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超越に生きる

超越とは何か 。「超越」は、ラテン語の「超えて」(trans-)と「のぼる」(scandere)に由来し、ある領域を超出す るものやその働きをさす言葉です。
西洋思想史では、絶対者である神の観念や超越と対になる内在 と関係づけられて議論されてきました。
キリスト教は、永遠にして無限なる絶対者・超越的神を説きます。アウグスティヌスは、存在を 超えた神ではなく自己を超える存在そのものとして自己の内奥に出会う神を説きます。

デカルトは、実体を無限実体である神と有限実体である精神と物体に分け、世界に対する神の超 越を主張します。

スピノザは、神は世界の超越的創造者ではなく、世界に内在する 唯一の実体であると説いた。
カントは、超越的と超越論的を区別し、経験の彼方に超越する神や絶対者を認識の対象とするこ とを戒めましたのです。
ヘーゲルは、神=絶対者は、歴史に自己展開する主体/精神であり、それを思弁で把握すること をめざします。
彼を批判したキルケゴールは、絶対者に対する逆説的信仰を説きました。また、バ ルトは、絶対他者としての神を語りますが、愛ゆえに世界の超越を放棄したイエス・キリストを通 しての神と人間の和解を説きます。

では、本編での主対象とした西田幾多郎の超越論を見てみよう。
西田幾多郎は、神=絶対を世界と対立的に捉える立場を批判し、真の絶対はその絶対を自己否定 的にもち、真に内在的であると同時に真に超越的なものとして現実の根底で働くとしました。彼に とって、超越の問題は、絶対矛盾的自己同一において成立します。 

『善の研究』に代表される初期の西田は、一切の思慮分別を越えた「純粋経験」に立脚し、主観と客観の二元論、感性と悟性の二元論、事実と意味の二元論など一切の二元的立場を超出ることを志向していた。

したがって、それは「純粋経験」を唯一の実在とする一元論(『善の研究』)、ないしは「絶対自由意志」(『自覚に於ける直観と反省』)を究極の立場とする神秘主義的一元論ないし発出説(純粋経験の自発自展)として特徴付けられることができよう。ちなみに神秘主義とは、神や絶対的なものと自己とが体験的に接触・融合することに最高の価値を認め、その境地をめざして行為や思想の体系を展開させる哲学・宗教上の立場。新プラトン学派やエックハルト、イスラム教のスーフィズムなどが代表的。文学など芸術上の傾向にもいう。

しかしながら、中期以降の西田の宗教哲学はそのような神秘主義の立場をも越えていくような哲学的なロゴスの探求として解釈することができる。

「不二」の宗教的立場は、決して実体的な一元論ではなく、それは同時に「不一」の立場でもある。このような「絶対矛盾的自己同一」の論理とは、鈴木大拙の云う「即非」の大乗仏教思想に示唆されたものであったが、西田の場合は、単に禅宗や浄土真宗の伝統だけが念頭におかれたのではない。

それは、東洋や日本というローカルを越える普遍性、究極の普遍的・超越論的なる述語の場・・「あの花は赤い」が一般者にとどまらず、具体的な美しい「赤い」になるのは、具体的一般者(超越的述語面の「場所」があるからです。

「絶対無」の場に立つものであった西田の云う「場所的論理」とは、最も普遍的なる場所において、最も個別的かつ実存的である個人を主題とするものであった。
それは東西の宗教的伝統の差異を超えて適用され、とくに聖書やキリスト教的プラトニズムの伝統の中において形成された宗教経験にも適用され得る普遍的なロゴスを志向したものであった。

西田62歳の時の著作、『無の自覺的限定』の宗教論は、まさにキリスト教論である。
非キリスト者である西田がバルトと同じ問題を論じていることは、それはある意味で西田がキリスト教的な経験の事実にどれだけ肉薄したかを意味している。

 西田はまず「哲学史上自覚の深き意義に徹底し万物をその立場から見た人」としてアウグスチヌスの言葉を引用し、その「三位一体論」を神学的人間学として評価し、「我々が外物を離れて深い内省的事実のなかに自己自身の実在性を求めるとき、自ずから神に至らざるを得ない」と書いた。これは「自覚」を我々に促す神の働きを「創造」という意味でとりあげたものである。
これ以降、創造という働きが、単に「自己が自己に於いて自己を映す」という写像作用の代わりに用いられると共に、自己の内に完結する自己内写像の作用を突破する「絶対の他」という用語が「無の自覺的限定」のなかに登場するようになる。

「無の自覺的限定」では、他者論とアガペー論、そして原罪論というキリスト教的テーマが集中的に取りあげられる。まず、「肉親」への愛、「我国人」への愛を越える愛が、エロースならぬアガペーとして位置づけられ、絶対に分離せるものの結合としてキリスト教的愛が考察される。

次に自己知よりも「汝」の呼びかけ、「物のよびかけ」が先行することが指摘され、「過ぎ去った汝として過去を見ることから歴史が始まる」という歴史認識が示される。「自己自身の底に蔵する絶対の他と考へられるものが絶対の汝という意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考へられねばならぬ」という立場からキリスト教的な「原罪」の意味するものが語られる。

すなわち「自己自身の底に絶対の他を見るということの逆に絶対の他に於いて自己を見る」という意味に於いてのみ、真に自己自身の底に原罪を蔵し、自己の存在そのものを罪とする人格的自己」が考えられ、そこに西田はキリスト教の云うアガペーの意味を見出している。・・アガペーとは神の人間に対する無限の愛をいう・・

西田の哲学は、主客の対立や、個と全体の対立を超えた実在のあり方を指す概念です。
私たちは通常、主観と客観、自己と他者、個と全体などを分離して認識していますが、実在においては、これらの対立項は矛盾的に同じと捉えます。

これは「超越」と「内在」の弁証法的な関係性のなかで捉えたもので、真の実在は個々の事物や現象を超えた「超越」的な次元にあり、同時にそれらの中に「内在」していると考えました。

西田の希求した万物の根源的な原理、「超越」は、実在の探究でもあり、プラトンの「イデア」論もまた、個々の事物の根底にある「超越」的な実在を探究するものでした。

アリストテレスもまたしかりです。
西田哲学は、東洋の伝統・仏教の思想・禅を背景に、「絶対矛盾的自己同一」という概念を中心としつつ、「超越」への考えを高めました。

この事実は、これに対する「内在」の関係性を根源的に問い直すものだと言えます。
また「場所」の展開は、その問題を存在論の基礎づけ、 「行為的直観」は、「超越」的実在が私たちの経験においていかに「内在」的に現れるかを示すものでした。

超越の禅の見性との対比
禅には、公案というものがある。これは自己の根源を会得せしむる手段に他ならなく 、公案の持つ背理の理と云うもの を肯定するのです。
かかる矛盾的自己同一に徹すること越えることに於いて自己を有つ、自己否定に於て自己自身を有つのである。

自己が自己自身を知るのが自覚であり、その根底に生死の自己矛盾を持つこと、何処までも自己の底に自己矛盾的存在を自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立する。
西田によれば、禅はけっして主客未分のなにものかに合一するのではなく 、自己の底に何処までも自己を超えたものに於いて自己を有ち、自己否定に於て自己自身を肯定するのである。

このような矛盾的自己同一に徹することが禅でいうところの「悟りであり、見性」というのです。
このことの背景には、 「我々の自己は絶対者の自己否定」として成立することを示す。絶対的一者(神)の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのであって、かかる絶対者の自己否定に於て、我々の自己の世界は成立し、絶対否定即肯定ということが神の創造である。この神の創造が超越なのだ。
https://note.com/rokurou0313/n/n432d3bf826e7


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