インドシナ半島史⑪ ~越南国~
ベトナムでは15世紀後半に黎朝が最盛期を迎えていたが、16世紀に入って内紛が起こり、武将の莫(マック)氏が帝位を奪った。黎朝の残党は60年以上にわたって莫氏と戦い、1592年に莫氏軍を破って黎朝を復活させた。だが、今度は黎朝の内部で鄭(チン)氏と阮(グエン)氏の対立が起こり、黎朝を継承した鄭氏はハノイを本拠地として北部を、黎朝から離れて独立した阮氏はフエを本拠地として中部を統治し、北緯17度線付近を境界として戦闘状態に入った。北緯17度線といえば、後に20世紀のベトナム戦争においても、南北の戦闘の最前線となったところである。この対立は200年にもわたって続き、鄭阮二百年戦争とも呼ばれた。
阮氏政権は広南国を自称し、衰退しつつあったアンコール朝カンボジアのメコンデルタ(交祉=コーチシナ)地域にも支配を広げた。しかし、鄭氏・阮氏ともに政権内部での腐敗が激しく、長期にわたる戦争と圧政で民衆は疲弊していた。1771年、中部ベトナムの西山(タイソン)を本拠地とした西山阮氏の三兄弟が広南阮氏に対して反乱を起こし、西山朝を樹立した。西山朝は北部の鄭氏と南部の広南阮氏を滅ぼして分裂時代に終止符を打ったが、今度は西山阮氏三兄弟の間で争いが起こり、そこでタイに逃れていた広南阮氏の生き残りである阮福映がフランス人宣教師ピニョーからも支援を受けてベトナムに戻り1802年に西山朝を打倒して阮朝を開いた。彼はフエに都を置き、清と朝貢関係を結んで越南国の国号と嘉隆帝という称号を得た。
阮朝越南国は南部コーチシナ地域も含めたベトナム全土を統一した初の王朝であった。現在の国名であるベトナムは、「越南」に由来するものである。越南国は清からの冊封を受け、元号を定め、科挙を実施した。王朝名や皇帝名の表記からもわかるように、ベトナムは漢字文化圏に属し、宗教的にも大乗仏教や儒教や道教の混在した現世利益色の強い信仰を持ち、他のインドシナ諸国とはかなり異なった趣を見せる。さらに歴史的には南北で異なる道のりがあり、古代から続く中国との関係に加えて、近代以降はフランスとの関係を強めるなど、東洋と西洋の十字路として地政学的にも重要な位置を占めた。19世紀後半になると、その地政学的な重要性ゆえに、ベトナムはフランスをはじめとする帝国主義列強の植民地政策に呑み込まれてゆくのである。