尊王攘夷

【幕末をべしゃる時】第9話~目がもうバッキバキやん!~

日米和親条約をかわした後の幕府の内部。 条約を結んだことに対して、顔を真っ赤にし頭から湯気が出ている人物がいました。 親藩水戸藩のお殿様 徳川なりあき です。 せっかく幕府のど真ん中に入れてもらったのに、 なりあき:『日米和親条約だと?!なんだそりゃ、俺は納得いかねえー!幕府から抜けるっ!』 ちゃん阿部:『わっかりましたー』 なりあき:『引きとめるなら今だぞっ!!』 ちゃん阿部:『とめません!』 なりあき:『とめないのか――――っ!』 って叫んで辞めちゃ

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【師弟同行・師弟共学で向上する】

今日は『師弟同行・師弟共学で向上する』 についてお伝えしていきます。 本日は蠍座新月で執着していることを 手放し目標に向かって突き進むと 良いことが起こりそうです。 時は遡ります。 1857年11月5日 「吉田松陰」が 「松下村塾」を開講しました。 松下村塾を創設したのは 松陰の叔父である 「玉木文之進」です。 1842年兵学者だった玉木氏は 長州松本村(現在の山口県萩)に 私塾を開きました。 村の名前である「松本」を 「松下」に漢字を置き換え 松下村の塾ということ

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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#14

決行(3)  扉を叩き壊して、中に入った三人は、建築用の木材が積み重なっている、作業中の場所を見つけた。 「ここでなんとかなるじゃろうか」 聞多が福原に声をかけた。 「ようし、ここに火をつけよう」  福原が焼玉を取り出すと、聞多と堀も続いた。カンナ屑など燃えやすそうなものを集めて、その上に焼玉を置き、板などを重ねて火をつけた。この時、聞多は一つ手元に残していた。もう逃げようと福原が声をかけたので、立ち去ろうとした。  火の行方を気にしながら聞多は何度も振り返った。思ったより

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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#13

決行(2)  公使の暗殺を計画し失敗した面々は、一つのところに押し込められ謹慎となった。ただおとなしくしていられる訳はなく、次の事態に備えるため盟約をかわすことになった。まず動いたのは高杉だった。ここにいるのはそもそも同士だ。攘夷決行を進めることに意義はない。久坂の書いた盟約書に署名と血判を連ねていった。当然聞多も加わった。これが御楯組の結成となった。その後謹慎が解けると志のありそうな人たちにも声をかけていった。その中には江戸に戻っていた俊輔もいた。 「高杉さんも、聞多さんも

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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#12

決行(1)  約束通り神奈川の旅籠に集まった皆は、景気づけに酒盛りを始めていた。すると用事を済ませて戻った山尾庸三が切り出した。 「なんかこの宿の周りに、取締方のような連中がいるようなんだが」 「なんだって、公儀のものだろうか」 「われらのことが漏れたのか」  山尾の言葉を聞いて、窓から外の様子をうかがうものや不安を口々に言うもので、先程の間での鷹揚さはかき消されていた。 「こちらから手出しをせねば、騒ぎにはなるものではないだろう。落ち着け。冷静になるんだ」  高杉が皆の気

【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~♯9

尊王攘夷の道(3) そんな中で聞多は殿の御小姓から世子様(お世継ぎの養子)の御小姓にお役目が変わった。そのため基本江戸在勤だが、時々世子様が京にも御用で行かれるので江戸と京を行き来することになった。俊輔は来原良蔵の死後遺族への遺品の引き継ぎなどで帰国していたが、また桂の仕事の補助をするように戻っていた。  俊輔が桂の部屋に呼ばれると、上海から帰国した高杉が説明しているようだった。桂は俊輔にそこに座って話を聞くように言った。  上海で高杉が見た清と欧米の力関係や清の人々の実態な

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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~ #8

尊王攘夷への道(2)  その頃聞多は自室で大の字になっていた。手元には航海遠略策、床の上に海国兵談の一部が置かれていた。 「海は異国にも続いている」 「防御するには、砲台や台場を築く」 「海か。船だ。蒸気船が必要。海軍だよなぁ。国力もか。金がなければ船を買えない、作れない、か」 「港を開くには|勅許〈みかどのおゆるし〉が必要と」 「帝の勅許なき条約は破棄」 「その後正統な条約を結ぶべきか」 「開国・交易、鎖国・攘夷」 「攘夷も即時と未来があるんか」 「弱腰の公儀に代わり夷狄を

【世界の中の日本】維新に群がる有象無象

国内で攘夷運動が盛り上がる一方で、実際に外国と戦火を交えることも出てきた。その最初の例となるのが、文久3年(1863)の薩英戦争だ。 薩英戦争は、前回書いたとおり、生麦事件に対する報復と称してイギリス代理公使のジョン・ニールが、幕府から11万ポンド(第二次東漸寺事件の1万ポンドを含む)の賠償金をせしめた上に、更に薩摩まで自ら7隻の艦隊を率いて討伐に出向くという、およそ公使の名にふさわしからぬ、何の正当性も見いだせない軍事行動であったと言える。トップの公使が替わるだけで外交方

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【世界の中の日本】攘夷の動き

さて、安政5-6年(1858-59)にかけて安政の五カ国条約が相次いで締結され、安政7年には万延元年遣米使節を派遣してこの批准作業を行った。そしてその年、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、攘夷の動きが活発化していた。その攘夷の動きを順に見てゆきたい。 ムラヴィヨフ まず、安政6年(1859)、ロシア東シベリア提督のニコライ・ムラヴィヨフが7隻の艦隊を率いて江戸湾に現われ、国境策定交渉を求めた。このムラヴィヨフは、清に対して愛琿条約を押しつけ、アムール川北岸の領有を認め

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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#7

尊王攘夷への道(1) 「時代は僕らをのんびり過ごさせてはくれなかったんだ。」 俊輔は説明を続けた。 「公儀が外国と結んだ条約を巡って港を開くか、あくまでも鎖国を続けるか、交易はしないが寄港を許すかという問題があった。鎖国・開国・夷狄である外国人を討つべき・外国と戦えるまでは相手を利用すべき・公儀のもとで政治を行う・帝こそ政治の中心等意見の交錯もあってたくさんの主義主張が乱れ飛んでいた。主義主張が政治闘争となると血なまぐさい事件にもつながっていく。長州も安政の大獄で亡くなった吉