![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/149464701/rectangle_large_type_2_894952432c139dcadd34f997c7bd0f8b.jpeg?width=1200)
時間泥棒を追って(1)
![](https://assets.st-note.com/img/1722660615840-c6ylKTygtC.jpg)
十年以上前から、ずっと読みたかった本がある。ミヒャエル・エンデ著「MOMO」である。世界的ベストセラーである本作は、もうすでに不朽の名作の棚に並んでいて、今更おいそれと手を出しにくいとも思える作品だった。
私の世代から言えば、ミヒャエル・エンデの名は知らなくても「ネバーエンディング・ストーリー」は、知らない人間はいない。
当時、小学生だった私が記憶にあるのは、テレビの映画番組による日本語吹き替えの放送。そして小学校なのか、中学校かは、忘れてしまったが、全校生徒でステージのスクリーンで観た記憶がある。
後にミヒャエル・エンデ自身は、この映画のラストに納得がいかず、訴訟までも起こしていたが、彼は単純に童話を描いたわけではなかったと、一部、私は解釈する。
大人になった今でも、実のところ私は、だいのファンタジー好きの部類である。「はてしない物語」をはじめ、ミヒャエル・エンデの作品は他にも多数読んだことはあるが、ずっと今まで、「MOMO」を読むタイミングに出会えずにいた。
そんなここ最近、私自身の心の流れもあるのだが、自分を取り囲む環境に、ミヒャエル・エンデが何度も登場し始めたのである。これを機会に、私は何冊かの本を買った。その中の一冊が、これである。
書店などで見慣れていた装丁とは異なるのだが、今、ここに「MOMO」がある。写真が反射しているのは、まだカバーのまたその上側を包んでいる透明パッケージを破いてもいないからだ。
たぶん、かなりの方が既にこの物語には出会っているのだと思う、そんな皆さんから見れば、「おいおい、そんなに勿体つけて、今更そんなに大袈裟に語り出すほどのものかい」とでも、思われるかも知れない。しかし、私にとっては、まだ未知の物語がここにあるのである。
目の前に大きな魅力的な森が現れたのだ。この森の奥には、ヒスイの色をした湖があるかもしれない。その向こうからは、今までに聴いたこともない歌声が届き、夜になると天上の星が降り、降りたその跡を覗き込むと、そこには・・・と、まるで、そんな幼少期の境界線のない冒険がここに、目の前にあるのだ。
と、言っても、少しだが私は「モモ」の物語を既に知っている。しかし、知っているとは言っても、ごくごく僅かな予告編的なあらすじだけを過去にどこかで見聞きし、それを知っている。間違っているかもしれないが、それを書こう。
── ある街に突然「モモ」という少女が住んでいた。(この“突然、住んでいた”という表現は、とてもおかしいのだが、それがふさわしく感じる。たぶん、突然現れた。という表現なのだろう。)
その街はとても平和な街だった。ある日、その街に全身黒づくめの男たちが、これまた突然現れ、街の住人に、ある質問をしてまわる。確か、「何をしてる?」とか、そういった質問だと思う。そして、住人たちは普段の生活を話し、それを聞いた黒ずくめの男たちは、「それは長すぎる、その用事を短縮しろ」と、住人たちに伝える。
いつのまにか、その街の人たちは、幸せを失っていく。その男たちをモモは、「時間泥棒」と呼び、モモは、黒ずくめの時間泥棒と戦う? -----
間違っているかもしれないが、私が見聞きして、認識しているのは、こういったものだ。どうなのだろう。この通りなのだろうか、そして、この後どうなるのか?
早速、封をビリビリに破き、表紙の扉を開けてその街へと旅に出たいと思うところだが、読んでしまって結果、私の書くこの文章が単なる読書感想文になってしまう恐れもある。ならば、いっそのことまずは読まずに、書き始めるのもいいだろう。
そう、私は別に「MOMO」についてを書いていこうとしているわけではないのだ。私が書こうと思っているのは、人間が生きていくこの世界、そしてこの次元において、ある意味で「時間」というものの正体を突きとめたいのだ。
だとしても、こう宣言してしまっては、まるで物理学の世界に突入してしまうことになる。私の半生を通して不自由にも自由にも思える自身の特長のひとつでもある“無学である自分”として、いつでも重要なのは空想や妄想とも言える想像力や自然を自然として捉える感受性であって、私には科学的な実証社会には縁がない。
ならば、日頃感じている日常の時間について、そして人間が生きる上で感じる時間についてを、堂々とも、滑稽に、語りたい所存である。
![](https://assets.st-note.com/img/1722660649739-fgau2UTBhC.jpg)
そうだな。いつ「MOMO」を読み始めようか。書き終わったらがいいか、それとも、ある程度の中間あたりで、いや、中間と言ってもどこまで進むかもわからない、ならばいっそのこと、と、まさにこんな思案これこそが、時間の無駄である。
人はこうして、現実ではなく、もしかすると人生の大半を、延々と頭の中で時間を過ごしているのかもしれない。その時間に質量はあるのか。そして、それは計り知れるものなのだろうか。
永遠という時はあるか。それでは「時」とはなにか。または「時」とは本当に「在る」モノなのであろうか。忙しい現代においても、時は一定の速度で進んでいるのだろうか。時間等は結果としての記憶の体感としての錯覚でしかないのではなかろうか。
と、そんな妄想にこそ向き合いたいものだ。事実に基づいた論や、どう書いたって偏向的になってしまうような情報などもどうでもいいではないか。ましてやそんな妄想的な時間が誰かや世界のためになって、金銀や品物などの対価として時給計算して人生の価値を計算し、それを無駄な時間だと計るための、いったいこの世界や命のどこにそんな定規や秤があるだろうか。
ここまで書いておいて、読まずに私は死にたくはない。この世界の殆どの人間の感覚では時間は有限であると思う。個人的視界から見たその「時間」とは、せいぜい個人の人生の「間」を定義するものでしかないのかもしれない。
その時を待てばいいのだ。いずれその時は訪れる。そもそも「時」とはなんなんだ。時間泥棒が街の人々から、奪ったものはなんなのか?時間泥棒とはなんなのか?
大風呂敷をひろげてみようと思う。
20090401 3:17(当時のMacbookProの写真が妙に懐かしいです。そして現在2024年8月、まだ「MOMO」は、読んでいません。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?