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川野芽生 『かわいいピンクの竜になる』 : 「みにくい凡獣の価値観」に抗する。

書評:川野芽生『かわいいピンクの竜になる』(左右社)

なかなか強烈なエッセイ集だ。やはり川野芽生は、本物の「作家」だと確信させるに足りるものが、ここにはハッキリと印されている。

何がすごいと言って、彼女の「私は可愛いに決まっているし、そんなこと、人からとやかく言われる(論評される)ことではない。私は私が好ましい思えるものを追求するだけなのだ」と言い切る、その覚悟と徹底性においてである。

つまり、世間並みに右顧左眄して「世間の顔色」を窺い、謙虚ぶって「ウケ」を狙いにいくような作家は、本来の意味での「作家」ではなく、「他人の欲望を、他人の言葉で語る」だけの、そんな「紋切り型」を繰り返しているだけの存在であり、自分の中からは何も生み出せないという意味において、「作家」の名には値しない存在なのだ。
つまり、今の「作家」を含めた「文筆業者」の99パーセントは、「作家ではない、文筆業者」なのである。

そして、その意味では、今の時代は「作家」を求めておらず、昔の言葉で言えば「コピーライター」を求めているだけだと、そう言えるだろう。
本物の作家は、自分を偽らないかぎり、自分を殺さないかぎり、「偽の作家」なならないかぎり、「文筆業者」ではあり得ない時代なのである。

昔、夏目漱石が、その小説『草枕』で、主人公にこう語らせた。

『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』

しばしば引用される、このあまりにも有名な一節は、しかし、いまだにまったく理解されてはいないと、そう断じてもいいだろう。
理解していない者が、「他人(世間)のこと(問題)」を「他人(夏目漱石)の言葉」で語って(引用して)いるだけで、この言葉が、自分自身にとって何を意味するのかということが、そこではまったく語り得ていないし、その事実にも無自覚なのだ。

だから、わかりきったことを書くようだが、ここでこの言葉の意味を解説しておこう。

『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』

『智に働けば角が立つ。』一一「自分が見たまんま考えたまんまに、忠実に生きようとすると、方々に支障が生じて、生きにくい」。
『情に棹させば流される。』一一「世情に迎合すれば、自分というものが流されて失われてしまう」。
『意地を通せば窮屈だ。』一一「かと言って、自分の気持ちのままに生きようとすると、この世の中は、あまりにも窮屈でしんどいものとなってしまう」のは目に見えている。
『とかくに人の世は住みにくい。』一一「そんなわけで、いずれにしろ人間社会というのは、住みにくい場所である」。

だからこそ、可能なかぎり「人の世」から離れた「草枕(旅の仮寝)」において、『草枕』の主人公は、考えたみたのである。

『草枕』の主人公は「絵描き」である。だが、わざわざ山辺の田舎町にまで、絵を描きに来たはずの彼は、なぜか、なかなか絵を描こうとしない。
そこで、周囲の人たちは「絵を描かなくていいのか?」と心配して尋ねるのだが、主人公は「絵なんて描かないで良いです」などと言って平然としている。

なぜ、「絵描き」の彼が「絵なんて描かなくて良い」などと言うのかというと、それは「職業としての絵描き」というのは、どうしても「世間のための絵を描く」ことになってしまうから、描かないわけにはいかないのだが、彼の考える「絵描き」とは、そういうものではないからなのだ。
彼にとって「絵を描く」というのは、風景や人の姿を見て「ああ、これは絵になるな」と思った瞬間こそが、最も大切だからなのだ。要は「絵の発見」である。
あとは、それを「絵にするだけ」の作業(ルーチン)にすぎない。

つまり、彼にとっての「絵」とは、私たちが目にする「物体としての絵=完成品としての絵画作品」のことではなく、「描くに値する真実の発見」なのだ。
絵を描くことにおいて、最も困難なこととは「絵にするに値する、絵(真実)を見つけること」であり、それを見つけてしまうなら、もうそれだけで「絵」は、ほとんど完成したようなものであり、あとは「世間ウケのための技術の問題」でしかない。しかしそれは、「絵」をいうものを「描く」上での「非本質な部分」でしかないから、「絵は、描けばよいというものではない」のである。

そんなわけで、川野芽生が、世間様から「こいつ、何様?」とか「頭おかしいんじゃないの」などと言われることを怖れることなく、決然と「私は可愛いに決まっているし、そんなこと、人からとやかく言われることではない。私は私が好ましい思えるものを追求するだけなのだ」と言い切るのは、それはそれが「万人の内面の真実」だからである。
「自分が〝可愛い(美しい)〟(あるいは、賢い)と思っていない、人などいない」のだから、川野は、それを偽らずに、正直に語っているだけなのだ。

そしてこれは、言い換えれば、

「智に働いて角が立つことを怖れず、情に棹さないから流されない。意地を通して窮屈だが、それでも私は、とかくに住みにくい人の世に抗っていく」

と、そういうことなのである。一一ここで川野は「自分の言葉を語っていく」という「作家宣言」をしているのだ。
そして、こんな非常な覚悟において書いている人だから、川野芽生は、当然のこととして「非凡」な、「作家」たり得ているのである。

「作家」にとって大切なこととは何か?
それは、『草枕』に準えて言えば、「自分にとって、かけがえのないもの(真実)を見つける」ことである。
それはあくまでも「自分にとって」であって、「人の世にとって」のそれではない。だから川野芽生は『かわいいピンクの竜になる』と言うのだ。

そんな本書について、Amazonのカスタマーレビューとして、みみみ氏が『自分に酔った自慢話に終始しています。』と題した「感想」を投じ、「5点満点の1点」(最低点)をつけている。
しかしこれも、「自分の言葉を語ろうとしている」という点では、評価できる。たしかに、「ごく常識的に=人の世的に」読めば、そうした理解になるようなことを、川野は語っているからだ。

『 みみみ 『自分に酔った自慢話に終始しています。』(5つ星のうち1.0)
  2024年5月17日

かなりイタイ方です。容姿や非モテにコンプレックスを持ち過ぎて、一周回って似非自尊心に替えて自分を守っているみたいに見えます。
装丁が魅了的で読むのを楽しみに購入しましたが、まともに全文読むには耐えられずほとんど斜め読みしました。
読めばわかります、と書きたいところですが、5月の時点で今年1番読まなければよかった本確定といった具合なので、まったくオススメしません。
ただ、同族の方には好かれる内容だと思います。』

ここで注目すべきは『同族の方には好かれる内容だと思います。』という、最後の部分だ。

「みみみ」氏がここで言う、川野の『同族』とは、「自己陶酔で現実が見えなくなっている人たち」ということであろう。
たしかにそのとおりで、川野芽生は「同族」に好かれるタイプだと思うが、しかし、そもそも「人の世」というのは、「同族」を好くこと「しか」できない「人たちの世」なのではないのか?

例えば「みみみ」氏は、このレビューが、自分の「同族」にウケると思っているからこそ、このように書いている。
そこにおいて「みみみ」氏が「無意識に想定」している、自身の「同族」とは、「自身を客観視できて、自己陶酔に陥ることのない、知的な人間」という意味のものであり、こうした自覚において「みみみ」氏は、「私は賢いに決まっているし、だから、川野芽生のような自己陶酔ヤロウが世間でどんなに持て囃されようと、そんなものには流されないし、お前の考え方は古いだ偏頗だなどと、流行に迎合して川野を持て囃すような奴らから、とやかく言われたくもない。私は私が好ましい思えるものを追求するだけなのだ」と、そう考えているのだ。

つまり、「みみみ」氏と川野芽生は、「立場」が違うだけで、「自分を譲らない(偽らない)」という点では同じであり、その点において、私は、「みみみ」氏の言い分にも、一定の評価を与えるのである。

だが、「みみみ」氏と川野芽生には、決定的な「違い」がある。
それは、結局のところ「みみみ」氏は、「人の世の多数派」、要は単なる「多数派」の価値観に無難に迎合しているだけであり、またそれでいて「自分の価値観を語っているつもりになっている」という点で、自分が「見えていない」。
それに対し、川野芽生の場合は、自身が「少数派」であり「異色」であり、「多数派」からすれば、良くて「珍獣」でしかないことを重々自覚している。
しかも「世の人たち(当たり前の人間)」は、そんな「珍獣」が、自分たちよりも高く評価されようものなら、途端に「目障りだ」と感じてしまうような「凡庸な人種」であり、川野たち「珍獣」は、そうした人たちの中で「孤立して生きる」ことを選んだ人たちなのだ。
つまり、川野芽生の場合は、自覚的に選んだその立場の「過酷性」において、凡庸無難な「みみみ」氏とは、天地の開きがあると、そう言えるのである。

言い換えれば、「みみみ」氏の立っている立場とは、「世間一般」の「凡庸かつ無難な多数派のもの」でしかなく、「みみみ」氏が「私は流されない」とか思っているのも、自身が「主流に流されている現状」に無自覚なまま「傍流には流されない」と、そう言っているにすぎないのだ。
「みみみ」氏は、「世間という主流」の中にある安心感から強がっているだけで、その本質は「凡庸なヘタレ」でしかない。だから「みみみ」氏は、「匿名」でないかぎり、こうした「世間主流の本音」さえ公言することはできないはずだ。個人として責任を取る覚悟など無いのである。

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本書の内容は、次のようなものである。

『ロリィタ、お姫様、妖精のドレス、少年装、幻獣のような髪、メイク……
気鋭の歌人・小説家が「装いと解放」を綴る、初のエッセイ集。』

たしかに『ロリィタ、お姫様、妖精のドレス、少年装、幻獣のような髪、メイク……』といったものは、ごく限られたものとは言え「今の流行り」である。だからこそ、川野のような「異端」の作家にも「商業的な需要」があるのだが、しかし、そうしたものは、いまだ「世間」からすれば、所詮「珍獣」でしかない。

だから、川野芽生は、自身が「世間の言う珍獣」であることを認め、それを引き受け、そうあることに「誇り」を持って、「珍獣」の、「世間主流の価値観」からの『解放』を目指して「抵抗」しているのだ。
川野は「流行に流されている」のではなく、「傍流の立場に立って、主流の価値観に乗ることに抵抗している」のである。

「たしかに私は(かわいいピンクの竜という)珍獣です。でも皆さんは、珍獣でさえあり得ない、どどめ色の凡獣なのですよ。そのことにお気づきになってますか?」と、そういうことなのである。
そして、あわててつけ加えるなら、自覚的に選択するのなら、「どどめ色の凡獣」でも、それは何も悪くはない。そこに差別はないからだ。



(2024年5月30日)

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