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無計画にすゝめ 《さよなら商業デザイナー(29)最終回》

委託制作デザイン部門の引退後の半月間は「気ままにデトックス雑記」と称して、引退直後にしか出て来ないだろう気持ちや文章がまだ余韻のように自分の中にあるだろうとも思ったので、一年前あたりから書き始めた「さよなら商業デザイナー」という文章の流れに続き「さよなら商業主義社会」という題目で、最後に残った内容を書き出して、前回が最終話となりました。

なぜ前回が最終話にしたのかというと、それは最近の見出しに使用していた「ゆで卵の画像」があれでおしまいだったからです(笑)あの写真は、それこそ起業間もない頃の暇な時間に遊びで撮ったものなのですが、ちょうど食べ切って空のお皿に戻るという写真ですので、私もここで一度、ゼロに戻ってスタートし直そうと思っています。

徒然と推敲もしない文章なので、読んでいただいた方はたぶん相当、読みづらかったのではないかと思います。たぶん誤字脱字も多かったことでしょう。それでも、お読みいただいた方、本当にありがとうございました。


なんでパソコンでタイプすると、突拍子もない誤字や脱字があるのでしょうかね?あれは本当に不思議です。人間の動きって不可解なものなのでしょうね。音声入力のほうがそのうち的確な時代になるのかもしれませんが、そうなったらこんどは滑舌や癖の問題が明るみになるのでしょう。

さて、このテーマの「さよなら商業デザイナー(さよなら商業主義社会)」という表題をつけてありました。

今後、気分次第では突然消去したり、変更したりするかもしれませんが、一応、これまでどおり商業や社会におけるデザイン論やサイコロジー的な社会論的なものを、気が向いたら書こうと思っています。

という別に、あらたまって報告する必要も無く、誰も関心もない今日の話ですが、一応記しておきます。きっとしばらくは何も書かない日々を送ることになるのではないかと自分では予想しているのですが、また時間がポッと空いた時があったなら、創作などの小説的なものも載せようと思っています。

あとは、新たなこともはじめますので、それらの準備や必要な制作物などを作りながら、これからはまず「田植え」の期間に突入です!本当に五感で思い知りますが、自然は面白いですよ。そのような農業系の話題もこれからは出てくると思っています。

これまではクライアントをはじめ、俗に言う関係各社っていう様々な関係性がありましたから、言ったり書いたり表すことを蓋をしてきた部分も多くあります。それらを今後は表して、私なりの事業を始めていくつもりなので、その中のいくつかは、ここでも紹介したいと思っています。

また、その中のいくつかは、きっと、私の名前ではひた隠して影で動き出そうと思っていることもあります。そして、また、大筋の流れとしての今後については、あえて無計画で一年間くらいは流れのままに流れてみようと思っています。そこで、きっとそんな日々の中で進退や方向性についても、自分の中になにかが掴めるだろうと予測しています。


予定や目標や目的なんかがあると、それはそれで視界や活動は狭まるものですので、いまはゼロということで、あえて現在だけに集中しようと思っている感じです。なんていうか、あえての「事業無計画」という感じです。

商業主義がどうだ。デザインがこうだ。社会がなんだ。時勢がどうなんだとか、なんかそういうことって、書いても書いても、言っても言っても、ほんと話が終わらないんですよね。全く語りきれないのです。それにどうしても常に偏りがちで誤解も多いでしょうし、口調や鼻息も粗くまた荒い表現になりがちなところがあまり好きではないのです。

まだまだ思うことやあんなことこんなことってのは、沢山あるのは確かですから、たぶんまた、すぐに書き始めるかもしれませんね。それこそ「誰が為に社会は在るのか」って感じで、制限もなくなったので、これからは商業だとかデザインだとか主義だとか、そういった焦点に固執せずに「社会」として人間として言葉を使いたいものです。

でも、これからは、これまでとはまた異なり、もっと我が儘に持論というか、勝手気ままにやっていこうと思っています。それこそその為にも引退したのですからね。仕事でも事業でもプライベートでもなんでもそうですよね。子供のように今だけに生きるかのように、と、まあ、そんな感じからはじめようと思います。


事業計画だ!人生計画だ!教育や進学や就職も保険も老後や子育てなんかでも、ライフプランだ!フィナンシャルプランだとかなんとか、確かに計画も大事ですけどね。しかしそんな計画や規定ばかりのスケジュールばかりに囲まれていたら、なんか「今」が置き去りにされてしまうと思うのです。過去や未来のために「現在」しか経験することのできない学びも気付きも成功も失敗もひらめきも、機会を失ってしまうような。

老人や大人はなにかとよく子供に向かって、まるで未来が決まっているかのような物言いをしますが、そんな言葉を浴びせて汚さないで欲しいと思う程に、私はあれが今でも心底嫌いなんです。未来は白紙ですよ。計画企てて意図的に構築していくってのも別にいいですが、それよりももっと重要なのは、白紙に描くってことだと思うのですよね。今を描いた絵が連続投影されたものが人生だって思うのです。それこそ、いかに「想像」するのかって、まるで子供のように。

なんか昨今はこういうブログ媒体やツイッターやメルマガなどでも「言葉」や「文字」ばっかりで、著名人もそうでない方々もみんな、なんか目立つ言葉みたいな、目を引くキャッチコピーや文章ばかりを多用するように感じています。まさに「広告的印象操作」の手法が当たり前になっちゃった時代です。言葉の力は強いですから、言葉を放つ者自身でさえもそんな「見栄えのいい言葉」に乗せられて操られてしまう程に。それがまさに、私がつい最近までいた業種の核なのですけどね。

多様な言葉のある日本に生まれてまだ良かったと思っていますが、そんな日本でも「有言実行」という造語が浸透してしまうように「有言」が先行して「実行」を支配してしまうようなそんな言葉の時代ですが、言葉って意外にかなり不適格で限定的だと思うのです。

目に見えない音楽や、物言わぬけれど実に的確に咲く自然の名も無い花のように、計画なんてない妄想のような絵空のように、そういうイマジネーションこそが本当は世界を創造していると私は思うのですよね。そんな計画的な企画力よりも、無計画な想像力のほうが大事だと思っています。

それでは、また気が向いたらなんか書きます。ありがとうございます。

20180416 6:06

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