本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小74② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ小74②
2光秀の年齢 4光秀、最大の敵 2/6
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*加筆修正
そ小74② そ第74話②
5信長の脳裏には、武田勝頼の首。
信長は、絶対的な武力を手に入れた。
「我ながら驚き入る計りに候」 【 重史 018】「「武家事紀」
これすなわち、「武田効果」。
信長は、絶大な自信を得た。
武田滅亡 → 「武田効果」 → 毛利滅亡 → 天下布武は成る。
6事態急変。
五月七日、四国出陣命令。
同十七日、中国出陣命令。
石谷頼辰、未だ帰らず。
すなわち、交渉失敗。
「万事休す」
光秀は、絶体絶命の窮地に追い込まれた。
同二十九日。
そこに、・・・・・。
六月一日、出陣の日。
すなわち、
武田を滅亡させたことが、
信長の「油断」を生み、
光秀に「隙」を与える結果となり、
逆に、「本能寺の変」の主要原因の一つになったと言えよう。
⇒ 次へつづく
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