水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • オリエント・中東史

    中東史の連載記事です

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • トピック

    近況報告や雑多な記事をまとめたものです。

  • 石垣りんと戦後民主主義

    2023年に詩人会議新人賞佳作を受賞した評論です。

  • トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~

    2021年に石橋湛山平和賞を受賞した論文の再掲です。長いので何回かに分けて連載します。おつきあい頂ければ幸いです。

最近の記事

オリエント・中東史㉒

イスラム文化は、オリエントの地で古くから発展したメソポタミア・エジプト・ヘレニズムの文化的基盤の上に、イスラム教とアラビア語が融合して成立したものである。中心となった都市はメソポタミアのバグダードとエジプトのカイロであり、イスラム商人の交易ネットワークによって、北アフリカや中央アジア、インドや東南アジアなど、広範囲へと広がっていった。主だった都市にはムスリムの研究機関であるマドロサ(学院)が設立され、先進的な学問研究や技術発展の成果もまた、都市間のネットワークを通じて各地へ伝

    • オリエント・中東史㉑ ~イル・ハン国とナスル朝~

      13世紀初頭にチンギス・ハンがモンゴル高原に興した大帝国は、瞬く間に中国北部・中央アジア・東トルキスタンへと版図を広げ、イラン高原にも侵攻した。遊牧民族ならではの騎馬主体の強大な軍事力に加え、草原の移動生活で培われた機動性もあって、モンゴル勢はユーラシア大陸を席巻し、征服地に次々と自らの国家を樹立したのだ。モンゴル高原の都カラコルムにはチンギスの後継者であるオゴタイ・ハンが君臨し、グュク、モンケを経てフビライが大ハンの地位を得て中国にも支配を拡げ、元を建国する。ロシアにはチン

      • オリエント・中東史⑳ ~ムワッヒド朝とマムルーク朝~

        オリエントでイスラム世界と十字軍の戦いが繰り広げられていた12世紀、北西アフリカのモロッコではイスラム神秘主義の影響を受けた定住ベルベル人によるムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼし、マグレブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)地方を統一した。バグダードのカリフの権威を認めず独自のカリフを建てたムワッヒド朝は、イベリア半島にも進出した。これに対してローマ教皇インノケンティウス3世は、13世紀初頭、キリスト教諸侯に対してイベリア半島への出兵を呼びかけた。オリエントでサラディンによ

        • オリエント・中東史⑲ ~サラディンとアイユーブ朝~

          十字軍にエルサレムを奪われたイスラム世界では、セルジュク朝の衰退に乗じて、1127年にイラク北部からシリアにかけての地域においてザンギー朝が自立。1144年に十字軍国家の一つであるエデッサ伯国を滅ぼし、第2回十字軍をダマスクス攻防戦で撃退して、シリア統一を果たした。エジプトの制圧をも視野に入れ、ザンギー朝は北アフリカのファーティマ朝に宰相を派遣する。この時、当初の宰相が急死したことによって思いがけず宰相の地位を手に入れたのが、ザンギー朝の若きクルド人部将であったサラーフ・アッ

        オリエント・中東史㉒

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        • オリエント・中東史
          22本
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          8本
        • 石垣りんと戦後民主主義
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        • トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~
          9本
        • 中国史
          60本

        記事

          オリエント・中東史⑱ ~十字軍とイスラム諸王朝~

          11世紀に入っても、イスラム世界の分裂と諸王朝の興亡は続いた。中央アジアにはトルコ系のカラ・ハン朝、アフガニスタンには同じくトルコ系のガズナ朝、イランからメソポタミアにかけてのバグダードを含む中央部には1055年にブワイフ朝を倒したセルジュク朝が君臨した。ブワイフ朝はイラン系のシーア派政権だったが、セルジュク朝はトルコ系のスンニ派政権であり、宗教的権威としてとどまっていたアッバース朝カリフから、世俗的権力の執行者であるスルタンの称号を受けた。ヨーロッパのキリスト教世界では、宗

          オリエント・中東史⑱ ~十字軍とイスラム諸王朝~

          オリエント・中東史⑰ ~イスラム帝国の分裂~

          ハールーン・アッラシードの死後、9世紀から10世紀にかけて、帝国の分裂は急速に進んだ。東部ではペルシア以来の文化的伝統を持つイラン民族や軍事面で高い能力を持ったトルコ民族が台頭した。もともとは中央から派遣された各地のアミール(総督)が自立し、地方政権が林立したのである。北アフリカでは、チュニジア発祥のファーティマ朝がエジプトにも進出し、新都カイロを建設した。ファーティマ朝はシーア派の分派であるイスマーイール派を信奉し、初代アブドッラーはスンニ派のアッバース朝に対抗してカリフを

          オリエント・中東史⑰ ~イスラム帝国の分裂~

          オリエント・中東史⑯ ~アッバース朝~

          750年にアブー・アルアッバースがウマイヤ朝を打倒して樹立したアッバース朝は、ウマイヤ朝のアラブ人至上主義を廃し、非アラブ人の改宗者(マワーリー)への人頭税(ジズヤ)課税やアラブ人の地租(ハラージュ)免除特権を廃止し、民族を問わず全てのムスリムに平等の税制を確立した。イスラムに改宗しない者については、イスラム教と同じ神を信じる啓典の民としてキリスト教徒とユダヤ教徒に限って信仰の自由を認めたものの、彼らへのジズヤは継続した。また、官僚機構や法制度も整備し、他民族にも統治階級への

          オリエント・中東史⑯ ~アッバース朝~

          オリエント・中東史⑮ ~ウマイヤ朝~

          正統カリフ時代の最後のカリフであったアリーの暗殺を契機として、661年にムアーウィヤが興したウマイヤ朝は、その正統性への疑念もあって、当初から内紛が絶えなかった。680年にムアーウィヤが死去し、カリフの地位が世襲されると、アリーの後継者フサインが反ウマイヤ朝の反乱を起こす。フサインはカルバラーの戦いで敗れて殺害されたが、彼の死はかえってシーア派の結束を強める結果となった。現代においても、カルバラーはシーア派の聖地とされ、殉教者フサインを追悼するアーシュラ―の祭りは、少数派であ

          オリエント・中東史⑮ ~ウマイヤ朝~

          オリエント・中東史⑭ ~イスラム教の誕生~

          ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の抗争が激化した7世紀初頭の610年、新たな商業交通路の要となったアラビア半島の都市メッカの商人であったムハンマドが、神の啓示を受けて伝道を開始した。イスラム教の誕生である。 ムハンマドは自らを最後の預言者と称し、カーバ神殿の主神アッラーを唯一神として崇拝し、喜捨や善行の義務を説いた。砂漠の厳しい自然環境と戦乱の時代を背景として、神への絶対的な帰依と服従を唱え、偶像崇拝を禁じ、六信五行などの具体的な実践を明確にした彼の教えは、布教当初は迫害を受

          オリエント・中東史⑭ ~イスラム教の誕生~

          オリエント・中東史⑬ ~ササン朝ペルシア~

          紀元226年、遊牧イラン人主体であったパルティアを滅ぼし、農耕イラン人を主体としたササン朝ペルシアが建国された。初代の王はアルデシール1世で、首都はパルティアと同じくティグリス川中流域のクテシフォンに置かれた。アルデシールはササン朝がアケメネス朝以来のイランの伝統を正式に継承する王朝であることを知らしめるために、ゾロアスター教を国教化して宗教を核とした求心力の強化を図った。 アケメネス朝ペルシアが西方のギリシアと激しく争ったのと同様に、ササン朝ペルシアは西方のローマ帝国との

          オリエント・中東史⑬ ~ササン朝ペルシア~

          オリエント・中東史⑫ ~キリスト教の誕生~

          紀元前1世紀の中頃からパレスチナ地域はローマの支配を受けるようになった。前40年にローマ元老院からユダヤ王としての地位を認められたヘロデがエルサレム神殿の再建を行い、ローマ支配下でのユダヤ教による自治体制を築いた。しかしヘロデ王が死ぬとユダヤ人内部での紛争が起こり、紀元6年にはローマの直接支配を受ける属州となった。この時、ローマ総督としてパレスチナの統治にあたったのが、後にイエス・キリストを処刑することになるピラトである。 紀元28年、パレスチナのガリラヤ地方で預言者ヨハネ

          オリエント・中東史⑫ ~キリスト教の誕生~

          オリエント・中東史⑪ ~パルティア~

          イラン系遊牧民によって建てられ、紀元前247年にセレウコス朝シリアから自立したパルティア(中国名:安息)は、約500年にわたってイラン高原を支配した。前238年に族長アルサケスによって王朝が開かれたため、別名をアルサケス朝ともいう。パルティアはアケメネス朝ペルシアやセレウコス朝シリアで採用されていたサトラップ(行政区)制を継承し、中央政府と地方勢力の均衡を保ちながら版図を広げていった。セレウコス朝シリアの滅亡後はメソポタミアにも支配を拡大し、ティグリス川沿岸のクテシフォンに遷

          オリエント・中東史⑪ ~パルティア~

          オリエント・中東史⑩ ~プトレマイオス朝エジプト~

          アレクサンドロス帝国の解体後に鼎立したヘレニズム三国の中で最も繁栄したのがプトレマイオス朝エジプトである。アレクサンドロス大王の有力な後継者(ディアドコイ)のひとりであったプトレマイオス1世によって建国され、首都アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心地となった。アレクサンドリアには自然科学から人文科学まで幅広い分野にわたる総合研究センターのムセイオンが設立され、大図書館(ビブリオテケ)も併設された。幾何学の大成者エウクレイデス(ユークリッド)、梃子や浮力の原理を発見したアルキ

          オリエント・中東史⑩ ~プトレマイオス朝エジプト~

          オリエント・中東史⑨ ~前2世紀のオリエント世界~

          アレクサンドロス帝国の解体後、オリエントにはアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアが鼎立したが、前3世紀中頃にアフガニスタン地域のバクトリア、イラン高原のパルティア(安息)がシリアから独立、さらに前2世紀にはパレスチナ地域でアラビア文字の原型を作ったナバタイ王国やユダヤ人のハスモン朝が独立し、前2世紀のオリエント世界は多様な国家が分立する時代となったのである。 バクトリアはギリシア系、パルティアはイラン系の民族が建てた国である。アフガニスタ

          オリエント・中東史⑨ ~前2世紀のオリエント世界~

          オリエント・中東史⑧ ~ヘレニズム~

          三度にわたるペルシア戦争とその後のペロポネソス戦争によって疲弊した古代ギリシアとアケメネス朝ペルシアの間隙を縫って、バルカン半島北部の小国であったマケドニアが台頭した。紀元前338年、フィリッポス2世に率いられたマケドニア軍がカイロネイアの戦いで、ギリシアのアテネ・テーベ連合軍を破る。フィリッポスは部下に暗殺されたが、彼の息子であるアレクサンドロスが父の野心を引き継いで大王を名乗り、東方への大遠征を開始した。 前333年、地中海東岸のイッソスの戦いで、マケドニア軍とペルシア

          オリエント・中東史⑧ ~ヘレニズム~

          オリエント・中東史⑦ ~アケメネス朝ペルシア~

          紀元前550年、イラン人の一系統であるペルシア人のアケメネス朝が、現在のイランの南西部ペルシア湾岸地方を根拠地として、四王国時代のメディアから独立した。国王キュロス2世は軍を率いてメディアを滅ぼし、次いでリディアと新バビロニアをも打ち破って両国を併合した。後継のカンピュセス2世は、前525年にエジプトを滅ぼして全オリエントを統一。ここにアッシリア以上の広大な版図を持つ世界帝国が誕生したのである。 ペルシア人とは、インド・ヨーロッパ語族のイラン人の一系統であり、前7世紀に興っ

          オリエント・中東史⑦ ~アケメネス朝ペルシア~