水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • ローマ・イタリア史

    古代ローマから連なるイタリアの歴史です

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • バルカン半島史

    「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまとめています

  • オリエント・中東史

    中東史の連載記事です

  • トピック

    近況報告や雑多な記事をまとめたものです。

最近の記事

ローマ・イタリア史⑰ ~中世キリスト教社会の変質~

中世キリスト教思想の精神的基盤を築き、ローマ教会の理念を確立させたのは、西ローマ帝国末期に活躍し、「教父」と呼ばれたアウグスティヌスであった。彼は世俗の権力を超越する「神の国」を現出させる存在として教会を位置づけ、その理論は後世の神学の礎となった。西ローマ帝国の滅亡後も、ローマ教会が宗教的権威の象徴として命脈を保ったのは、彼の功績によるところが大きいであろう。 しかし時代が下り、世俗権力との結びつきを強め、自らも領地や財産を持つようになったローマ教会は、次第に純粋な信仰から

    • ローマ・イタリア史⑯ ~中世イタリア分裂時代~

      800年のカール大帝(シャルルマーニュ)の戴冠によってローマ教会の宗教的権威と結びついたフランク王国は西欧地域一帯に支配を及ぼしたが、カール大帝の死後、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約を経て、西フランク・東フランク・イタリアの三国に分割され、それが現在のフランス・ドイツ・イタリアの起源となった。ただし「イタリア」と言っても、半島全域ではなく、北部のみである。南部は分裂状態のまま東ローマ帝国の影響下に置かれ、地中海の支配は対岸の北アフリカ一帯とイベリア半島を支配

      • ローマ・イタリア史⑮ ~西欧キリスト教世界の成立~

        西ローマ帝国の滅亡によって分裂状態に陥った西欧世界の人々の紐帯となったのは、帝国末期に国教としての地位を得たキリスト教であった。ゲルマン人の一派であるフランク族が建てたメロヴィング朝フランク王国では、国王クローヴィスがキリスト教に改宗。5世紀から6世紀にかけてガリア一帯に勢力を広げた。一方、北イタリアでは、オドアケルの王国を滅ぼした東ゴート王国がビザンツ帝国によって滅ぼされ、6世紀にはランゴバルド(ロンバルド)王国が建国された。そんな中で、ローマ・カトリック教会は、諸勢力と巧

        • ローマ・イタリア史⑭ ~西ローマ帝国の滅亡~

          ローマ帝国が東西に分裂した4世紀から5世紀にかけてはヨーロッパにおいてゲルマン人を主とした民族大移動が起こった時期でもある。東から侵入してきたアジア系騎馬民族のフン族に押されて、多くのゲルマン民族が欧州各地を移動し、それぞれの地でゲルマン系国家を樹立した。アングロ=サクソン人はブリテン島、フランク人は南西フランス、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ヴァンダル人は北アフリカで建国し、ヨーロッパは大移民時代を迎えたのである。 西ローマ帝国では軍事に優れたゲルマン人

        ローマ・イタリア史⑰ ~中世キリスト教社会の変質~

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        記事

          ローマ・イタリア史⑬ ~帝国の分裂~

          3世紀末から4世紀にかけて、ディオクレティアヌス帝による分割統治下に置かれたローマ帝国は、後継のコンスタンティヌス帝によって、東方に重心を移した形で再統一される。313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した帝は324年のアドリアノープルの戦いで東の正帝を名乗っていたリキニウスを破り、翌年のニケーア公会議を自ら主宰して教義を統一。イエスの神性を認めないアリウス派を異端として退け、イエスを神格化するアタナシウス派を正統と位置付けた。先代のディオクレティアヌス帝が迫害したキリスト教を

          ローマ・イタリア史⑬ ~帝国の分裂~

          ローマ・イタリア史⑫ ~キリスト教の迫害から公認へ~

          ローマ帝国の最盛期から分裂・衰退期に至る歴史は、キリスト教との関係を抜きには語れない。1世紀中頃、イエスの弟子であったパウロが、小アジアからローマにかけて旺盛な布教活動を繰り広げたおかげで、キリスト教はユダヤの地域宗教から世界宗教へと脱皮しつつあった。選民思想を根底に持つユダヤ教とは異なり、民族の枠を超えて全ての人間の普遍的な愛と救済を説くキリスト教は、世界最大の多民族帝国であったローマの人々の心をつかんだのだ。 加速度的に信者を増やしていく新興宗教の存在は、帝国の支配者に

          ローマ・イタリア史⑫ ~キリスト教の迫害から公認へ~

          ローマ・イタリア史⑪ ~すべての道はローマに通ず~

          ギリシャ・ローマ文化といえばヨーロッパ文化の源流として有名だが、ギリシャ文化とローマ文化は各々の特色において大きく異なる面を持つことも良く知られている。「征服した土地にギリシャ人は神殿を建てるが、ローマ人は道路と水道を作る」と言われるように、ギリシャ文化が哲学・思想などの精神的側面において優れた発展を見せたのに対し、ローマ文化は土木・建築や法体系の整備などの実用的側面において後世に残る輝きを見せた。 ローマの土木・建築技術は、同時代において抜きんでていただけでなく、現代にも

          ローマ・イタリア史⑪ ~すべての道はローマに通ず~

          ローマ・イタリア史⑩ ~パックス・ロマーナ~

          紀元前27年の初代皇帝アウグスティス時代から後180年の五賢帝時代終結までの約200年をパックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ぶ。それまでの地中海世界は、前5世紀のペルシア戦争から前1世紀のアクティウムの開戦まで500年にわたって戦火の絶える時がなかったが、ローマが広範囲にわたる覇権を確立したことで、地中海がローマの内海となり、政治的安定がもたらされたのだ。支配を受ける側の属州民としては、ローマの統治に不満を抱く者も少なくなかったであろうが、圧倒的な財力と軍事力を持ち、幾多の

          ローマ・イタリア史⑩ ~パックス・ロマーナ~

          ローマ・イタリア史⑨ ~アウグストゥス~

          前31年のアクティウムの海戦でアントニウスを破ったオクタビアヌスは、前29年に元老院からプリンケプス(元首)の称号を与えられ、名実ともにローマの最高権力者となった。彼は内政面では能力による変動も織り込んだ身分制の確立による社会秩序の安定に努め、対外面では属州を拡大しつつエジプトをはじめとした穀倉地帯からの食糧供給の増産を図った。ケルンやマインツ、アウクスブルグなど、彼の時代に建設された植民市で、今もその名を残す都市は数多い。また、首都ローマを中心に、大規模な土木・建築工事を実

          ローマ・イタリア史⑨ ~アウグストゥス~

          ローマ・イタリア史⑧ ~第二回三頭政治~

          カエサル(シーザー)の死後、後継者として並び立ったのは、カエサルの信頼を得ていた有力部将のアントニウスと、カエサルの養子オクタビアヌスであった。もうひとりの部将レピドゥスを仲介役として前43年、三人の間で第2回三頭政治が成立。アントニウスは東方の属州を、オクタビアヌスは西方の属州を、レピドゥスは北アフリカの属州をそれぞれ支配下に置くことになり、数年の間は勢力均衡による平和が訪れた。中国の三国志や朝鮮半島の三国時代などの例にもみられるように、古今東西、パワーバランスの維持には「

          ローマ・イタリア史⑧ ~第二回三頭政治~

          ローマ・イタリア史⑦ ~ジュリアス・シーザー~

          ユリウス=カエサル、英語名ジュリアス=シーザー。言わずと知れた、ローマ史上随一の英雄である。ガリア遠征で名を馳せ、三頭政治を共にしたクラッスス亡き後の覇権をポンペイウスと競い合った彼は、ガリアからルビコン川を渡ってローマに帰還し、さらにポンペイウスを追ってプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアに至った。当時のエジプトはクレオパトラとプトレマイオス13世の姉弟が対立する内紛の渦中にあり、クレオパトラは絨毯に身を包ませて秘かにシーザーとの面会を果たし、彼の心を掴んで味方に

          ローマ・イタリア史⑦ ~ジュリアス・シーザー~

          ローマ・イタリア史⑥ ~第一回三頭政治~

          内乱の一世紀において大きな対立軸となったのは、兵制改革に取り組んだマリウスに代表される平民派と元老院を中心とした古くからの名門貴族を核とする閥族派の争いであった。後者の代表格はスラである。前者も「平民派」と称しているものの内実は新興貴族や騎士階級などの富裕層集団であり、結局、両者の争いは階級闘争というよりは新旧支配者層の勢力争いであった。 当初はマリウス率いる平民派が優勢であったが、やがて閥族派が勢力を盛り返す。拮抗する勢力争いの中で、両者ともに民衆の支持を得ようとしてパン

          ローマ・イタリア史⑥ ~第一回三頭政治~

          ローマ・イタリア史⑤ ~内乱の一世紀~

          ポエニ戦争とマケドニア戦争の勝利によって陸海の両面にわたって領土を広げたローマは、版図拡大に伴うラティフンディア(大土地所有制)の浸透とそれによる経済格差拡大によって、都市国家時代以来の共和政の内実を大きく変質させた。共和政を支えてきた中産市民階級が富裕な新貴族・騎士階級と土地や財産を失った無産市民とに二極分化し、都市の下層民と化した無産市民たちは食料と娯楽、すなわち「パンとサーカス」を与えてくれる有力者を求めるようになったのである。 前2世紀の後半に護民官となったグラック

          ローマ・イタリア史⑤ ~内乱の一世紀~

          ローマ・イタリア史④ ~ポエニ戦争~

          紀元前3世紀から前2世紀にかけて、ローマは西地中海の覇権をかけて、3度にわたってカルタゴと戦った。ポエニ戦争である。カルタゴとは地中海を股にかけたフェニキア人が現在のチュニジアに本拠を置いた商業国家であり、ローマにとってはこの戦争の趨勢が、イタリア半島のみの小国家に終わるのか、それとも地中海を制圧する覇権国家へと脱皮するのかの分岐点となるのである。 前264年~前241年の20年以上にわたった第1回ポエニ戦争ではシチリア島が主戦場となり、ローマが勝利してシチリア島・コルシカ

          ローマ・イタリア史④ ~ポエニ戦争~

          ローマ・イタリア史③ ~共和政ローマ~

          前287年のホルテンシウス法の成立によって、平民会の決議が元老院の承認なしでも国法となることが定められ、身分闘争は一応の決着をみた。ここにローマは貴族共和政から平民も含めた本格的な共和政へと移行したのだ。だが、平民の有力者が元老院議員の資格を得て新貴族(ノビレス)となり、新たな階級が生まれたことは先述した通りである。貴族の終身議員で構成される元老院は依然として力を持ち、独裁官(ディクタトル)への権力集中も法的に認められていた。そういう点では、僭主の陶片追放という独裁排除のシス

          ローマ・イタリア史③ ~共和政ローマ~

          ローマ・イタリア史② ~貴族共和政~

          前509年、エトルリア人の王を追放したローマの世襲貴族たち(パトリキ)は合議制による貴族共和政を樹立した。最高機関である元老院は貴族から選ばれた終身議員で構成され、そこから選出される2名の執政官(コンスル)も貴族に限定されていた。すなわち、共和政と言っても、ごく少数の世襲特権階級による寡頭制であり、貴族とそれ以外の階級の者との結婚は禁止されていたため、中産階級としての平民(プレブス)や無産階級市民(プロレタリー)や奴隷には政治参加の手段は皆無であった。 しかし、ローマが周辺

          ローマ・イタリア史② ~貴族共和政~