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循環 〜 ものを大切にするということ 《さよなら商業デザイナー(28)》

── 前回「社会から引き退き自然の儘に還る」の続きです

以前の「綺麗にして土に還す。」という内容の文末で、長年望み続けて来た委託デザイン制作業からの引退日の前夜になって「わかった!」と言いながら、書いてなかったことを今回は記すことにします。きっと私が辞める理由の中で、「もうこれ以上やることは避けたい」と思えるような、実はこれが一番大きな理由なのではないかと思うことです。

これはもちろん一般論にも値しない話で、万人共通の内容ではないとは思うのですが、しかし社会の中で出会った一部のお客様に共通に感じていたことです。そしてこれはあくまでも私の主観であることなので、多様性な価値観の違いの有用性を度外視した、とにもかくにも私にはそれが許せなかったということです。

そして現在では、そういう方へは、もう今後は制作でも創作でもどんなご依頼でも、私は一切ご提供したり、仕事として関わることは避けようと思っています。正直言って言葉で説明が難しい自分の感覚だけの話でもあるのですが、それは一言で表すのなら「ものを大切にしない人」です。


これは各々の価値観にも関連することなので、Aさんは本は大事にしないがバッグは何個も持っていてとても大事にしているという場合もあれば、Bさんは服や見た目には無頓着だけど、部屋はとてもシンプルでいつも綺麗だ。だとか、人によっては「値段が高いものばかりを大事にする」とか「人から貰ったプレゼントだけは大事にする」だとか、それこそ人それぞれです。

以前述べた「綺麗にして土に還す。」の内容を要約すると「土をはじめ自然のエレメントやその他の微生物や分子レベルに至る「自然」は、人工物や有毒な化学物質なども、時間をかけてすべてを土に還して浄化し、また自然は循環する」という内容です。

そしてそんな「自然の中で人間の感情や思考や心や身体や想念や創造物も昇華されると仮定するなら、人間も土に対して、即ち地球や自然に対してマイナスなエネルギー処理を負担させないようにしたいものですね」という話をしました。


そこで気がついたのです。私は謂わば、ここがポイントなのだと。先に結論を述べますが私の観念にとって「ものを大切にしない人」というのは、この「自然循環摂理」に対して理解がない人とも言えるのですが、もう少し言うならば「敬意の無い人」ということなのです。ここでまずは「敬意」と表しましたが、現代社会の方々に当てはめると言葉は変わってきます。

それは「認識」「知識」「感覚」「観念」「感性」「智慧」「良識」はたまた「遠慮」「節操」「愛情」「心遣い」などとも言えますし「恩恵を感じる心」や「慈しむ心」や「美徳」や「道徳心」などと表してもよいでしょう。こうして「敬意」という言葉を今回の意図する表現への同義語として、当てはまる言葉を挙げているとまた気がつきました。つまりはこの一言に表せます。

「『教養』の無い人」です。これはあくまでも私個人の観念における勝手な表現ですので、各々認識は違うでしょうから異論や反論を呼ぶのは必須でしょうね。つまりは私の感覚では「自然への敬意が無い」ということはイコールにして「自然への教養が無い」ということだと思うのです。クライアントの殆どは私よりも「高学歴」の方が殆どではありましたが、ここでいう私の勝手な観念での教養とは、学歴や業種や社会における地位なども含めた経営力や社交力のようなものを差しているわけではないのです。


もう少し進めてしまうとここでの「自然」という言葉の意味するのは、その中には「人間」もまた自然の中に含まれる生物であり、その生物が生んだ「人工物」も「化学物質」も「有毒物」も「新型ウイルス」も「経済」や「社会」や、目には見えない「概念」や「ルール」に至っても、それはアリのコロニーやアリの毒に等しく、人間という生物の作ったコロニーです。

特に現代では生まれてから死ぬ迄をアスファルトの上に建てられたコンクリートのマンションの四角い一室で、一生を過ごすような都市部の人間も増えたでしょうから、そのような境遇にある方に、この「自然」という認識は、きっと全身では理解は出来ないかもしれない時代にあるのは致し方ないとは思っています。

しかしまさにその四角い同じ形の窓がひしめいて並ぶマンションの光景は、蟻塚や地中のアリの巣よりも自由度や創造性においても乏しい、人間という生物がデザインして、まるでフジツボのように地上に張り付いて寄生する生物達のコロニーとも表せます。と、そんなことを言ったなら、そこに住む人もマンションオーナーの方や不動産業の方の中には、怒りだす人もいるかもしれませんが、そういう方の認識世界では「自分」は「自然」に属さずに、いつまでも仮想とも言える「不自然な世界」の住人なのでしょう。

私のここで言っている「教養」とは、そういう謂わば「自然生物」としての教養であり、古来日本的にあえて表すのならそれは「信仰」とも言えるのかもしれません。「自然への教養が無い」「自然への信仰が無い」つまりは自然でもいいですし、それを全宇宙と言ってもいいですが、そこに生命として存在していることに、きっと『気がついていない』とも言えてしまう程に、それは「自分以外の生命に対しての心遣い」が無いのと等しく、それはつまり認識上において、そのような方々は『自分』や『生きている』ということさえも、気がついていないのだと言い得てしまうことになります。


若干、哲学的なぶっとばした表現になってしまっていますが、そのような一部の現代人の観念レベルに合わせて言い換えるなら、まさにそれらの人々が唯一自然ではない存在として誤認している「人間」に置き換えると、きっとわかりやすくなります。故にそのような方達は人間の社会程度しか視界に入っていないのでしょうから。

この「自然」という言葉を「人」に置き換えてみましょう。つまりは、人間が「人」と呼ぶ時は大抵それは、自分以外の『他人』を差して「ヒト」と口にしますから、ここでの「人」は自分以外のすべてと例えてもいいのかもしれません。置き換えてみるとこのような表現になります「人への敬意が無い」「人への教養が無い」「人への心遣いが無い」。

そして前述の他の言葉もここでもう一度挙げておきます。「認識」「知識」「感覚」「観念」「感性」「智慧」「良識」「遠慮」「節操」「愛情」「心遣い」「恩恵を感じる心」「慈しむ心」「美徳」「道徳心」を当てはめてみると、とても分かりやすいです。最初のひとつの言葉だけで充分かもしれません『人への認識が無い』。さてやっとここで本題に戻します。そもそもの話の本分は「ものを大切にしない人」でしたね。


即ち、私の思う「ものを大切にしない人」というのは、「人を大切にしない人」や「自然(世界・宇宙)を大切にしない人」という認識で表したほうが説明しやすいと判断して、ここまでの話を概要としての説明として、まず書いてみました。いまはあまり掘り下げたくはないですから、軽い話としてこの辺までで終えて、本題としてまとめます。

委託デザイン業務の引退の理由の中で「もうこれ以上やることは避けたい」と思う程に、簡単に言えばどうしてそんなに「嫌い」なのかということについて主観をまとめると、要は「ものを活用してくれない」と感じることが経験の中で、私個人はとても嫌になってしまったのです。

そうなのです。単純明快にとてもバカらしい話だとは思いますが「えー!せっかく作ったのに、大事にしてくれないなら、もう作ってあげない!」って、拗ねているのですね。私は(笑)だから、もう、どんなにお願いされても作らないよっていう感じで、そのような方が多く所属する商業主義社会と題した要は現代のビジネスとしての商売である委託制作は、廃部にしちゃおう!っていう決断に至ったという話になりますね。

そこにもちろん環境や身体の変化や時期などが重なり「引退」としたのですは事実ですが、やはりこの「ものを大切にしない人」への提供は中止という部分が職業人の心情としては、きっと一番大きな引退の理由です。


「もの」を依頼されて作って提供する。その単純なお仕事なのですが、この話の流れで述べたいのでは「もの」というのは「ひと」が作っているんだよ。ということです。そして大袈裟な言い回しなのは承知の上ですが、あえて言うなら、その「ひと」は「生きている」んだよということなのです。強引に繋げるのなら「ものは生きている」んだよと言いたいのです。

そしてそこで考えてほしいのです。「生きている」ということは「何であるのか」そして「生きる」とは「どういう状態」なのか。のようなことです。「生命とは何か」という部分は未だ地球人は解明や説明ができる時点には至っていませんから、細かい所は置いといて、地球上の目に見える部分だけで例えたとしても、生命は生まれ、生命を生きて、生命は死ぬという大筋の流れは確かなものです。

その流れの中で不確かな部分があります。それは「生きるとは何か」と「死ぬとは何か」です。今回は「もの」という限定的な話ですから「生誕」に関しては単純にその物を作った時です。産業においては「納品」した時点とも言えます。では、その物が生きるに値するのは、やはり「活用」されることであり「活きる」ということであると私は考えます。

そして「死」とは、物によっても違いますが「使用しなくなった時」とも言えますし「壊れた時」や、現代人的な生活における表現で表すなら、場合によっては「捨てた時」なども、それは物の死と表せるかもしれません。「死」だけではなくても「手放す」「他者へ譲る」「失くす」「手が届かない(盗まれる)」などの「離別」というのもまた、固定されたある「時点」から見ると、それらもまた「物の最期」でもあるでしょう。

その他には異例ですが「変わる」などの、改良や改修を施し別の物へ「蘇生」や「回生」する場合もあります。そのような「物」に対して、なにを大袈裟な(笑)と、笑われてしまうようなことをいま私は話しているのはとてもよく理解した上ですが、例えば画像一枚や名刺一枚でも、どうしても私にはそういう自分勝手な観念がはじめからあったのです。自分が作り出し、この世に生まれたのなら充分に「活きて」逝ってほしいような思いです。


私は20年余り、そのような謂わばグラフィックデザイナーとして他者より委託制作を請けて、多くの制作物を納めさせていただいてきたのですが、遂に一度たりとも自身(自社)のWebサイト等に「制作事例」や「作品紹介」等として、成果物(納品制作物)を掲載することはありませんでした。事実を言うと、何度かはその機会がありました。お客様から望まれたり、自分でも会社にしたのだから載せなきゃなぁ、掲載するものだよなぁと、途中迄試みるのですが、結局最期までそれは成し得ませんでした。

パンフレットが欲しい等のご要望や宣材としての資料をくれればいっぱい紹介しますよ!と言っていただくことも多かったのですが、それもいつも断りました。制作例をいくつか見せて欲しいとの要望にも殆どお断りをしてきましたし、見せても一部だけでいつも回避してきました。本当に思いますが、とても我がままで、人によっては傲慢だとか怠慢などとも思われていたことでしょう。

確かに営業上や営利目的で考えた時、途方も無くバカなやり方だとは理解はしていましたし、皆さんが応援してくれたりするお気持ちに応えられない自分がとても悲しかったです。どうしても解せない気持ちのような、どうしても自分自身の中で許諾できない思考が、それを止めていたのです。それは私や自社の理念でもあるようなものなのですが「納品したらお客様のもの」という認識なのです。

そのため「お客様のものを私たちが使用することはできない」という思考が、どうしても拭えずに、とうとう最期の時を迎えてしまいました。よく「作品をどんどん見せて宣伝すればいいじゃない」と何度も言われたのですが、そんな思考がどうしても邪魔をして出来なかったのです。しかし、それは実は「結論」としての思考であって、その奥や裏にはもっと別の理由が自分の中にあることを、自分自身では気がついていました。


この話ははじめて表に出しますが、きっと良い様には捉えられないでしょうけれども、もうおしまいとして出してみましょう。それはどういうことかと言いますと「納品物を作品だと思えたことは一度も無い」という私の本音なんです。これはもうどうしようもないくらいの個人的な愚直な感覚です。はっきり言えば、殆どの制作物に対して、ほぼ常に「私ならこうは作らない」と、心では思っていたということです。

だからこそ「これはこのお客様だからこういうデザインになった」という完成型をもって納得をしてから納品していた気持ちです。故に「私の作品では無い」というものばかりの事業部でしたので、他者にお見せできるものは一切無かったのです。そのためプレゼンやご紹介などでの初見のお客様には、面倒でも簡単な参考例や最初から提案という形をもって図案や言葉でお伝えする形で、その上で、過去の制作例を見たいという方は、特例以外は残念ですがお断りをさせていただくことも多かったです。

特例というのは「仲介者」がいる場合のみです。これはその仲介者の面子を潰してしまう恐れが生じるので、そういう場合は、出来る限りの別のやり方をとりながら成立させていただいてきました。時には同業者が仲介者になる場合もありますから、失礼はできませんからね。でも、この「仲介者と依頼者」という関係って面白いものですよ。これはまたいつか機会があったらお話することもあるかもしれません。ご縁というのは本当に深いものです。


そうして納品された物に対して「納品物を作品だと思えたことは一度も無い」という私ですが、そんな私でもやはり「我が子を送り出す」気持ちなのです。それこそ我が子として育てたわけではなく、私の場合は生まれる前からそのお方の元へこの子は行く為に、そこに合わせてすべてを育んで生んでいるわけですから里親の気持ちのようなものです。この子の親はこういう人で、この子はこういうことを望まれているのだから、こういう子に育てて、さあ!一生懸命活きて活躍してきなさい。というような感じです。

「活かされますように」そう願っているのですよね。他のデザイナーさんはどうなのか知りませんが、私はそういう気質なのです。故に最初からなにかをどこかで諦めているのです。だって、その子が活かされるかどうかは、すべてお客様次第なのですから。私の作品ではないですし、万が一、活かされなければ作品はおろか「完成」とさえも呼べません。

正直に言いますが、制作時から「この子の親になる人は、きっとこの子の能力を活かすことはおろか、この子の存在さえもぞんざいにしてしまう性質の人だろう」と、わかって生まれさせることも多くありました。商業主義の社会なのだから、殆どの大多数がそういう感性の時代なのだから仕方が無いと思い、それもずっとおこなって来ましたが、私はもうそのようなことをしないとやっと決断したような気持ちなのです。


一つ誤解しないでくださいね。制作物の中には、数時間だけの広告的演出効果のために、すごい作業時間や技術力をかけて制作するものもあります。それはその「数時間」や「一瞬」で、その物の生まれ持った目的や能力をすべて活かし切って完成した生涯を全うしているのですから、なにも長く使用するということを大事にするということだと、私は言っているのではないですからね。

そう「ものを大事にしない人」というのは、もちろん「活かしていただく」ということがなによりも有り難いのですが、職業人として言えば、反対に「物には旬がある」のです。そうつまりは「寿命」があるのです。寿命を過ぎたのなら、どんどん変えていただきたいですし、リニューアルやリアレンジや、建築などと同じですよね。そうして自由に活用していただきたいものです。

または、ものによっては、書籍や衣服などは歴史としても価値があったりしますが、それは「隠居」や「骨董」としての、謂わば「現役引退後」の第2の人生的な物の在り方として、愛される生き方とも言えます。そんな風に、私の場合は、納品したらその先は「自由」で、活かすも殺すもなんでもお客様次第というスタンスで、契約だとかはどうでもよく、それ以上に活かしてほしいという気持ちでした。


そのような活用的半生とは違い、ただ「放置」している場合もあります。昨今ではWebなどに特にそれが多いですよね。Webサイトもそうですが、SNSやブログなどの無料サービスなどにも「放置」が多いです。無料ですし、個人の自由ですし、挙げ句の果てにサービス提供側はそんな放置状態のアカウントでも「利用者総数○○万アカウント!」などと宣伝に利用できますから、理にかなっていることでもあります。

別に放置が悪いとか嫌だとか言いたいわけではないのですよ。自由でよいのです。私個人は「残る」ということが好きではない性質なので、なんでも時期を迎えたら削除するのですが。また逆にWebの世界では「消えない過去」「消せない過去」のほうが、問題となっていますし、人によっては一生の汚点のようなものがずっとWeb上に残っていることもあるのでしょうし、逆にずっと残しておきたいものなどもあるでしょう。

Webも現実世界とそういうところは同じですよね。Wikipediaなんかでも、情報とはいつだって一部であって、一角であって、偏っていて、誰かによっては都合良く、誰かによっては不都合で、常に正しくもあり、常に間違いでもあるような、個々の主観や記憶のようなものです。それぞれの「大事」のやり方や向き合い方、考え方があって、皆が違ってそれがいいものです。

さてやっとここまで長々と前置きのような話をしてきてしまったと自分でも思っていますが、ここから結びです。


わたしが、もうやることは避けようと思う程に引退する理由として「もう作らない」と思う「ものを大事にしない人」というのは、そういうことであって、結論のように言うのならそれは「ものを活かさない人」そして、ここで言う「活かさない」とは、つまりは私という人間が嫌なのは「やりっぱなし」をする人のことなんだと自分で思います。

この世に生んだのだから、そうか「活かしてやってほしい」と制作者として思うその心で、ひとつだけ願うならば、活かせないのなら(役目が無いのなら)どうか「逝かしてやってくれ」と思うのです。

本当に私の個人的な感覚ですが、そのような方々は皆どこか似ていて共通している気がします。会社設立法の改案から昨今ではベンチャーとかイノベーションだとかって「起業」がブームでもありましたが、そのような方の一部の方々に多いのはとにかく「起こす」ことや「動く」ことばかりに夢中で、起ち上げてはすぐに放置してほったらかしたまま、また次を興してはすぐ潰してみたり、そしてそこから何かを学ぶでもなく(私から見ると何回も何年も経ってもなにも変わってないように見える)また、新しいことに飛びついては始めて、完成もさせずに増やそうとしたり、また次へ行こうとしたりと、謂わば「やりっぱなし」感がハンパないのです。


ご要望に対してご用意したデザインや物品でしたが、そんな自体のその度に、ほったらかされた事業等の制作物が目に入ると、もう私は悲しくなってしまうのです。以前にも書きましたが、その事業のコンセプトや時には代表に代わってCIや文章を代筆していたりもするのですから、私としても割り切ってはいても想いは入ってしまうものなので、お役に立てよと送り出した子がお役どころかただなにも活かされず晒されているような気持ちになり、本当に無念でならないのです。

本当に一部の方の特長ですけれどね。無論、そうでない方のほうが多いです。これ私はここで「使ってよー!」って言ってるのではないのですからね。どうか、お間違えの無いように。私が言いたいのは活用してほしいということなのです。

私も社会の中で事業をしていますからわかります。明日、ひらめきが起こることもありますし、急に気が変わることもあれば、時代や社会や業界の流行や法案が変わることもありますから、そしてなによりも「やってみたら上手くいかない」とか「やってみたらこれじゃなかった」「もっとあっちのものが欲しくなった」とか、そういうのは人間ですし、またそんな積み重ねが変化として成長でもあります。

私が思うのは、そんな時「不要になったのなら役目を終えさせてあげて」ということです。もちろん他に移行して活用できるのならどんどん流用や改変してくれたならいいのですが、そうでないのなら「捨てる」とか「変える」とか「消す」とか、そういうある意味でちゃんと「死」を迎えさせて「逝かして」ほしいのです。


ここでやっとまとめますが「ものを大事にする」そこで私が言いたいのは「活かす」とは「逝かす」までが「ものを大事に思う」ことなのではないかということなのです。以前の「綺麗にして土に還す。」の内容のように「死してこそ活き生まれる」かのような、モノにもまた想いとして宿る命に例えるのなら、ちゃんと逝かせてあげるのがまた浄化でもあり、昇華するようにそれは「循環」の輪に帰すものだという話です。

ここでは「商業主義社会」についての題目ですから、当てはめて述べるのなら、そういった「ものを大事にしない人」に共通するのは、なにも私が関わったデザインや制作物などの「物」に対してのことだけではなくて、事業自体の性質や商業人としての気質に対しても、どことなくそれと同じような対関係性を感じ、見受けられる気がします。

モノはものでも「者」のことまでは、ここまでにしておきましょう。ここでは私もまだ職業人としての視点で「物」と「商業社会」について書いているのですからね。「もの」にはそれに相応しいデザインがあり、私はそういう自分の思考や経験から「そのモノに相応しいデザイン」をいつしかモットーとするようになりました。品質よりも「用途」や「目的」と、その「必要性」を重視して、ご要望に適した形を納める。

それでもどんな時でも、きっと同業のすべての人がそうだと思っていますが、やはりご依頼者の理想に適えたく、それぞれの求める成功の形を成すものでありたいと務め、たまにそんなこんなで個人的には痛い目にも、悲しい気持ちにもなるけれど、人として心はどんなご依頼でも、やはり応援してしまうものなんですよね。それもまた自分自身に対して面白いものだなと思います。

私もこんな、たぶん癖のある奴なのですが、引退と決めた最終日までは、これらの商業デザイナーという自分を通そうと決めて、最後までご要望には忠実に「自分の作品ではないもの」を、自分のやり方でまごころを通して、商業デザイナーとして、それぞれの目的を心から応援して、貫かせていただいた気持ちです。だから最後まで、この言葉を言い続けました。「ご活用いただければ幸いに存じます」。


『さよなら商業デザイナー』そして『さよなら商業主義社会』というテーマで、長々とした乱雑な文章をここ一年余りの期間に多く書いてきたのですが、次回で終えようと思います。そこでも、最後までとして現代の「商業主義社会」に関した視点の範囲内で表現しようと思います。

その後は、もっと個人としてものが言えたり、創作などでも自然に表していこうと思っています。まぁ、どうせこれからも社会の中で生きていくのは当然ではありますので、別に敵対したわけでもなければ、なにかの活動をしたいわけでもないですからね。それこそこれまで育てていただいたご縁や社会にも恩返しを私なりの形でできたならと考えています。

なので、こういった内容は次回で最後にすることにします。そうなんです。もう、別のことをしたがっているんですよね。自分が。ちょっと無理していまこれも書いています。過去の自分を引っ張り出して書いてるような感じです(笑)でも、こうして書き出すことによって、自分でいろいろ自分のことを確認している作業なんです。それを引退後のこの期間にやりたかったのですよね「気ままにデトックス」する感じで。

では、この辺で。徒然過ぎる長文を読んでくれた方、ありがとうございます。

最終回へつづく ──

20180413 4:09

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