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「儲かリストの純真」 商業主義社会の常識

「さよなら商業デザイナー」として約1年余りにわたり、私個人のグラフィックデザイン委託制作業務の引退に関する心情等を書いてきました。もちろんすべての気持ちや要点などを書き表せたわけではないですが、予定よりは遅延の末、晴れて退くことができましたので、ここでこのテーマの話題はある意味で最終話と致します。


最後に書いてみたいのは「儲かる」ということについてです。

おわかりだとは思いますが「儲かる」とは言っても『儲かるための10の方法』だとか『儲かってる社長は○○が違う!』や『儲からずにいられない☆お金の引き寄せ術』『AI時代に勝利するこれからの儲かる業種30選!』とか、そのようなことは一切出て来ないので、きっとそういう思考の方にはかえって邪魔になる話の内容になると思いますから、読まないほうが良いと思います。

零細企業とは言え一応法人ですから、時折、新事業や業務提携や協力や共同経営などのお誘い話も舞い込んだりもしますし、資本の支援や協賛などを求められることもあります。その度に「どうして私なんかを誘うのだ?」と、まずなによりも私を誘ってしまうことに至ったその思考に対して、その方の素質の無さを感じてしまいます(笑)もちろん丁重にご遠慮させていただくのですが、基本的にそのような方へは「私の本音を言っても理解しないだろう」と、私は思ってしまっています。

なにせ私はことごとく社会不適合な思考の人間ですからね(笑)以前の内容「商業主義社会からの引退」で前述したように、多くの方とは殆どのことがいつも別の考えや見え方なのです。その度に本音なんぞ言おうものなら、いちいち敵対してしまうのも怖いので、ある意味で常に「社会の常識」に添った脳みそをちゃんと用意している(つもり)のです。


東日本大震災直後の頃、そのような方は特に多かったです。その頃は特に新規事業を興す方が多く、これまで起業などには一切関係性がなかったような方が多かったですね。たぶんあの頃は全国的にそのような若者なども多かった頃だと感じます。そして全てお断り致しました。ほぼ全員が同じ内容でしたね。わかりやすい例としては『日本の(東北地方の)伝統工芸品を世界(国内外)に発信して販売したい』というような内容です。

自分よりも若年層が多かったですから、すべてお聞きした上で皆に同じ質問をしました「どうして海外へ発信しなければならないの?」「既にあなたも認める程に皆が周知の素晴らしい技術だったり作品なのでしょう?」「なぜ東北限定なの?その職人さんはそれを望んでいるの?」「それは本当にあなたがやらなければならないことなの?」というようなことを訊ねると、誰一人として全うな返答があった方はいませんでした。その方々の気持ちや動きたくなった心意気などはもちろん私も重々、理解した上での質問です。

そしてお伝えしたのは「本当にそれをあなたがやりたいのであれば、これまででもこの先でも、いつでも出来ることだと思います。」ということでした。あれから何年もの歳月が経ちましたが、その中の誰一人として、その事業を起ち上げた者はいませんでした。

その時ひとつだけ私の考えも話したことがあります。それは「私は逆だと思うのです。本当にその土地の匠とも呼べる事物があるならば、それをブランド化したいのならば、輸出などせずに、その土地まで世界中から足を運んででも来させるようにすることのほうが大切だと思う」「あなたの考え方は安売り戦略と似ていて、最終的にはその土地も品質の価値を下げてしまう可能性がある」という私の本音の考えも伝えました。


また同時期に別のお話で、社会への提供と還元を目的に起業した方の事業で「寄付金付き商品」の販促関連のご依頼がありました。信頼する友人の紹介だったのでもちろん引き受けたのですが、その時の言葉を私は一生忘れないとは思うほどに今でもたまに思い出します。

「この事業はボランティアの気持ちで多くの利益を被災地へ寄付してしまうのです。だからあなたも安く引き受けてください!」という発言を、まるで私を責めるかのように発言されたので、結構大きな案件でしたが友人の紹介なのではじめからかなり値引した見積書を用意していた私は、見積書を持ったまま一時固まってしまいましたね。

数年後に別件の相談の電話があり、その時にお訊きしたら、明るい口調で「あれは儲からないからもう辞めます」と仰っていました。そしてご意向に添って、全リニューアルを行いましたが、その時の改案や改装にかかった制作費をはじめから丸々全額寄付していたほうが、よほど高額だったであろうに、という言葉はもちろん私は口にはしませんでした。


しかしそれもまた面白いというか、人間とは面白い方が多いなという気持ちも私の中にはあるのです。「なんだ。儲かるためにやっていたのか。」と、これもまた純粋に現代人らしさのように思えるのです。

そんな言動を後先考えずにしてしまったり、なぜかあの頃そんな風に起業したり活動をはじめる人々が多かったのも、これもまた流行のままに、社会の「常識」や「イイコト」とかに対して、いかにも「自分のこと」として、ある意味で盲目に率直に行動や活動を起こしてしまえるのですから、とても純真だとも言えるのです。

そして結局は「儲かる」ことができなければ、たとえどんなに「イイコト」であっても、その社会の中では続けてはいけないという、それもルールに従順に沿った生き方なのです。しかし継続を断念したそれが本当に「イイコト」であったのかは誰にもわかりませんし「イイコトは儲からない」ということでもありません。

また、儲かって継続する為には「ヨクナイコト」さえも時にはおかさなくてはならないなどと言う人も稀にいますが、それもまた限定はできないことです。もうひとつだけそんな話の続きとして、世間話をしましょう。


そういった謂わば個人規模の方ではなく、既に実績のある事業家のような方からの話もあります。「○○を新規にはじめようと思うけど、共同で一緒にやらないか」などが多いです。その「○○」に興味が無い場合は、私はお断りします。なぜなら私の性質上興味が無いことをやる程、生きていて苦しいことは無いですから、そんな苦行にわざわざ飛び込もうとは思いませんし、興味が無いのでわざわざ勉強もしないでしょうし、それでは迷惑をおかけするだけですからね。

しかし、そうするとこういう言葉が返ってきます。「○○はこれから来る」「○○は今ならまだあまり誰も手をつけていない」「○○は儲かる」と、ほぼ必ずそのような話になります。無論、私であってもそんな時勢は既に把握した上で断っているのですけどね。やらないからその時点で私の知識と思い付く展開図やアイデアを伝えるようにしています。大抵、その方の構想以上の内容をいくつも提供できたりもします。そりゃあそうなのです。その方の目的は「○○は儲かる」といういかに儲けるかという視点なのですから。

そうすると「そんなに知ってるのなら、是非一緒に!」と、何度か繰り返した上で、やはり断り続ける私に最後に返ってくる言葉は「儲かるのにどうしてやらないの?」と、そういう時は、ほぼ皆そういう反応になるのです。心の中では、この人に本音を話したって伝わらないよなぁと、ここでもそんな諦めが沸き上がってきます。

そんな問答などもあると、やはりどうしても思えてくるのです。以前の「商業主義社会からの引退」の内容にあるように、私のほうこそがこの社会に不適合な異質な存在なのだと。そして思うのです。そうなるとつまりは、私がこの社会の中で「非常識」であり「ルール違反」であり、謂わば「秩序を乱す者」なんだと思えてくるのです。


まだ若く、いまよりも未熟であった頃は、まるでかつてのロックやパンク的な精神のように反社会的なカルチャーとして表現をしていてもよかった頃もありましたが、いまにしてもう、そんな無責任なことも良いとは思えなくなっている現在の私がいます。そこで思うのです。そう簡単な話なのです。

「私のほうこそ離れよう」「一緒にいたら両者に不利益になる」と思うのです。そしていかにも自然に静かに離れようとすると、そうもいかないこともあります。『どうして辞めちゃうんですか』『もっとがんばりましょうよ』『もったいない。一緒にもっと大きくなりましょうよ』『逃げるな』『負けるな』などの言葉を頂戴することもありました。

そこでいつものように笑顔で「そうですね!ありがとう!がんばっていきましょう!」と、応えたい気持ちに流されそうになるのが人間ですよね。まるで応援してくれたり、まるで共に歩んでいるかのように、そんな声や存在というのは、人として確かに心の支えでもあり、とても励みになるものです。

しかし、今回はそれもがんばって断り続けて、やっと引退したような気持ちがあります。他者はどう見るかはわかりませんが、そんな社会上の普通の常識的なレールの上から見れば、きっと私の行為は「脱線」とか「離脱」という、いわば『敗北』なのでしょうけれど、私にとってはこれは「前進」なのですから。

でも、ここで事実を書いちゃいます。そういった謂わばこの、一人の人間が前進しようとする場面で、その足を『止める』言葉を言う人のほうが、最後にあれやこれやとここぞとばかりに自分の都合を押し付けてくるという、とても面白い人間模様の有り様をこれでもかと見せてくれました。最後に良い勉強をさせていただいたと思えました。ありがとうございます。


そしてこれが「さよなら商業主義社会」という題目にしての本文としての最後の内容になります。長々とまさに現代社会とも言える「商業主義社会への批判」を書いてしまったのかもしれませんが、最終の見解として、実は逆だったのだと今では思っています。要は「私こそがこの社会に不適合」だったのです。先述した様々な例えなどに当てはまる社会人やビジネスマンの方々とは、きっと「社会に真っ当に生きている」方々なのです。

何度か異業種交流会や経営者会のような、謂わば社交の席にご縁があり出席させていただいたことがあります。事業家や経営者や士業の方々や銀行や保険関係の方々も多く、そこでの司会の方の最初の発言がいまでも残っています。「儲かること!皆さんが儲かって幸せになることが何よりものこの会の目的です!」その言葉を聞いて、私は呆然としてしまいました。

こうして吐き出しては自分自身でこの内容を確認してきたのですが、いまにして思えば、そうだったのです。私は「儲かる」ということを目的になど人生で一瞬たりとも思ったことが無かったのです。きっとこれを読んでくれた方も、この私の発言には驚くかもしれませんが、私は儲かることを考えたことがありません。私が生きて私であるこの私は儲けるということに対して全く持って無関心な生き物だったのです。


彼ら(あえての表現です)は、儲けることをやりたい方々なのでしょう。そんな彼らの世界である商業社会とは、商業主義という「儲かる主義」言うならば『儲かリズム』という思想と意義に忠実に努める、とても正しい『儲かリスト』達なんですよね。その彼らは、そうなのです。この社会といういつからか意図的にデザインされた社会の構造の中のルールをただただ真っ当にに生きている、常識的でとても純真な方々なのだということです。

個人的なことを言えば、自然の中に生まれ植物や農作物を作ることを見て育ち、私は幼少時から絵を描くことが好きでした。音楽を作ったり、物語を考えたり、詩作をしてみたり、映像を作ったり、ショーや舞台の演出を考案したり、そんなことがいつのまにかそのまま創作やデザイン制作業としても活かされてきました。ただそのまま職業にもなっていったのです。

根本から違うのか、そうではなくある時点から観念や世界観のように目的が異なったのかはわかりませんが、ここに来てバカらしい程の大きな違いに気がついた、それこそ馬鹿な私です。

そうとは知らずにそんな「儲かリストの純真」な生き様である「この商業社会の常識」に対して、私が勝手に絡んでしまっていたのかもしれないわけですから。ただただ、棲んでる世界が違かっただけのようなものなのです。だから棲み分ければいいだけだったのです。


私は自分がしたいことや自分にできることで、その中でのものづくりとしての想像や創造の深みとも言える面白さや、完成度である質を作り出すことを目的としていたのだと思います。このテーマでは表出しませんでしたが、これらの他にもそういった質やまごころのような創作分野において、個人や社会への提供でいただいたご縁やご恩もたくさんあります。

そういった活動こそを今後は主体にしていこうと思っているのですが、しかしそんなこれまでの私が社会の中で勝手に憤り、不都合に不満を抱え、どこかで抗い反発してきた実像とは、実際は実に滑稽なもので、私が間違っていたのです。

この現代社会の大多数の、謂わば「常識」とは、皆「儲ける」ことを目的としていたのではないかという事実にやっと気がつきました。そういえば、労働の義務も、納税の義務も、確かに「儲ける」ことあってこそのシステムなのですよね。

昨今では幼稚園等でも税金の教育があるそうですが(私だったら我が子をそのような施設へはお金を払ってでも行かせませんが)、まるでそのように、多くの現代人はそんな教育にも正しく成育されて、とても純真に儲けようと日々生きているのだとするならば、私のほうこそが不純だったのだと思います。これが結論です。


そんな「儲かリスト」の方達は、たぶん「経営」としてはプロフェッショナルな方も多いことは知っています。ある意味で単純に言えば「売買」のプロとも言えます。しかし「高品質を目指す」という目的の私とは異なります。なので『儲かるものを売る』では無くて『良品を社会に生み出す』という感性の売り手の人に将来出会えたのなら有意義なものだよなと思います。

しかしここで問題なのは、きっと現在でもそういう方はいるのです。ただ、買い手や消費者と呼ばれる層に対して、この社会では大量に売れなければ組織は維持できないという問題があるのですよね。そしてそんな儲かリズムの方々は、なぜかすぐ組織を作りたがります。会社だけでなく、非営利団体やあらゆる委員会や組合や監査機関や協会などをなんにでも作っては、すぐにルールを作りたがるのです。

この話をまだ続けるのなら次はそういった「組織」とは何なのかとか、組織とは本当に必要なのかとか、いつのまにか組織を維持するために商品も労働力や個人も、いつからか在り方がすり替わってしまったのではないかというような話に展開するのでしょう。

しかし、これはあくまでも私個人の引退に対する個人的なノートですので、これにて「さよなら商業主義社会」というテーマとしての内容は終わりとします。結局、簡単に言えば、私は社会になじめなかったのですよね(笑)それなのにああだこうだと不満や出来ない理由を言い放って。言葉だけでつぶやくのはここまでですね。


現在を見るとこの「社会になじめない者」という問題が旧来の社会にはありますね。社会のルールに純真な者が優れていた、またそのような者を教育するという旧来からのこの社会のデザインプランは、私が思うに既に崩壊しているのだと感じています。自ずと新しい社会が生まれてくることでしょう。

社会を動かすのは常に世俗である「流行」なのかもしれませんが、そんな流行こそが、我々デザインや広告的操作によって生み出されているということは以前の内容に書きました。最近流行りの「多様性」というのもまた、どこかの誰かの意図的な広告的発言でもあって、プロパガンダとまでは言いませんが、そんなわざわざ多様性を作り出す必要も無く、元々も人間は自然に多様なのですから、ただ本当は単純に、そのことに気がつけばいいだけのような気がします。

人もまた人と人の間に在って人間と成るのですから、社会もまた人によって変わっていくのでしょう。なんていうか私なりの表現ですが、社会がそんな「儲かる」という『所有』を競うことをやめて、目的を変えられたなら発展する気がします。でも、正直難しそうですよね。だって、社会の中の個人個人が現在では、他者の所有する「もの」に対して、怒りや嘲笑を呟いてしまうような、そんな「自由」とか「平等」というキャッチコピーを名付けられた社会なのですから。


引退とは言っても、無論、私も社会からも国家からも現代資本主義社会からも引退することはできませんから、勿論、今後も商業活動とは関わっていくことは明白です。しかし商業主義からの引退として、ここからは改めて、この社会との新しい関わり方を、私なりに一歩一歩はじめてみようと思うのです。きっと誰もが同じくして、私も同じこの社会の一員として、私のできることをしていくことでしょう。

「儲かることで幸福になる」という目的がこの社会のルールなら、この社会の人間のスタートラインは逆説として「幸福ではないから儲ける」という理屈的な原理が成り立つとも言えます。それと似た意味で言うのなら「不足しているから所有する」「多く所有すれば満たされる」「持たざるは不満であり不幸である」というこの社会構造の下で従順に生きるのなら「儲ける」ということが、なによりもの健全なこの社会の歩き方なのかもしれません。

そのルールの中にありながら、その社会の構造に対して不満や疑念を感じたとして、ただひたすらに批評や愚痴を連ねたり、拗ねて心や接点を閉ざしたり、ただそれでそのままその社会の中で、生きる目的や日々の喜びさえも閉ざしてしまうよりも、「儲かる」というルールの下で、ただ疑いも無く社会の常識の下で、どんな障害でも乗り越えるが如く、ただまっすぐに儲かるために努力し生きるそんな「儲かリスト」達の純真な生き方にだけは、やはり頭が下がります。


ただ私にはそれを「幸福」だとは思うことができなかった。私の思う幸福は全く別のものだった。だから合わなかった。だからさよならをした。ただそれだけのことで、どんなに憤りや不都合を感じようとも、私にはそんな社会の常識に純真な方々を否定する立場ではなかったのです。

批判をしたり敵対することでは、きっとなにも変わらないのです。それこそ儲かリズム的な勝敗を煽る商業至上主義の思うつぼです。ただ自然に棲み分けるかのように共生すればよいのです。きっと最初から、例え同じ社会に生きようとも、違う世界に棲んでいたのかもしれないのですから、私は私の世界でただ有りの侭に生きればよいのです。そう、商業主義社会に生きる純真な彼らのように。

個人的には、長きに亘って様々な出来事やご依頼からの仕事を通して、自分は育てて頂いたと思っています。ご縁に心から感謝しています。私なりの今後にこそ、そんなご恩を形を変えて社会に還元していきたいと思っています。それこそ新しい社会をデザインするかのような意志を持ちながら。

今後はまた、もっと素直に、離れてみたからこそ見えるような視点があるかもしれませんので、そんな社会での思うことなどがあった時は、ゆっくり書いたりすると思います。

お読みくださった方、皆様、ありがとうございました。

20180415 3:37



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