水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • ローマ・イタリア史

    古代ローマから連なるイタリアの歴史です

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • バルカン半島史

    「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまとめています

  • オリエント・中東史

    中東史の連載記事です

  • トピック

    近況報告や雑多な記事をまとめたものです。

最近の記事

ローマ・イタリア史㉖ ~リソルジメント~ 

18世紀末、フランス総裁政府に任じられたナポレオンのイタリア遠征は、長らく分裂状態にあったイタリアに民族意識と統一への機運をもたらした。オーストリア・サルディーニャ連合軍を破ったナポレオンはカンポ=フォルミオの和約で北イタリアを獲得、その交換条件としてオーストリアはヴェネチアを得た。ミラノに続いてジェノヴァも支配下に収めたナポレオンは皇帝となった翌年の1805年にミラノを首都としたイタリア王国を樹立して自ら国王となり、さらにローマやナポリにも版図を拡大し、息子にローマ王、兄に

    • ローマ・イタリア史㉕ ~ハプスブルグ家のイタリア支配~

      16世紀から18世紀前半までのイタリアは、分裂と外国支配の時代であった。15世紀末のフランス軍のイタリア侵入から始まったフランスとハプスブルク家のイタリア支配を巡る争いは、1527年の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の「ローマ劫略」と呼ばれる破壊と略奪を経て、ハプスブルク家による支配へと傾いてゆく。 カール5世退位後、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれた。スペイン=ハプスブルク家を継承したフェリペ2世は1559年のカトー=カンブレジ条約でイタリ

      • ローマ・イタリア史㉔ ~大航海時代~

        15世紀末から16世紀にかけての中東地域におけるオスマン帝国の隆盛は、ヨーロッパの商人たちにとっては東方貿易の障壁となった。肉食中心の西欧の食生活には保存料や調味料として欠かせない東南アジア産の香辛料を手に入れるため、オスマン帝国の勢力下にある東地中海を経由しない航路の開拓が求められたのだ。まずポルトガルが口火を切り、バルトロメウ=ディアスによるアフリカ南端の喜望峰到達、バスコ=ダ=ガマによるインドのカリカット到達を経て、インド洋航路が開拓された。ライバルのスペインはコロンブ

        • ローマ・イタリア史㉓ ~対抗宗教改革~

          プロテスタントの急速な勢力伸長に危機感を覚えたローマ=カトリック教会は、新教徒側と激しく対立しながら自らの改革にも着手した。対抗宗教改革の中心となったのは、1534年にスペイン人のイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルによって設立されたイエズス会である。イエズス会は世界各地に宣教師を派遣してカトリックの布教に努めた。ザビエル自身も1549年に鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた。宗教改革があったからこそキリスト教の日本伝来があったわけで、世界史と日本史は緊密

        ローマ・イタリア史㉖ ~リソルジメント~ 

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        • ローマ・イタリア史
          26本
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        記事

          ローマ・イタリア史㉒ ~宗教改革~

          ルネサンス時代に行われたローマ=カトリックの総本山サン=ピエトロ大聖堂の大改修工事は多額の費用を要した。その費用の捻出のため、ローマ教皇レオ10世はドイツでの贖宥状(免罪符)販売に踏み切る。贖宥状とは、それを買えば現世の罪が許されて天国へ行けるという、いかにも教会の御都合主義による資金集めに使われたインチキ臭いお札のことだ。1517年、これに対して強い疑義を呈したのがドイツの修道士マルティン=ルターである。彼は「95か条の論題」と呼ばれる公開質問状を提示し、キリスト教世界に激

          ローマ・イタリア史㉒ ~宗教改革~

          ローマ・イタリア史㉑ ~ルネサンス(2)~

          15世紀から16世紀にかけて、北イタリアのフィレンツェを中心として、イタリア=ルネサンスは最盛期を迎える。建築家ブルネレスキはフィレンツェに「花の大聖堂」と呼ばれたサンタ=マリア大聖堂を建設し、彫刻ではギベルティやドナテルロ、絵画ではジョットやマサッチオが活躍した。さらに、「春」や「ヴィーナスの誕生」などの名作を残した画家ボッティチェリの登場によって、絵画表現に豊かな人間性が匂い立つようになった。 ルネサンスの芸術家たちに共通する特徴は遠近法の活用である。一点からの透視を基

          ローマ・イタリア史㉑ ~ルネサンス(2)~

          ローマ・イタリア史⑳ ~ルネサンス(1)~

          十字軍に便乗した東方貿易の拡大は、北イタリアのヴェネチアやジェノヴァなどの都市共和国に空前の繁栄をもたらした。商業圏の拡大はヨーロッパ北部のフランドル地方まで及び、内陸部のフィレンツェなども巨額の富を得て急成長する。こうした経済面での繁栄を基盤として、北イタリア諸都市では市民文化が充実し、キリスト教一辺倒だった中世文化に風穴を空けるような新たな潮流が生まれた。イタリア=ルネサンスの始まりである。 ルネサンスとはフランス語で「再生」を意味する。神を中心とした中世キリスト教文化

          ローマ・イタリア史⑳ ~ルネサンス(1)~

          ローマ・イタリア史⑲ ~中世キリスト教文化~

          中世ヨーロッパ文化の核となったのは何と言ってもキリスト教である。学問では神学が他の諸学問の最上位に位置付けられ、スコラ哲学と神学を究めたトマス・アクィナスは「哲学は神学の婢(はしため)」という有名な言葉を残した。北イタリアのボローニャには世界最古の大学が開かれ、自由七科(文法・修辞・論理・数学・音楽・幾何・天文)の上に、専門三科(神学・哲学・医学)が置かれた。西ローマ帝国滅亡後のイタリアは相変わらず分裂状態ではあったが、ラテン語は欧州共通の学術用語として通用し、北イタリアの諸

          ローマ・イタリア史⑲ ~中世キリスト教文化~

          ローマ・イタリア史⑱ ~十字軍~

          1095年、西方からのイスラム勢力の脅威にさらされていたビザンツ帝国皇帝からローマ教会に支援の要請が届いた。ローマ教皇ウルバヌス2世はローマ教会の勢力を西に伸ばすための好機であるととらえ、クレルモン公会議で十字軍の派遣を宣言する。聖地エルサレムの奪回を掲げた十字軍であったが、その内実は教会や諸侯や都市の商人たちなど、さまざまな立場からの利害が錯綜する仁義なき軍事行動であった。十字軍の派遣は主要なものだけでも7回を数え、不純な動機と身勝手な大義名分を両輪とし、人々の欲望を駆動力

          ローマ・イタリア史⑱ ~十字軍~

          ローマ・イタリア史⑰ ~中世キリスト教社会の変質~

          中世キリスト教思想の精神的基盤を築き、ローマ教会の理念を確立させたのは、西ローマ帝国末期に活躍し、「教父」と呼ばれたアウグスティヌスであった。彼は世俗の権力を超越する「神の国」を現出させる存在として教会を位置づけ、その理論は後世の神学の礎となった。西ローマ帝国の滅亡後も、ローマ教会が宗教的権威の象徴として命脈を保ったのは、彼の功績によるところが大きいであろう。 しかし時代が下り、世俗権力との結びつきを強め、自らも領地や財産を持つようになったローマ教会は、次第に純粋な信仰から

          ローマ・イタリア史⑰ ~中世キリスト教社会の変質~

          ローマ・イタリア史⑯ ~中世イタリア分裂時代~

          800年のカール大帝(シャルルマーニュ)の戴冠によってローマ教会の宗教的権威と結びついたフランク王国は西欧地域一帯に支配を及ぼしたが、カール大帝の死後、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約を経て、西フランク・東フランク・イタリアの三国に分割され、それが現在のフランス・ドイツ・イタリアの起源となった。ただし「イタリア」と言っても、半島全域ではなく、北部のみである。南部は分裂状態のまま東ローマ帝国の影響下に置かれ、地中海の支配は対岸の北アフリカ一帯とイベリア半島を支配

          ローマ・イタリア史⑯ ~中世イタリア分裂時代~

          ローマ・イタリア史⑮ ~西欧キリスト教世界の成立~

          西ローマ帝国の滅亡によって分裂状態に陥った西欧世界の人々の紐帯となったのは、帝国末期に国教としての地位を得たキリスト教であった。ゲルマン人の一派であるフランク族が建てたメロヴィング朝フランク王国では、国王クローヴィスがキリスト教に改宗。5世紀から6世紀にかけてガリア一帯に勢力を広げた。一方、北イタリアでは、オドアケルの王国を滅ぼした東ゴート王国がビザンツ帝国によって滅ぼされ、6世紀にはランゴバルド(ロンバルド)王国が建国された。そんな中で、ローマ・カトリック教会は、諸勢力と巧

          ローマ・イタリア史⑮ ~西欧キリスト教世界の成立~

          ローマ・イタリア史⑭ ~西ローマ帝国の滅亡~

          ローマ帝国が東西に分裂した4世紀から5世紀にかけてはヨーロッパにおいてゲルマン人を主とした民族大移動が起こった時期でもある。東から侵入してきたアジア系騎馬民族のフン族に押されて、多くのゲルマン民族が欧州各地を移動し、それぞれの地でゲルマン系国家を樹立した。アングロ=サクソン人はブリテン島、フランク人は南西フランス、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ヴァンダル人は北アフリカで建国し、ヨーロッパは大移民時代を迎えたのである。 西ローマ帝国では軍事に優れたゲルマン人

          ローマ・イタリア史⑭ ~西ローマ帝国の滅亡~

          ローマ・イタリア史⑬ ~帝国の分裂~

          3世紀末から4世紀にかけて、ディオクレティアヌス帝による分割統治下に置かれたローマ帝国は、後継のコンスタンティヌス帝によって、東方に重心を移した形で再統一される。313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した帝は324年のアドリアノープルの戦いで東の正帝を名乗っていたリキニウスを破り、翌年のニケーア公会議を自ら主宰して教義を統一。イエスの神性を認めないアリウス派を異端として退け、イエスを神格化するアタナシウス派を正統と位置付けた。先代のディオクレティアヌス帝が迫害したキリスト教を

          ローマ・イタリア史⑬ ~帝国の分裂~

          ローマ・イタリア史⑫ ~キリスト教の迫害から公認へ~

          ローマ帝国の最盛期から分裂・衰退期に至る歴史は、キリスト教との関係を抜きには語れない。1世紀中頃、イエスの弟子であったパウロが、小アジアからローマにかけて旺盛な布教活動を繰り広げたおかげで、キリスト教はユダヤの地域宗教から世界宗教へと脱皮しつつあった。選民思想を根底に持つユダヤ教とは異なり、民族の枠を超えて全ての人間の普遍的な愛と救済を説くキリスト教は、世界最大の多民族帝国であったローマの人々の心をつかんだのだ。 加速度的に信者を増やしていく新興宗教の存在は、帝国の支配者に

          ローマ・イタリア史⑫ ~キリスト教の迫害から公認へ~

          ローマ・イタリア史⑪ ~すべての道はローマに通ず~

          ギリシャ・ローマ文化といえばヨーロッパ文化の源流として有名だが、ギリシャ文化とローマ文化は各々の特色において大きく異なる面を持つことも良く知られている。「征服した土地にギリシャ人は神殿を建てるが、ローマ人は道路と水道を作る」と言われるように、ギリシャ文化が哲学・思想などの精神的側面において優れた発展を見せたのに対し、ローマ文化は土木・建築や法体系の整備などの実用的側面において後世に残る輝きを見せた。 ローマの土木・建築技術は、同時代において抜きんでていただけでなく、現代にも

          ローマ・イタリア史⑪ ~すべての道はローマに通ず~