マガジンのカバー画像

エッセイ他

117
長めの詩と、物語と、ポエムの延長線上にあるエッセイと。
運営しているクリエイター

#短編小説

忘れたい何かを取り戻す

忘れたい何かを取り戻す

 消し去ってしまいたい記憶も自分を構成する一部分ではあるのだから、忘れようとすれば心のどこかを切り離すことになる。

 夫を忘れようとしていた。そのことに気付いた時、身体に中身が少し戻ってきたような気がした。ランダムに形を変える模様のようだった景色が意味を取り戻そうとしているのを感じた。

 僕の生活の大部分は夫に紐付いていた。夫を忘れるためには、生活を忘れる他なかったのだ。

 ほぼ夫としか話さ

もっとみる
彼の新しい犬

彼の新しい犬

 ケーキボックスみたいな紙の箱の中からキャンキャンと甲高い声が聞こえる。

 片頬を上げて「買ってきちゃった」と言う彼。全身の筋肉が弛緩して重たい泥のように溶けていく。開きかけた口は貝のように閉ざす。抵抗してももう無駄だ。

 箱から取り出したふわふわの子犬を彼は僕の膝に乗せる。君によく似た濃い琥珀色の目と、君に似ていない垂れた耳。覚えのある体温。

 君の定位置だったあの窓辺で、君が寝ていた空色

もっとみる
バスタブの下の地獄(虫を殺す話)

バスタブの下の地獄(虫を殺す話)

 バスタブに満ちるピンク色の海、ゴム栓の裏の奈落。

 生温い汚水から這い上がっても、柔らかいようでいて歯を立てるには硬過ぎるゴムの天井が立ちはだかる。

 筒に封じ込められた高濃度の闇。もがき疲れて溺れるか、少ない酸素が尽きて窒息するか。

 そこに彼あるいは彼女を突き落としたのは僕だ。

 空飛ぶ小豆のような塊が目に入り、何も考えず手に持っていたシャワーを向けた。

 放出される無数の水滴はそ

もっとみる
死にたい君に僕ができることはない

死にたい君に僕ができることはない

 死にたいという感情は、「恥ずかしい」と「帰りたい」と「会いたい」の混合物だ。

 できなければいけないことができない自分の不甲斐なさ。誰かに取り返しのつかない傷を負わせてしまった後悔。何の役にも立たず迷惑をかけてばかりの申し訳なさ。

 臭くて汚い惨めな裏切り者の自分を見られたくない。穴があったら入りたい。永遠の墓穴に。

 そしてもう戻って来たくないくらい疲れている。

 逃げ道はまだあるかも

もっとみる
【小説】仮面と食卓(食事と夫婦関係の話)

【小説】仮面と食卓(食事と夫婦関係の話)

 このお皿、ヒラメの形だね、なんて他愛ない気付きを口にして、ほんとだ、って何のひねりもない返事をもらって、あれ、ヒラメとカレイってどっちがどっちだっけ、とかどうでもいい話をして。

 ヒラメの皿の上から焼き魚を口に運ぶために彼の手は塞がる。テーブルの上の品々が彼の視線を外に向けさせる。

 差し出したわたしの言葉が受け取られる。同じものを見ている。彼の意識の窓がわたしのほうを向いて開いている。

もっとみる
不義

不義

 結婚という契約を交わした男と女は無条件に祝福すべきものとされている。

 人を集めて幸せそうな顔をしてみせて、永遠という空疎を誓う。体裁さえ整えておけば、そこは喜びの場なのだという約束事が、不安も憂鬱も塗り込めて覆い隠す。

 婚姻関係という型に収まって数年後、喪失をきっかけとした心身の不調に対処するために読み漁った本から得たいくつかの概念は、私にとって禁断の知恵の木の実だった。

 どんなとき

もっとみる
【詩/小説】救済者への手紙

【詩/小説】救済者への手紙

神様の傍にいた頃。
霧の向こうに目を凝らし、薄氷の軋みを足下に聞いていた。
道は揺らぐ鬼火が朧に照らしていた。
神の御意志から外れ罰を受けることを恐れてはいても、無重力の闇の恐怖は味わわずに済んでいた。

求められていた。
全力を超えて、何も考えられなくなるまで。
何も感じられなくなるまで。
己の形を見失うまで。
消えることすら許されないくらい、必要とされていたのだ。

お前に連れ出されるまでは。

もっとみる
物語詩「弱い鹿と強い猫」

物語詩「弱い鹿と強い猫」

気弱な猫と凛々しい鹿は
寄り添いあって生きていた

鹿は樹の形の角を振って
猫を猛禽から守ってやり
猫は体中毛繕いをして
鹿を虫から守っていた

にこにこ暮らしていただけなのだけれど
過激派の山猫に目を付けられ
二匹一緒に捕まった

偶蹄と交わるなど許されないと
猫はあちこち噛みつかれ
血だらけのまま犯された

藪の向こうの鹿の悲鳴が
傷口よりもずっと痛くて

鹿だけでも逃がせるのならば
何にでも

もっとみる
物語詩「親の子供」

物語詩「親の子供」

退屈な神様は悪戯で
五歳の魂を大人の体に
三十路の魂を子供の体に
入れ替え 封じて 放り出した

三十路の頭を過る責任
任された仕事はやりかけのまま
家族友人はどうしてる?
自分が体を奪ってしまった
この小さな子の魂は?

揺れる心で見上げた親は
少し老けた自分の顔
だけど仕草は幼くて
この体がちょうど似合うくらい

何とか元に戻らなければと
考えたところで何もできない
ボタンも留められない短い指

もっとみる
物語詩「子供の親」

物語詩「子供の親」

退屈な神様は悪戯で
五歳の魂を大人の体に
三十路の魂を子供の体に
入れ替え 封じて 放り出した

五歳は大きくなった体で
鼻高々に歩いていた
大人の高さからよく見える
二人三脚の恋人たち
子を真ん中に手をつなぐ家族
普通の大人のあるべき姿
目指す五歳は意気揚々

綺麗な人や 可愛い人や かっこいい人
手当たり次第に声を掛け
付き合ってくださいと声高らか
笑われ拒絶されたなら
あっかんべーして罵った

もっとみる
物語詩「痛む人」

物語詩「痛む人」

昔 人には痛みが無かった
痛みを知らない人々の中に 痛みを感じる人が生まれた
紙に切られた指先の 何とも言えない不快な疼きを どうやらみんなは知らないらしいと
ぼんやり気付いたその人が
その感覚を痛みと名付けた

得体の知れない苦しみに 名前が付いたのが嬉しくて
痛む人はみんなに話した
「僕は『痛み』を感じるんだ
みんなは感じないみたいだけれど
体を切ったりぶつけたりすると すごく嫌な感じがするん

もっとみる
物語詩「月に満ちる金木犀」

物語詩「月に満ちる金木犀」

たわわな金木犀の枝を手折り
鏡映しの僕が言う

「夜空の月の洞の中には
金木犀が咲くんだよ
月光の流れのせせらぎと 空からこぼれる花の甘さで
天使を魅入らせ閉じ込めるんだって」

沈む望月にかざす朝焼け色の香り
同じ香を持つ月へとつながり
僕らを天使に会わせてくれると
君が抱く儚い希望
僕の胸と通じ合う
そっくりの兄弟
互いのことは何だって知ってる

神様は僕らに試練を与える
神様の愛を知らしめる

もっとみる
短編小説「憧憬の姉妹」【2000字のホラー】

短編小説「憧憬の姉妹」【2000字のホラー】

アパートの錆びた階段に立っていた。
どうやって帰ってきたのか記憶にない。延々と夢を見ている気がする。母が死んでから。

いつまでも子供みたいな母だった。
わがままで天真爛漫で。俺のほうが親なんじゃないかと思うくらい。
幼子が犬の子を欲しがるみたいにまだかまだかとせがんでいた孫を抱かせてやることは結局できなかった。

終電後の住宅街は底無しの海みたいで、寄る辺なさを嫌でも自覚させられる。

世界が縦

もっとみる
物語詩「裏庭の少女」

物語詩「裏庭の少女」

裏庭の老木が
いつか見たクリスマスツリーみたいに燃えた
女は鬼の顔をして
「一族の仇を討ちなさい」と
娘に告げて事切れた
死を許されなかった少女は
裸足で焼けた土を蹴る

一人きりの少女
持ち物は腹の空しさだけ
焼き立てのパンに伸ばした手
捕らえたのは膨らんだ生地みたいな店主
「隣村の生き残りかい」
白い顔が同情に塗られて
少女の硬い腕に押し込まれたバゲット

仇討ち少女は風に知れ
次々村人に招か

もっとみる