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神「内在と超越」

内在の広い意味は「ある存在者の本性に含まれ、またとどまっていることで、超越に対する概念」である。

人は良心の内在によって、外からの権威や偶然の介入なしに自ずと罪を悔い改めるーこんな例として使われる。
汎神論では神の働きは自然に内在していて、神は世界から超越せる外的存在者でないとされる。

対して超越とは、内在の反語であり、人の意識を越え出たものや存在を言う。

キリスト教の神学では、その神は超越的であり、東洋の神は内在的という。その理由は、キリスト教の神は創造主であり、自然(世界)に対し絶対的な優越だからである。

反して東洋のそれは、自然の内側のものであり、自然の摂理、真理からは区別されていないからだという。

キリスト教の創造主である神は、あらゆる神やものに優越しているから全世界、全宇宙で最も卓越した神なのだ。
このように説かれた神は、死や死後の救済に最も信頼されるべものとして日本に於いても戦国時代、キリスト教布教期において大いなる信頼を得たことから、多くの日本人の入信者を得た。
然し禁教の解けた明治以降その布教は遅々して進んでおらず信徒数は全人口の1%ほどである。その理由をいえば、神の超越性という教理を日本人が魅力的な教理として捉えなかったからなのであろう。

日本の代表的、歴史的宗教である仏教では無や空を根本原理とする。
無や空、それこそがあらゆるものを成立させる原理であり神や宇宙さへも超越する思想なのだ。
そのゆえに、私たちが住む現実世界は、苦楽を超越した空なるものの表裏であり、悟りさえすればそこは既に救済された世界なのだ。
キリスト教が、神の国の素晴しさを説き明かしても、その超越性にはあまり関心を示さなかったからなのだろう。

一般的に、神は我々の思想や形式をはるかに超えているから私たちはそれを十分に把握することは決してできない。
しかし我々がそれを頼るとき、いつも応じてくれるのだ。内角の和が二直角であると自然界に内在する完璧な真理を通してである。

私は神を「十分に把握することは決してできない」けれども、神を私が頼るときに「いつも応じてくれる」のは自然の在り様を素直に観察した時なのだ。

神というある意味の真理のありかたは、私たちの思想や形式を超越しているので、私たちの小さな頭では理解ができないが、しかし、同時に、超越的なある者として私たちの内に存在している。宗教哲学的には、それを内在というのだろう。

私たちが、日常で感じる悲しみや苦しみは私の根源として内在する神、仏とも呼ぶ超越的な存在が私の必要に応じての呼びかけに感応するからなのだ。

神の本質は我々の知性にとって認識されないものであるが そ れゆえ神を知る道は先ず第一に否定の道となる。このような、否定神学とは神の存在を否定することではなく、否定の形で神(超越者)の存在を肯定するものです。

我々は神を知らず、また神を知る ことも出来ないのだ。その有限性とは、限界状況に直面することで明らかになる人間の無力さのことです。人間は限界状況における挫折や絶望を通じて、この世界における自己自身の有限性を思い知らされます。

その有限性を自覚することを通して、人間はこの世界を超えたものにまなざしを向けることができるようになり、超越者の存在へと向かい、自らの生き方や生きる態度を決断する真の存在へと生まれ変わることができるのです。この意味において意識の外側の超越と意識内の内在が問題となるのだろう。

近世に入ると、人間の意識を基準として意識内の内在と意識外の超越とが区別されるが、その際、意識の外に超越するものを認めないですべてを意識内の表象に還元するのが内在主義です。その極端な形式が唯我(ゆいが)論的な観念論である。唯識とは自我とその意識だけの実在を認め、他の自我や一切のものは、自我の意識の中で存在するに過ぎないという立場である。

他方、意識外の超越を認めて意識からの対象の独立を説くのが、素朴実在論に始まる各種の実在論で、唯物論もこの系列に属する。

西田は.「いっさいのものは始め宗教より出て, また最後に宗教に帰る」と考えていた。
処女作『善の研究』では,「学問道徳の本には宗教がなければ ならぬ。
学問道徳はこれに由りて成立するのである 」といった。
「人智の未だ開けない時は人々かえっ て宗教的であって,学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる 」と述べている.

西田幾多郎は人間を道徳的自己「悩める魂」と定義する。それは自己矛盾的な自己であって常に理想と現実、義務と欲求、善と悪、価値と反価値との間で悩める狭間の自己である。悩める道徳的自己はその自己矛盾の極限において自己の絶対否定による転換、即ち回心を経験する。それが宗教的意識であるという。

悩める自己と回心した自己は連続した自己ではない。そこには、絶対の断絶が介在している。断続しながら連続なのだ。
彼の著作「善の研究」における知的直観と自然の根源的統一力(神)との統一なのだ。自己の否定を通した空なるもの無なるもの世界を直観することなのだ。
以上、神は人間にとって超越なるものであるが真実は自己に内在する本質が超越せるものに他ならないことの触りを書いてみた。




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