水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • インドシナ半島史

    インドシナ半島の歴史をまとめています。

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • インド史

    インドを中心とした南アジアの歴史をまとめています。

  • ローマ・イタリア史

    古代ローマから連なるイタリアの歴史です

  • バルカン半島史

    「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまとめています

最近の記事

インドシナ半島史⑪ ~越南国~

ベトナムでは15世紀後半に黎朝が最盛期を迎えていたが、16世紀に入って内紛が起こり、武将の莫(マック)氏が帝位を奪った。黎朝の残党は60年以上にわたって莫氏と戦い、1592年に莫氏軍を破って黎朝を復活させた。だが、今度は黎朝の内部で鄭(チン)氏と阮(グエン)氏の対立が起こり、黎朝を継承した鄭氏はハノイを本拠地として北部を、黎朝から離れて独立した阮氏はフエを本拠地として中部を統治し、北緯17度線付近を境界として戦闘状態に入った。北緯17度線といえば、後に20世紀のベトナム戦争に

    • インドシナ半島史⑩ ~ランサン王国~

      14世紀、タイ人と同系統のシナ=チベット語族に属するラオ人によって、メコン川中流域のラオス地域に初めての統一王朝であるランサン王国が成立した。ラオスはインドシナ半島唯一の内陸国であり、国土の七割が山地であるという点で、海上交通を足がかりに発展した他のインドシナ諸国よりも統一が遅れたのかもしれない。ランサンとは「百万頭の象」という意味であり、当時の象は戦車的存在として軍事力のシンボルであったという。王国の都はルアンプラバンに置かれ、アンコール朝から取り入れた上座部仏教を奉じて金

      • インドシナ半島史⑨ ~トゥングー朝とコンバウン朝~

        パガン朝の衰退後、長く分裂状態が続いたビルマでは、1531年にビルマ人によって創建されたトゥングー朝が徐々に勢力を伸ばし、南部のモン人のペグー朝と北部のシャム(タイ)人勢力を駆逐して、1546年に3世紀ぶりのビルマ統一を実現した。トゥングー朝は一時はタイやラオス地域にも版図を広げたが度重なる外征で国内は疲弊し、征服地も長くは維持できなかった。17世紀にはイギリス・オランダが首都ペグーなどに商館を設けて通商を求めたが既にトゥングー朝には諸国と対等に渡り合える力はなく、都を内陸の

        • インドシナ半島史⑧ ~アユタヤ朝~

          1351年に建国されたタイ人の王朝であるアユタヤ朝は、チャオプラヤ下流域からバンコク湾・南シナ海・ベンガル湾などを通じて、インドや中国とも広く交易を行った港市国家であった。輸出品は米・獣皮・象牙・綿糸・香辛料など多岐にわたり、交易の利益と軍事力で徐々に勢力圏を広げ、1432年にはアンコール朝カンボジアへ侵攻し、さらに1438年には北方のスコータイ朝を併合した。この時の侵攻でアンコール朝は大打撃を受け、首都アンコールを放棄してプノンペンに移る。やがてアンコールの巨大寺院群は荒廃

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        • インドシナ半島史
          11本
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          16本
        • ローマ・イタリア史
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        • バルカン半島史
          30本
        • オリエント・中東史
          50本

        記事

          インドシナ半島史⑦ ~大越国~

          ベトナム北部では10世紀に中国の支配から自立した呉朝の後を受けて、ハノイ(昇竜)を首都に、11世紀には李朝、13世紀には陳朝大越国が成立した。13世紀後半にはモンゴル・元軍の侵攻を受け、撃退と服属を繰り返しながらも、断続的に長期にわたる政権を維持した。中国文化の影響を強く受けた大越国では、儒教・仏教・道教が保護され、陳朝時代には漢字をもとにした民族文字であるチュナム(字喃)が考案された。元軍の撃退や漢字起源の文字の創出など、中国周辺に位置する地域としての歴史の流れにおいて、日

          インドシナ半島史⑦ ~大越国~

          インドシナ半島史⑥ ~スコータイ朝~

          ビルマ人の南下からやや遅れて、11世紀ら12世紀頃にかけて、中国南西部に居住していたシナ=チベット語族のタイ人も、インドシナ半島への南下を始めた。タイ人の勢力はチャオプラヤ川流域に広がり、すでに弱体化していたモン人の王朝であるドゥヴァーラヴァティ王国の領土を侵食していった。彼らは当初は、強大化したアンコール朝クメール(カンボジア)王国の支配を受けたが、次第に自立し、13世紀半ばにはスコータイ朝を興したのである。 スコータイ朝は、ビルマのパガン朝と同様、上座部仏教を受け入れ、

          インドシナ半島史⑥ ~スコータイ朝~

          インドシナ半島史⑤ ~パガン朝~

          中国・雲南地方の南詔国に居住していたシナ・チベット語族のビルマ人が、11世紀に南下してイラワディ川流域へと勢力を広め、先住のピュー人やモン人を征服しながら、文字や上座部仏教や灌漑農業技術を取り入れ、1044年にビルマ最初の統一王朝であるパガン朝を建設した。首都パガンには多くのパゴダ(仏塔)が建てられ、歴代の王たちも仏教に深く帰依し、仏教文化が開花した。13世紀にこの地を訪れたマルコ・ポーロの「東方見聞録」には、建寺王朝とも呼ばれたパガン朝の仏教建築群の豪華さが讃えられている。

          インドシナ半島史⑤ ~パガン朝~

          インドシナ半島史④ ~アンコール朝~

          扶南を滅ぼして成立したカンボジア・クメール王国(真臘)は、8世紀には北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂していたが、9世紀初頭にアンコール朝のジャヤヴァルマン2世によって再統一され、現在のカンボジア周辺のみならず、ベトナム南部のメコン川デルタ地帯を含むコーチシナや、ラオスの大部分、タイの東部をも含む、インドシナ半島最大の王国となった。アンコール朝は12世紀のスールヤヴァルマン2世の時代に全盛期を迎え、壮大な寺院建築であるアンコール・ワットも、この時代に建設された。 世界遺産とし

          インドシナ半島史④ ~アンコール朝~

          インドシナ半島史③ ~ドヴァ―ラヴァティー・真臘~

          6世紀か7世紀頃に、タイ地域のチャオプラヤ川流域にドヴァーラヴァティー王国が建国された。これは現在のタイ人とは異なり、ベトナム人やクメール(カンボジア)人と同系統のオーストロアジア系に属するモン人による王朝であり、やはりインドの影響を強く受け、上座部仏教を受容した。上座部仏教とは、戒律を厳格に守って伝統を継承し、修行を通じて悟りを開くことを第一義に置く宗派である。一方、中国・朝鮮・日本・インドネシアなどに伝わったのは大乗仏教と呼ばれる宗派であり、個人の悟りよりも広く民衆を救済

          インドシナ半島史③ ~ドヴァ―ラヴァティー・真臘~

          インドシナ半島史② ~ピュー・扶南・林邑~

          ベトナム北部地域のドンソン文化が紅河(ホー河)流域に興ったのと同様、ビルマ地域を流れるイラワディ川中流域にはピュー、カンボジア地域を流れるメコン川流域には扶南(ふなん)が興った。ピューはシナ・チベット語族に属する民族で、インドの影響を受けて仏教色の強い古代王国を建設した。ピューは8世紀に全盛を迎えるが9世紀に中国南部に興ったチベット民族系の南詔に圧迫されて姿を消す。宮殿や仏塔を含むピューの古代遺跡は煉瓦造りの城壁で囲まれた城塞都市の姿をとどめ、2014年に世界遺産に登録された

          インドシナ半島史② ~ピュー・扶南・林邑~

          インドシナ半島史① ~ドンソン文化~

          東南アジアの大陸部は、インドシナ半島と呼ばれる。これはインドと中国の間に位置することからヨーロッパ人がつけた名称であるが、その名の通り古来からインド文明と中国文明の双方の影響を受けた地域である。紅河(ホン河)・メコン川・チャオプラヤ川・イラワディ川などの大河を擁するインドシナは、大河流域の平野部に豊かな米作地帯を持つが、一方で熱帯雨林に覆われた山岳地帯も多く、複雑な地形に多くの民族が分布し、さまざまな王朝が興亡しながら多彩な文化を発展させてきたのである。 インドシナ地域にお

          インドシナ半島史① ~ドンソン文化~

          Shake Hands

          たとえば君が道に迷い  途方に暮れて立ちすくんだ時 僕が少しだけ手を貸そう 君に輝きが戻るまで  一緒に空を見上げていよう 日々の暮らしを抱えこんで  僕の片手は一杯だけど いつだって あけてある  もう片方の手は君のために Shake Hands 握手をしよう  抱きしめることはできなくても Shake Hands ここにいるよ  君のことを見ているよ たとえば 君が疲れ果てて  自信を失くして落ちこんだ時は 僕が少しだけ手を貸そう いつもの笑顔が戻るまで  ジョ

          インド史⑯<最終回> ~21世紀のインド~

          1998年の総選挙でヒンドゥー至上主義を唱えるインド人民党(BJP)が勝利し、国民会議派は独立以来初めて政権を失った。インド人民党は核武装を公約しており、選挙後ただちに核実験に踏み切った。もともとインドは他の大国が核兵器を保有していることから核拡散防止条約(NPT)や包括的核実験禁止条約(CTBT)に反対して加盟を拒否していたが、この時点で核兵器の保有を公式に宣言したわけだ。これに対して危機感を抱いた隣国パキスタンも核実験を強行。翌年にはインドの実効支配地域にパキスタンが侵攻

          インド史⑯<最終回> ~21世紀のインド~

          インド史⑮ ~戦後の南アジア~

          1950年、インド共和国憲法が成立し、インド連邦はインド共和国として新たな一歩を踏み出した。憲法では、ヒンディー語が新生インドの公用語とされた。一方、パキスタンではウルドゥー語が公用語となった。宗教だけでなく言語の面でも、インドとパキスタンは分離の道を選んだのである。 ヒンディー語は現代において中国語・英語に次ぐ世界第三位の使用者数を持つ言語だが、その歴史は意外に新しい。もともとムガル帝国の公用語は、征服者であるムスリムが西方のイスラム世界から持ち込んだペルシア語であった。

          インド史⑮ ~戦後の南アジア~

          インド史⑭ ~分離独立~

          二つの大戦を終えたイギリスには、もはや広大なインドを植民地として支配し続けるだけの力は残っていなかった。チャーチルの後を受けた英国のアトリー内閣は1947年にインド独立法を可決。それを受けて、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦とイスラム教徒の国であるパキスタンが分離独立した。独立当初のパキスタンはベンガル地域とパンジャブ地域の東西に分かれており、地図の上では中央のインド連邦を東パキスタン(後のバングラデシュ)と西パキスタンが挟み込む形になった。ガンジーの望んだ宗教融和による「

          インド史⑭ ~分離独立~

          インド史⑬ ~マハトマ・ガンジー~

          1914年、第一次世界大戦が勃発すると、インドの反英勢力はこれを好機として武装蜂起を企てた。翌年のラホール事件では多くの逮捕者や処刑者が出て首謀者の一人であるラース・ビハリー・ボースは日本に亡命した。新宿中村屋の長女と結婚した彼は、日本にインドカレーをもたらした。過激化する反英闘争に対して、イギリスはインド防衛法を制定し、インド人の政治活動の自由を制限するとともに、危険人物の予防拘禁を可能とした。 インドには戦争で英国に協力することで地位向上を目指す人々も多く、徴兵に応じて

          インド史⑬ ~マハトマ・ガンジー~