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『朝顔』を見ながら 《 3.11後からの日本を案ず(1)》

── この文章は2021年に書いたものです

とけてきた

これを書いているのは2021年3月。東日本大震災から10年が経過したことに、感覚的に驚きを覚えています。私なりに強く思うことがあって、そんな話題を今回は書こうと思っていたのですが、数日の間、書こうかな?やっぱりやめたほうがいいかな?と、答えは出ませんでした。


止める気持ちがあるということは、やっぱり時期尚早ということなのかもしれません。私は被災者ではありませんが、しかし、10年経って、やっと見えてくる風景があるのも事実なんです。こんな私でも、なにかが心にあるんですよね。

しかしながら、現在でも被災した方々の中では、なにも変わらないまま生きている方もいらっしゃるのだと予測すると、素直には自分の気持ちの中の風景を描写して表出することは、やはり、恐れてしまう自分がいます。

日本中とも言っていいほどの大多数が、あの日からショックを受けて、ヒステリックになっていた。当時の私には、そんなこの国の空気感や方向性とか、人間という生物が、それまで自分が漠然と把握していた人間という性質から、あまりにも異なるものなのだということを目の当たりにしたショックのほうが、津波や地震や災害よりも恐かったんです。

なんか、それもまた私なりの10年前なのですが、それが10年経って、自分の中でだいぶ緩和されてきたんだなということを最近はすごく感じるようになりました。雪解けのような感覚で、心がとけてきたような、昨年あたりからそんな自分に気がついたんです。

—— でも、こうしてとりあえず書き始めてみて、そして一呼吸おいて、やっぱり素直に吐露するなんてことは、まだまだできないなと、今もそう思いました。


こころ

やっぱり言えないという理由に強くあるのは、やっぱり私は“当事者ではない”ということだと思っています。そして、私の感覚はあまりにもマイノリティーだということも自覚しているからです。つまりは「言う必要がない」のだと思います。

現在(2021年3月現在)、放送しているフジテレビのドラマ「監察医 朝顔」を見ていて、10年前にあった自分の心の中のわだかまりのような、つまりは、心の奥に鍵をかけて閉まった鉛の箱のような鎖で鍵がかかったような箱があるイメージだったのですが、ドラマを見ていて「あれ?箱が開いてるぞ!?」って気がついたんです。

たぶん、私は当時、自分の感覚があまりにも世間と違うから、鍵をかけてしまってしまったのですよね。これを開けたら、きっとあぶないぞって。

今期のドラマ朝顔を見ていて気がついたのは、ようやく一人の人間として向き合えるようになった自分がいるという感覚でした。ただひとつの事実のまわりにもういろいろなものが渦巻いたり、絡みついたりこびりついたりしがみついたりしていて、もうただ素直に見ることや感じることのスイッチをオフにしていたのだと思えます。

それがまたオンに戻って、ただただ人間のまま「辛かったよね」っていう感じに、ただそれだけを感じることを許せる自分に戻っていたこと。それが朝顔を見ていて、わかったんです。

よかったぁって思いました。ドラマで泣けてしまう自分が毎週いますが、自分に対して、よかったぁって思っています。

—— それほどに、あの当時は、事実や当事者以外のまわりの人間や世間や社会のヒステリックなおそろしい姿のほうが、私には恐かった。


天気雨

震災当日は、私は都内の自宅兼事務所に仕事仲間でもある友人と二人でいて、棚やパソコンや必死に抑えていました。揺れが収まってから、しばらく後のことですが、近くのコンビニへ行きました。その時はまだ品物はありましたが、ペットボトルの水を大量に買う人が一人だけいて、その時は「なんだこの人は?」って思って、理解できませんでしたが、あとから思えば、過去に被災経験などがあるのかもしれないですし、状況判断や感覚の優れた方だったんだなって思います。

それから近所の様子を見る気持ちで、少し付近を歩きました。

普段よりとても静かで穏やかな空気がそこにはあるのを感じた気がします。午後の光がやわらかく照らして、その時、ほんの数分だけ、小さな粒の天気雨が降りました。降るという表現よりも空気に舞っていました。光と共に雨の粒が舞っていました。

都心のあの場所で、あれほどおだやかな時間に包まれたのは、後にも先にもあの時だけです。

“地球が喜んでいる”そう感じました。

—— 素直な本当にそう感じた出来事だったのですが、当時は、まさかそんな「地球が喜んでいる」だなんて言おうものなら、激しく責められてしまっていたかもしれません。


それぞれの風景

その後もずっと人間たちは「海のばかやろー」だとか「地球の・・・」だとか「神様の・・・」だとか、そして「政府の・・・」「東電の・・・」などと吐いて捨てるように言い放ち、きっとその頃から『他者への一方的な被害を訴える』という『社会的正義の在り方』が、日本にも確立した気がします。良くも悪くも。

それから10年経ったいまでもずっと「ばかやろー」ってつぶやくのが正義だと思い込んでいる人がいっぱいいる。日本人が311から学んだのはそういうものだったのかなって、ずっと悲しく思っていました。

災害時や非常時下でも思い遣りと秩序を重んじる日本人とかって、海外からは評価されて、そんな記事に“いいね”をおして拡散しているのは、日本人たちで、そんな民族でも世界平均ではそんなにも高評価なんだなって。こんなになんでもかんでもばかやろーって匿名で言うだけの人が多いのに。それでも全地球人の中ではまだマシなんだなって。

それから毎年春になると、特番や記録ドキュメンタリーや再現ドラマや映画やらがいっぱい。そのどれを見ても、どうしてもどこかに、ほんの僅かだとしても、そのような「怒りの正義」や弱者のセンチメンタリズム的な平和感みたいな、そういう感じの「悲劇のエッセンス」がどの作品にも混入されているように感じていた。

日本人があの日見た風景ってそんなんだったんだなって思った。


私の風景

—— そしてきっと私の思い出にある風景はきっと誰も認めてはくれないでしょうし、きっと誰も見たくない景色なんだと思って生きています。

けれど、いまでもあの天気雨が思い出せば蘇ります。あんなに穏やかな地上の風景は唯一だったって。自然はばかやろーなんかじゃないって。

そんな311の風景が、この世界でたったひとりだけは、あってもいい。それが多様性でしょ。

あの日のほんの僅かな時間の天気雨に、地球の大きな優しさを理由もなく、ただただ感じたんです。

空よありがとう。大地よありがとう。海よありがとう。私があの日に学んだのは、そういうこと。自然は、万物にはすべて理りがあって、神はさいころを振らないというか、そう、きっと、神は、万物は、サイコロを人間に委ねていたのだと思っています。

例えば、そういう方向で言うのなら、現在のウイルス感染症の蔓延という地球規模の非常事態も同様に、ここでまた地球人は、どういう風に事態を捉え、どう生きるのか。

今回もまた、コロナのバカヤローとか、神様は残酷だとかって、声がたくさん呟かれていて。風が右を向けば「なぜ右なんだよ!補償しろ!」と言い捨て、風が左に吹けば「ここは右だろバカやろー、どう責任取ってくれんだよ!」とかって。

どうにも、あの時と似たものを感じたりもしながら、今日がある気がします。けれど、それだけでもなくて。


朝顔

ドラマ「朝顔」毎回、涙して見ているのですが、別にそのドラマだけの話ではなくて、やっと事実を事実として人間の心のまま時間を描けるようになってきたのかなって感じるんです。

前述した「悲劇のエッセンス」がこの10年間、311を題材として取り入れたほとんどの作品に入っていたんです。悲劇ゆえに、とにかくなにかを「責める」という構造があったと思うんです。

だけど「監察医 朝顔」にはそれがない。脚本や演出にも理由がありますし、特に上野樹里さんをはじめあの家族に、それがないんだろうなって思っています。本当に人間として精一杯生きていて、素直に泣いているっていうか、悲しみに理由や説明を入れない演技というか、まるで自然な演技。すごい女優さんですよね。

私の故郷のあたりも実は津波被害があった海辺の町なのですが「家流されちゃったよー」って明るく言っている人も多くて、もう笑っちゃうしかないよねって。またはじめるしかないんですよね。だけど逆に、半壊とか、全壊ではない方のほうが暗く元気がない。それを見て、不思議だけどとても興味深いもんだなって思っていました。

—— ま、なんか長くなっちゃって収集がつかないというか、もっともっと言いたいことも湧き出てきてしまっている自分もいて、これじゃぁ終わらないので、ここで放ったらかして終えようと思います。(笑)

とにかく、ドラマ「朝顔」のおかげですね。大げさですが、心が救われるようなドラマです。もうシーズン3もそれ以降もずっとやってほしいくらいです。

つづく ──

20210309



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