということになるのではないでしょうか。(※あくまでも言っておきますが、この被害者というのは「被災者」を差しているわけではありません。)

震災のショックという意味では多くの方が被害者です。感情的になにかを訴えたい気持ちになりもどかしくもなった方も多いことでしょう。しかし、この場合の加害者は明確には特定できません。それでも一部の人々は、なにかに向かって提訴をしていた気がします。そしてその頃から、提訴こそが正義のような風紀的正論のような発言が増えてきたのではないかと感じています。

—— ちょっと過剰に展開しすぎかもしれませんが、つまりは、3.11の震災以降は、そういう傾向が強くなったように感じているということです。そこで思うことがあります。それは次回へ続くことにします。

つづく ──

20210315



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