見出し画像

『珍奇な音』



『珍奇な音』


阿呆みたいな顔をしてあくびをしていた。
すると、隣の部屋で珍奇な音がする。
それはバチで木魚を叩いているような音だった。
ポクポクという籠ったような音が、きれぎれに聞こえてきて、それが確実に私の鼓膜を刺激してくる。
隣の部屋には、歯科衛生士をやっていそうな雰囲気の二十二、三の女がひとりで住んでいた。


その女がこんな深夜に木魚を叩いているとは到底思えない。しかし、どう考えても、ポクポクという木魚のような音がするのである。そのうち、裏打ちで念仏や読経まで聞こえてきそうな気配だった。
ここは知恩院かといぶかしがっていると、しばらくして、その木魚の音がピタリと止んだ。
すると、今度は、悪鬼の形相で生のトウモロコシを齧っているようなガリガリガリという不愉快な音がする。さすがに私はその音に気味が悪くなり、頭から布団を被った。布団の中は静かだった。


言い忘れたが、私が住んでいるアパートの部屋の壁は薄い。女と反対側の部屋は、大学生と思しき、うらなりの胡瓜のような顔の男が住んでいる。
その男は時々、野太い声を出す彼女を部屋に連れてくるので、深夜から朝方にかけて、強弱のついた女の喘ぎ声が響き続けた。甚だ迷惑な話である。

三日後、アパートの通路で隣の部屋の女と会った。
黒髪ボブの小柄な女は、前髪の乱れをしきりに気にしていたが、私とすれ違うとき、律儀に、こんにちはー、と挨拶していった。私はひどく困惑した。
あの童顔で丸顔の可愛らしい女が、深夜にあんな珍奇な音を出しているのか。信じられない。
アパートの前の小さな花壇には鮮やかな黄色の金糸梅が咲いており、近くの樹木からは耳をつんざくような濃い蝉の声が間断なく降り注いでいた。

さらにその五日後の朝方である。
隣の部屋から、「しろやぎさんからおてがみついた〜くろやぎさんたらよまずにたべた〜しかたがないのでおてがみかいた〜さっきのてがみのごようじなあに〜」という音程の外れた歌声がしてきた。
私はたまらず、布団から這い出て、壁をにらみつけながら、「あの女、気が狂ってやがる」とつぶやいた。そして、私は井絣模様の座布団の上にあぐらをかき、手の爪をいじりながら悶絶していると、今度は、そのヘタな歌に合わせるように、キュリキュリキュリキュリというムクドリの群れの甲高い鳴き声みたいなのがしてきた。それが妙に神経に障って仕方がない。巻き舌になって発狂する寸前である。

私は頭から布団を被り、前歯で乾燥した下唇を力強く噛みながら、気をまぎらわすためにエロいことなんかを適当に考えていると、その異様な音がピタリと止んだ。私は少し考えた後、壁に耳をつけた。
すると、隣の部屋はぞっとするほどの無音に包まれていた。隣の部屋は空き部屋だったのである。
あの女は他の部屋の住人だったらしい。私は背中にじっとりとした不快な汗をかいていた。

今、私は無職である。昼も夜もないような生活だ。
無職でいると、身も心も薄ら寒いような状態が常に続いており、生きていることが何となく嫌になる。部屋でテレビを観ていても映画を観ていても本を読んでいても純粋に楽しむことができない。そうかといって、出歩くと、他人の目ばかりが気になった。
仕事がないことに悩みすぎて、ろくでもない想念ばかりがわいてくる。こんな私の存在を気にしてくれる人などこの世の中にひとりもおらず、たとえば、このカビ臭い六畳間で首を吊っていたとしても、しばらくは誰にも気づかれないのかもしれないなどと思いつめてしまうほど、精神が錯乱しているのだ。

私は布団の中で、毎年濃くなってくるあご髭を撫でながら息を殺していた。そのとき、奥歯のあたりでジャリジャリという音が鳴る。半日以上前に飲んだ味噌汁の浅蜊の砂が、今頃になって口の中のどこかから出てきたらしい。私はその砂をごくりと飲みこむと腹がぐるぐると鳴った。無職でも腹は減る。
仕方なく、私は体毛まみれの畳を這って台所へ行った。冷蔵庫には水とひじきの煮物、炊飯器には黄ばんだ硬い米しか残っていなかった。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。


この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,720件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?