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ただ生きているドラマ 《 3.11後からの日本を案ず(2)》

── 前回「朝顔を見ながら」の続きです

ただ「生きる」というダイナミズム

前回の「朝顔を見ながら」を書いて投稿した翌日の3月10日、録画しておいた「監察医 朝顔」の最新話を見た。お母さん(里子)の遺骨がついに戻ってきて、本当によかった。“他人の骨(歯)を本当の遺族に返したら、戻ってきたんだね”と、見ながら家族と話した。

そういうところ。本当にこのドラマはちゃんと描けている。こういうことこそが本当に“自然”なんだ。きっと現代の多くの人間がそういうのを奇跡と呼んでしまうことだろうけれど、生きていると自然はこういうふうなものなのだと私はそう思っている。

この世界の摂理とも言える。寄せては還す波のように、星がめぐりまた夜が明けるように、ただただそのように“時間”はめぐるもの。それを自然に無言で描いている。

視聴者をどういう方向にもっていきたいだとか、制作者側の思いをとにかくわからせたいだとか、そういうよくある作品とはまったく異なり、とても自然にそってひとつの家族が生きていく様を、説明をせずにドラマを放映してくれている。

このドラマのファンはきっと、この家族とともに生きている。そういう気持ちで自然にこのドラマを見ていることだろうと思う。同じフジテレビのドラマだが、そういう部分では「北の国から」を思い出す。ただただ生きるということを見せてくれるドラマ。

ナチュラルにただ生きるというミニマルとも言えるそこにこそ、ダイナミズムがあると思う。

最近は、そういうドラマや映画には、ほとんど巡り会えない時代だと感じている。皆大抵、主人公の胸の動揺や感動、そして傷つく心を主人公自身が独り言的に呟いたり、ナレーションやテキストや挿入歌などで、視聴者に説明して共感どころか同感を強いるかのように、ほとんどを喋りまくる。映画でもドラマでもアニメなどでも、もうなんのために物語にする必要があったのかさえも疑問になる。「わかってほしい」だけなら、大金や労力をかけてドラマにする必要はない。


「生きる」に理由が必要になった

時代的感性とでも呼ぼうか、もはやそういう時代ではないのだろう。すなわち「生きる」という本質的観念が変わったということだろう。世界中の人類としてはわからないが、日本国内では、特にそういう感覚を感じている。

もっとも、日本人とか民族というよりも「日本に日本人として司法上暮らしている人間である認識上で日本人と思われる人々」などと表現しなかければならないくらいに、日本人という括りも曖昧になった。そこには移住や混血やいろいろと理由はあるが、例えば「国際結婚」という言葉さえも、現在ではなんとも違和感を感じるほどに、ある意味でボーダレスでありながら… だけどまたこんなことを書いていると、とにかく責められるような時代でもある。

きっと「生きる理由」がないといけない”とでも思い込んでいる人が多いのかもしれないが、または、そうでもしないと、共感と評価の時代に「生きる」ということは「理由」が先にないと生きることができないのだろうか? つまりは、敵がいなければ正義が成り立たないのと同様に、理由という「物語」がなければ自らの「生きる」が成り立たないのかもしれない。

そう思うと、この国民の多くはすでに「生きる」を見失ってしまっていて、無理矢理にでも、誰かやなにかのドラマに寄生するしかないのかもしれない。まるで他者が作った世界観にアバターとして生きているようなもの。

歴史上で言えるのは、やはり明治維新と昭和の敗戦。昨日と明日で大きく時代が変わった出来事だと思う。日本人はこの二度の機会に、大きなショックを受けていると私は思っている。昨日までの正義が今日には悪になり、特に戦後のGHQを通して行われた日本人改革では、なによりも「生きる」という日本人にそれまで根付いていたかなり根底の価値観を失わされた。

それはつまりは、見た目は変わってはいないが、内部のOSを全く異なるシステムに強引に書き換えされたようなもので、まったく違う異世界に突然移動してしまったような出来事だったろうと思える。また、あえて「失った」ではなく『失わされた』と表現しているのですが、それで正確なのだと私は思っている。 —— 詳しくはまたいつかこういう話題には触れることがあると思うので、いまは次へ展開しようと思います。

なにが言いたいのかというと、日本人にとって東日本大震災とは、まるでそのくらいにある時代の分岐点だったと感じるということです。きっと311を境に、日本人の「生きる」という観念が大きく変わったポイントとなる出来事だったと思えます。


誰もがショックだった

震災の直後から数ヶ月は特に、ネットの中でも、個人個人のブログやSNSなんかも、人によっては(もちろんただの「文字」ではありますが)まるで奇声をあげてるかのような人々や、ショックで更新が止まるケースなどもあり、社会全体が多少の異様な雰囲気で、場合によってはヒステリックに噛み付いたり怒りをぶつけるような行為も多く見られたと、私は感じています。

それまで漠然とした人生だった人が、震災を境に急に活動的になったり、穏やかだった人が攻撃的になったり、優しく良識的と思われていた方が急に悲劇的な舞台にでも立ったように自ら不幸ばかりを訴えだしたり、被災者ではなく被災地から遠くにお住いの方のほうがかえって精神的に病んでしまったりだとか、もう理由のつかないくらいの異例な社会になっていた期間があったと思います。

ブログやSNS、時にはテレビのワイドショーなんかでも、もう、そういう方々のヒステリックな発言や表現のほうが、実際の被害や災害よりも増して、毒を持っていたり、とてもネガティブで、見てしまったこちらがまいってしまうような感覚をいくつも覚えました。人間ってこんなに弱かったんだなぁとも思いましたし、だけど、気持ちのいいものではありませんので、なんでわざわざこんなマイナスなことを世の中に吐きまくっているのだろう?って、復興がんばろう!日本がんばろう!とか見出しでは言いながら、中身はとてもネガティブだったり、とにかくなにかに牙をむいていたり、そんな人間の様子に違和感や恐怖感を感じたりもしていました。

敗戦でも、災害でも、例えばバブル崩壊でも、軸や芯や土台がないと立っていられないものなのだと思います。普段からそんな芯の軸がベースにあるか?ないか?どのように生きているのか?それがそういう時に表れる、ある意味でその人の人間自体が丸見えになる。正直に、東日本大震災の時に痛感したのは、すでに日本人はそういった「生きる」軸やベースを、はるか前から失っていたのだということを直視してしまったかの感覚を覚え、私はショックをうけました。こんなにも大多数が芯を持たずに、生きるとはなんたるかを持ち合わさずに、それなりのように生きていたのだということを思い知った出来事でした。

しかし、10年後のいまになって改めて見れば、本当に、皆がショックだったんですよね。もう、その一言に尽きます。先述したように、当時の私は、そのような人間の様子に恐怖を感じて、震災の事実そのものを見れていなかったのですよね。それが最近「監察医 朝顔」を見ていて、自分のそのような心がとけていることに気がつけた。気がついたかわりに、泣きっぱなしですけどね(笑)


ただ生きているというドラマ

それほどにショックだったんですよね。そのショックに理由や解説はいらないんですよ。焼け野原の戦後の東京や広島も長崎も、とにかく、生きるということはまた立ち上がって歩き続けるだけのシーンなだけなんです。ただそれだけのシーン。「生きる」ということって、そういうもの。それをドラマ「朝顔」では、描けているっていう話です。

だからきっと視聴者も、朝顔家族と一緒に生きている感覚になれるんですよね。制作的に「現実的」とか「リアリティ」とかそういうことではなくて、ただ『自然』かどうかがポイントで、これって、例としては現代でそういう作品が作れる定番的作家はジブリの宮崎駿監督です。ファンタジーでも同様なんですよね。「科学的に」とか「現実的に」だとかそういうことではないのです。

そして、制作側や提供側も、そこで描きたいものとは「伝えたいもの」であって、その他の多くの作品にあるような「わかってほしい」とか「伝え残すべきだ」とか、そういう可視化された現実ではないのです。

震災や3.11関連の作品もフィクションからノンフィクションまで多くの作品がありますが、本当に伝えるのなら、それはきっと説明ではなくて、ただただそこにある風景とともに生きる画のようなもので、「悲しい」とかその理由や出来事をわかってもらうために説明するためのストーリーではなくて、ただ今や未来に生きるというドラマなんだと思います。

エンターテインメントも芸術やドキュメンタリーにしても、あらゆる表現は自由ですから、様々な価値観があってこそですが、それでも大切なのは、そこからいかに歩き出すのかとか、いかに生きるのかということだと思います。そこには、その「ショック」からなにを学び取るのかとか、感じ取ったのかということが大事で、やみくもに「忘れない」とか「後世にこの恐ろしさを伝え残す」だとか、そういうことだけが、なにも「平和」とか「正義」ではないと思うんです。

ましてや、そういうことを、つまりは「イイコト」を、言葉や活動として“表出”して“共感”を求めて“拡散”したり、それを“いいね”って“評価”したり、そういう可視化というか、簡単に言えば「発言」をするとか、賛同をするにしても「表明」をしたりだとか、そういうアクションだけが、わかりやすい人間の正しさではないと思うんです。

なんかうまく言葉にできないです。だから次回からは、もっと素直に書いてみようと思います。

つづく ──

20210313




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