水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • インドシナ半島史

    インドシナ半島の歴史をまとめています。

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • インド史

    インドを中心とした南アジアの歴史をまとめています。

  • ローマ・イタリア史

    古代ローマから連なるイタリアの歴史です

  • バルカン半島史

    「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまとめています

最近の記事

インドシナ半島史⑤ ~パガン朝~

中国・雲南地方の南詔国に居住していたシナ・チベット語族のビルマ人が、11世紀に南下してイラワディ川流域へと勢力を広め、先住のピュー人やモン人を征服しながら、文字や上座部仏教や灌漑農業技術を取り入れ、1044年にビルマ最初の統一王朝であるパガン朝を建設した。首都パガンには多くのパゴダ(仏塔)が建てられ、歴代の王たちも仏教に深く帰依し、仏教文化が開花した。13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロの「東方見聞録」には、建寺王朝とも呼ばれたパガン朝の仏教建築群の豪華さが讃えられている。

    • インドシナ半島史④ ~アンコール朝~

      扶南を滅ぼして成立したカンボジア・クメール王国(真臘)は、8世紀には北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂していたが、9世紀初頭にアンコール朝のジャヤヴァルマン2世によって再統一され、現在のカンボジア周辺のみならず、ベトナム南部のメコン川デルタ地帯を含むコーチシナや、ラオスの大部分、タイの東部をも含む、インドシナ半島最大の王国となった。アンコール朝は12世紀のスールヤヴァルマン2世の時代に全盛期を迎え、壮大な寺院建築であるアンコール・ワットも、この時代に建設された。 世界遺産とし

      • インドシナ半島史③ ~ドヴァ―ラヴァティー・真臘~

        6世紀か7世紀頃に、タイ地域のチャオプラヤ川流域にドヴァーラヴァティー王国が建国された。これは現在のタイ人とは異なり、ベトナム人やクメール(カンボジア)人と同系統のオーストロアジア系に属するモン人による王朝であり、やはりインドの影響を強く受け、上座部仏教を受容した。上座部仏教とは、戒律を厳格に守って伝統を継承し、修行を通じて悟りを開くことを第一義に置く宗派である。一方、中国・朝鮮・日本・インドネシアなどに伝わったのは大乗仏教と呼ばれる宗派であり、個人の悟りよりも広く民衆を救済

        • インドシナ半島史② ~ピュー・扶南・林邑~

          ベトナム北部地域のドンソン文化が紅河(ホー河)流域に興ったのと同様、ビルマ地域を流れるイラワディ川中流域にはピュー、カンボジア地域を流れるメコン川流域には扶南(ふなん)が興った。ピューはシナ・チベット語族に属する民族で、インドの影響を受けて仏教色の強い古代王国を建設した。ピューは8世紀に全盛を迎えるが9世紀に中国南部に興ったチベット民族系の南詔に圧迫されて姿を消す。宮殿や仏塔を含むピューの古代遺跡は煉瓦造りの城壁で囲まれた城塞都市の姿をとどめ、2014年に世界遺産に登録された

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        • インドシナ半島史
          5本
        • 27本
        • インド史
          16本
        • ローマ・イタリア史
          31本
        • バルカン半島史
          30本
        • オリエント・中東史
          50本

        記事

          インドシナ半島史① ~ドンソン文化~

          東南アジアの大陸部は、インドシナ半島と呼ばれる。これはインドと中国の間に位置することからヨーロッパ人がつけた名称であるが、その名の通り古来からインド文明と中国文明の双方の影響を受けた地域である。紅河(ホン河)・メコン川・チャオプラヤ川・イラワディ川などの大河を擁するインドシナは、大河流域の平野部に豊かな米作地帯を持つが、一方で熱帯雨林に覆われた山岳地帯も多く、複雑な地形に多くの民族が分布し、さまざまな王朝が興亡しながら多彩な文化を発展させてきたのである。 インドシナ地域にお

          インドシナ半島史① ~ドンソン文化~

          Shake Hands

          たとえば君が道に迷い  途方に暮れて立ちすくんだ時 僕が少しだけ手を貸そう 君に輝きが戻るまで  一緒に空を見上げていよう 日々の暮らしを抱えこんで  僕の片手は一杯だけど いつだって あけてある  もう片方の手は君のために Shake Hands 握手をしよう  抱きしめることはできなくても Shake Hands ここにいるよ  君のことを見ているよ たとえば 君が疲れ果てて  自信を失くして落ちこんだ時は 僕が少しだけ手を貸そう いつもの笑顔が戻るまで  ジョ

          インド史⑯<最終回> ~21世紀のインド~

          1998年の総選挙でヒンドゥー至上主義を唱えるインド人民党(BJP)が勝利し、国民会議派は独立以来初めて政権を失った。インド人民党は核武装を公約しており、選挙後ただちに核実験に踏み切った。もともとインドは他の大国が核兵器を保有していることから核拡散防止条約(NPT)や包括的核実験禁止条約(CTBT)に反対して加盟を拒否していたが、この時点で核兵器の保有を公式に宣言したわけだ。これに対して危機感を抱いた隣国パキスタンも核実験を強行。翌年にはインドの実効支配地域にパキスタンが侵攻

          インド史⑯<最終回> ~21世紀のインド~

          インド史⑮ ~戦後の南アジア~

          1950年、インド共和国憲法が成立し、インド連邦はインド共和国として新たな一歩を踏み出した。憲法では、ヒンディー語が新生インドの公用語とされた。一方、パキスタンではウルドゥー語が公用語となった。宗教だけでなく言語の面でも、インドとパキスタンは分離の道を選んだのである。 ヒンディー語は現代において中国語・英語に次ぐ世界第三位の使用者数を持つ言語だが、その歴史は意外に新しい。もともとムガル帝国の公用語は、征服者であるムスリムが西方のイスラム世界から持ち込んだペルシア語であった。

          インド史⑮ ~戦後の南アジア~

          インド史⑭ ~分離独立~

          二つの大戦を終えたイギリスには、もはや広大なインドを植民地として支配し続けるだけの力は残っていなかった。チャーチルの後を受けた英国のアトリー内閣は1947年にインド独立法を可決。それを受けて、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦とイスラム教徒の国であるパキスタンが分離独立した。独立当初のパキスタンはベンガル地域とパンジャブ地域の東西に分かれており、地図の上では中央のインド連邦を東パキスタン(後のバングラデシュ)と西パキスタンが挟み込む形になった。ガンジーの望んだ宗教融和による「

          インド史⑭ ~分離独立~

          インド史⑬ ~マハトマ・ガンジー~

          1914年、第一次世界大戦が勃発すると、インドの反英勢力はこれを好機として武装蜂起を企てた。翌年のラホール事件では多くの逮捕者や処刑者が出て首謀者の一人であるラース・ビハリー・ボースは日本に亡命した。新宿中村屋の長女と結婚した彼は、日本にインドカレーをもたらした。過激化する反英闘争に対して、イギリスはインド防衛法を制定し、インド人の政治活動の自由を制限するとともに、危険人物の予防拘禁を可能とした。 インドには戦争で英国に協力することで地位向上を目指す人々も多く、徴兵に応じて

          インド史⑬ ~マハトマ・ガンジー~

          インド史⑫ ~英領インド帝国~

          1877年に英国ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるという形で大英帝国の直属となったインド帝国では、現地住民の連帯を阻むために、さまざまな分割統治政策がとられた。まずは各地域の藩王(マハラジャ)に対する分断策である。イギリスに抵抗する藩王は武力で抑え込んでその領地を英国直轄領とし、服属した藩王には一定の自治権を与えて間接統治を行ったのだ。各々の藩王とは個別に協定を結び、待遇に差をつけることで分断を図ったのである。加えてインド古来のカーストを利用した分割政策も行われた。 英国

          インド史⑫ ~英領インド帝国~

          インド史⑪ ~インド大反乱~

          18世紀後半から19世紀にかけて、デカン高原のマラーター同盟や南インドのマイソール王国との戦争に勝利し、インド中南部にも支配を広げたイギリスは、北西部のパンジャブ地方でムガル帝国から自立していたシク王国にも戦争を仕掛けた。アフガニスタンやイラン地域へのロシアの南下を警戒し、隣接するパンジャブ地方を傘下に収めようとしたのである。 ここでも勝利を収めたイギリスは、パンジャブ地方を直接統治下に置き、パンジャブ北方の山岳地帯であるカシミールにはヒンドゥー教徒の藩王を置いて間接統治を

          インド史⑪ ~インド大反乱~

          インド史⑩ ~イギリスのインド支配~

          ムガル帝国の内部分裂と弱体化に伴い、イギリスとフランスのインド植民地化への動きが加速した。大航海時代に西海岸のゴアに拠点を築いたポルトガルは貿易で巨額の利益を得たが、広大なインドを植民地化するほどの力はなかった。だが、17世紀末から18世紀にかけてインドに進出した英仏両国は、いずれも重商主義政策をとって国を挙げての植民地獲得競争に乗り出しており、ヨーロッパのみならず、アジアやアメリカ新大陸などでも熾烈な争いを繰り広げていたのである。インドも否応なしに、その激流に飲み込まれてい

          インド史⑩ ~イギリスのインド支配~

          インド史⑨ ~シャージャハーンとアウラングゼーブ~

          アクバル帝によるムスリムとヒンドゥーの融和策が功を奏し、16世紀後半から17世紀にかけてムガル帝国は安定期に入り、イスラム文化とインド土着の文化が融合したインド・イスラム文化も最盛期を迎えた。イランからの影響を受けた細密画(ミニアチュール)は、当初は宮廷の保護を受けたムガル絵画として発展し、やがて一般民衆にも広まって庶民的なラージプート絵画となった。第5代皇帝のシャー・ジャハーンはデカン高原まで領土を拡大し、1648年に新都シャージャハーナバード(後のデリー)を建設してアグラ

          インド史⑨ ~シャージャハーンとアウラングゼーブ~

          インド史⑧ ~ムガル帝国とヴィジャヤナガル王国~

          16世紀に北インドを征服して成立したムガル帝国は、スンニ派イスラム教を奉じ、ペルシア語を公用語とした。「ムガル」とはモンゴルを意味するものだが、これは建国者であるバーブルがモンゴル・トルコ系の英雄ティモールの子孫であったことに由来している。征服者の宗教や言語を強要されれば、当然のことながら土着の宗教や言語との間に摩擦が生じることになる。言語においては、宮廷語としてのペルシア語に、北インドの民衆言語であるヒンドゥスターニー語などが融合してウルドゥー語が生まれた。アラビア文字で表

          インド史⑧ ~ムガル帝国とヴィジャヤナガル王国~

          インド史⑦ ~イスラム勢力のインド進出~

          7世紀初めにアラビア半島で興ったイスラム教は短期間の間に中東から北アフリカや西アジアに広まり、8世紀にはインドにも波及した。711年にウマイヤ朝の遠征軍がインダス川下流域のシンド地方に侵攻し、翌年にはシンド王を戦死させて当地を征服したのである。ただし、当時は北インドに割拠していたラージプート諸侯に阻まれ、それ以上の侵攻はままならなかった。イスラム勢力のインド進出が本格化するのは、10世紀後半にアフガニスタン地域を支配したガズナ朝のインド侵入以降である。 ガズナ朝の全盛期をも

          インド史⑦ ~イスラム勢力のインド進出~