浅原録郎

静岡県焼津市在住。歴史や思想、哲学的な理解に役立つ内容を中心に書いています。機械技師→…

浅原録郎

静岡県焼津市在住。歴史や思想、哲学的な理解に役立つ内容を中心に書いています。機械技師→自営業、京大教授久松真一先生のFAS協会参加。宗教学や近代哲学を学ぶ。宗教学やキリスト教弾圧に因む「光あてられし者」の他6冊著作。小泉八雲研究者。 武蔵工大精密切削理論特別修学コース卒

マガジン

  • 無意識を意識する 4

    意識や無意識の不思議に迫ります。意識の哲学的意味や生理的働きにも素人ながら分析したものです。素人だから目に鱗的なものがあると思います。

  • 歴史の見方

    機械技師から自営業に転身後京大教授だった久松真一先生の創設した京都FAS協会に参加、宗教学や近代哲学、仏教哲学を学ぶ。機関紙『風信』へ宗教哲学や歴史雑感等多数投稿。Amazonnにて印刷本、Kindleを数冊出版。

最近の記事

雪を厭わず真を見る

本日2024年4月16日静岡市美術館で開催中の細見美術館所蔵の美術品拝観のために静岡市へ出かけた。 細見氏三代がコレクションした品々であるが、文化的僻地で、有名美術展が素通りするで静岡界隈であるから車で静岡市美術館へ出かけてみたのだ。 お目当ては、伊藤若冲の絵画であるがその展示数は多くはないだろう。しかし、琳派や江戸時代の工芸、絵画、仏教関連の品々の実物を見るのも悪くはないだろうという思いであった。 今回の代表展示物は「雪中雄鶏図」「糸瓜群虫図」であろうか。 降り積もる

    • 在原業平と蔦の細道

      直近に書いたNoteの記事のように自分のすべてを桜の花にさらけ出した西行のような歌詠みもいれば、「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」・・・ 本来春は、のどかな季節であるはずなのに、人は桜の花が咲くのを心待ちにしていながら、咲いたと思えば、花が散るのが気になり落ち着きません。桜が存在するから人々の心が穏やかでないことを述べた在原業平のような歌詠みもいる。 在原業平は、平安時代の貴族(825~880年)。父に平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王、母に桓武天皇の皇

      • 西行

        新古今和歌集に多くの歌が選ばれた平安末期の出家者であり歌人の西行は、多少でも日本文化や文学に関心を持つ人々の関心を引き付けてきたことは疑いもない。 彼の出家への動機は中宮璋子への恋心だとする説もあるが彼自身そのことに触れていないので詳細は不明だ。 巷に流れているその噂とはこのようなものだ。 仏門に入り「西行」と名乗った佐藤義清(のりきよ)は、18歳のときに「北面の武士」といって天皇家の御所を警護をする役職に就きました。物語はここから始まります。 待賢門院璋子(たいけんもん

        • 田辺 元

          私は歴史好きである。そんなところから鎌倉や京都によく遊んだ。かの地に残る禅的な考えや教養に関心を持ちやがて京都学派という存在も知った。 ここで少し取り上げてみた田辺元は、西田幾多郎のあと、京都学派を受け継ぎ、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者です。 田辺は1885年、代々佐賀藩の儒学者の家に生まれ、家父・新之助、の長男として、東京の神田猿楽町にうまれた。 1912年、27歳で東京帝大大学院を退学し、翌年東北帝国大学理学部講師に就任、191

        雪を厭わず真を見る

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        • 無意識を意識する 4
          1本
        • 歴史の見方
          15本
          ¥300

        記事

          不安ということ

          昨年2023年は、千葉に住む弟と埼玉に住む弟を相次いで亡くした。これからしばらくは不幸は続かないだろうと思っていたこの頃、まだ現役の公務員で頑張っていた甥が突然入院していた病院で亡くなったと連絡が入った。頭がよく、生活態度はまじめで、弟たちの葬儀には参列して哀悼を表してくれた。 この地方の進学校を卒業し東京の私大へ、故郷に帰るべき地方自治体の公務員として奉職していた。身近な人の死に感じるものが身を苛む昨今である。 この記事は過去に一部をNoteで公開したが何がしの慰めになれば

          不安ということ

          生命とは その5

          動物、植物、プランクトン、キノコ、細菌等々これらすべて生命体であり、外部エネルギーや負エントロピーの源となる食物や物質を取り込むことで、恒常性を保ち、その生命活動を維持し続けていることをその4では述べました。 熱力学の第二法則は、普遍的な崩壊の法則です。それは、全てのものが最終的には時間と共にバラバラになり、崩壊してしまう究極の原因です。熱力学の第二法則の影響は至る所に現れ、宇宙の全ての物に及びます。それが原因で私たちに死が訪れます。 自然界の全てはこの法則に従っているの

          生命とは その5

          生命とは その4

          私が生きるというのは、生存し続けることで生殖という目的論を達成することであるとしたら、そのことについて、何かに行動を導かれている、と言ってもいいだろう。 その何かとは、おそらく生物科学で唯一、普遍的な指針である「進化」が由来となっているのだろう。このような進化を促す力学的生体系の一つに熱力学的法則があるという。 このような考えの中から明確に浮かび上がってきたメッセージがひとつある。 もしも生物学的な目的論や媒介の裏に、ある種の物理的法則が横たわっているのならば、そこには基本

          生命とは その4

          生命とは その3 

          その2に自然界に生きていかされている私たちの生や死の意味に不完全ながら触れた。 私たちの生や死の意味は人の理性の及ばない混とんの中にあり未だ解明されていない事実と表現したが、生科学的に見ればまた違った見解がある。 生命が死という消去を経て、生殖から新たな個体をつくる不連続で、非常に危ない橋を渡りながら、生命の連続性を保っている、そういうなかに我々の生命というものが生きているという例えを、焦土の中から発芽するパインツリーのマツボックリを介し紹介した。 そして人間を含めた生命体

          生命とは その3 

          生命とは その2

          NHKのWeb特集でこんな記事を見かけた。 ある一人の写真家が20年かけて追い続けている、「森」があります。その名は「ノースウッズ」。北米大陸、カナダとアメリカにまたがる深く広大な森で、厳しくも豊かな自然の中で野生動物や植物などが息づき、貴重な生態系が育まれています。 その姿を鮮やかに捉えた写真集がことし写真界の直木賞とも呼ばれる「土門拳賞」を受賞しました。しかし、話を聞くと最初から思うような写真を撮ることができた訳ではなく、長い時間をかけたからこそ動物たちの姿を写すことが

          生命とは その2

          生命とは その1

          生命としての私とは何なのであろうか。運動体としての肉体とそれをコントロールしているかの如くの脳の作り出した意識の両側面を命と自覚して生きているが、この肉体は自分自身の所有物に見えて、決してこれを意識の制御下に置くことはできないのです。 私たちは、なぜ生まれ、成長し、病を得てやがて老いそしてどのように死ぬのか、予測も選択もできない。いわゆる、生病老死の理である。 そんな確かな事実を背負いながら普段、私たちはすっかりそのことを忘れているのだ。 生きていることが当たり前で計画した

          生命とは その1

          人生の贈り物

          この曲が好きだ。 幾度かした手術での入院中。 眠れない深夜の病室で何回聞いたことか。 https://www.youtube.com/watch?v=N-Inkjs7Cn4 季節の花がこれほど 美しいことに   歳を取るまで少しも 気づかなかった 美しく老いてゆくことがどれ程に 難しいかということさえ気づかなかった もしももうー度だけ若さをくれると言われても おそらく私はそっと断るだろう 若き日のときめきや迷いをもう一度 繰リ返すなんてそれはもう望むものではない

          人生の贈り物

          井筒俊彦 意識と本質

          井筒俊彦の時空の共時的饗宴に招かれたのは、サルトル、リルケ、マラルメといった人々、また松尾芭蕉、本居宣長、老子、荘子、朱子、程兄弟など宋学の儒者、スフラワルディー、イブン・アラビーいったイスラームの神秘哲学者、僧肇、道元、青原惟信、空海といった仏教の達人、さらにユダヤ教神秘主義、古代ギリシア哲学、インド古代哲学の哲人たちだった。 人間にとって意識とか本質の肯定否定はとても大事な概念です。しかし、井筒はそれよりも大事なものは「言語」だという。 井筒俊彦は空海の「真言・真なるコ

          井筒俊彦 意識と本質

          井筒俊彦 語学の哲人

          彼はイスラム思想、特にペルシア思想とイスラム神秘主義に関する数多くの著作を出版したが、自身は仏教徒で、晩年には研究を仏教哲学(禅、唯識、華厳などの大乗仏典)、老荘思想、朱子学、西洋中世哲学、ユダヤ思想などの分野にまで広げた。 東洋思想の「共時的構造化」を試みた『意識と本質』は、井筒の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表的著作とされる。 共時的構造化とは、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし組み変えることによって、それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的に

          井筒俊彦 語学の哲人

          実在と現象

          見えるものは、見えないものの現れであろう。 実在が現象を 顕現するのであれば、二つの関係はどのように考えてみたらよいのだろうか。 東洋、殊に仏教ではどのようにこの問題を展開してきたのだろう。 私は何回もいうように哲学徒でもないし僧侶でもなく、ましてや仏教学者でもない、一般の知的探求者の立場でこのような論をいつも考究してきた。 ですからいつも難しい熟語も避け、できるだけその意味も添付してきた。 この問題の出所は、主に大乗紀信論によるのであろうが、京大で宗教学を論じた久松真一

          実在と現象

          現代物理学と仏教の親和性part2

          この世は仏教の唯識論でいうところの幻想なのであろうか。 3次元の球面に張り付いた2次元の表面。この表面内で「量子ゆらぎ」が起こり、それが球体内部の3次元に「空間」投影というイメージです。0と1のデジタル情報の3次元空間の投影がこの宇宙の実体という。平面と立体、この場合どちらが真実か幻想かは、見方によるといえるのだそうですが。 こんな記事を前章で書きました。混乱しがちなこの理論を整理するために再度専門家が書いた記事を復習します。 「(1)極微の世界で存在するものは、一つの状態

          現代物理学と仏教の親和性part2

          現代物理学と仏教の親和性

          私は過去にも現在でも哲学思想歴史の断片を気の向くままに書いてきた。決して専門家でもない私の記事に目を通してくれる方々には感謝しているが、素人なりに疑問に思っていることを書きその都度の理解を深めることも大事な事とおもう。 今の関心事は、昔から漠然と思ってきた大乗仏教の世界観と最先端の量子力学との共通点を自分なりに理解したいということです。 仏教の根本は因果の法則が基本であり、科学もその例に漏れない。基本物理学は、そのことを無視すれば科学そのものが崩壊する。なぜならば、従来の

          現代物理学と仏教の親和性