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芭蕉は哲学者


芭蕉生家

俳句(俳諧)の魅力は、十七音からなる短い詩文が、一つの世界を創りだすところにある。

俳句の定型には、「季語」と「切れ」がある。季語は季節を示す語であるが、この語は自然の世界を切り取る役割をもっている。

「切れ(切れ字)」とは俳句が一つの「間」を含むことを示している。この「間」は、句が別次元の、あるいは哲学的にいうなら超越論的な意義をもっていることを意味していると考えられる。

「切れ(切れ字)」は俳句が一つの「間」を含むことを示すが、間は詫び寂び、不完全である」という美意識にも通じる。
余白のように、何か足りない部分があってこそ、美しさが際立つという東洋殊に日本人の独特な見方でもあるのです。
ですから、この「間」が、別次元の、あるいは哲学の超越論的な意義をもっていると考えるのです。

多少禅的な教養を知った者からみれば、芭蕉の俳諧は「物我一致」という禅の体験からである。
物(対象、客観)と自己がひとつであるという自覚で、すべて(他人も物も)が自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚である
そこから自然に自分がない、誇るべき自己はない、名利をもつべき自己もない、恨むを留める自他もなし、と無の境涯に生きることが俳句の中心があるということなのだ。
物とは、対象であり客観であるから、すべてが自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚を禅はいざない、無の境涯に導く。

しかし、その境涯は虚無ではなく、すべてが自己であり、本来の自己であり他者の喜びにために働くというものだから、そこに見返りを求めない無心で、禅をよく知る芭蕉の境涯があるのだ。

禅的思考、無の思想は日本文化全般に大きな影響をあたえた。例えば、作陶で粘土をこねて器を作るとき器には空間の無があるから容器として使えるし、家も、空間という無があるから建築して住むことができる。これを「無用の用」といいます。


余白の美

分かりやすいのは枯山水の庭です。枯山水は水の無い庭です。
禅寺で発展した枯山水は、水を引き算することで水を感じさせるという想像のための余白が存在し、白砂や小石から水面を連想する見立てによる世界観を形作っています。


長谷川等伯による国宝の水墨画「松林図屏風」

これが絵画では余白となる。
長谷川等伯による国宝の水墨画「松林図屏風」は、木々の間に多くの余白を残しています。
余白は、大気であり、霧であり、それに覆い隠された無数の松であり、土であり、限定しないイメージの拡がりが沸き起こります。このイメージの源泉というべき場所を西田幾多郎は、哲学し仏教では虚空といいあらわす。

何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所であり、空または虚空界ともいう。虚空界とは、虚空のように一切を内に秘め内蔵する。色もなく形もない本源的な真実なる世界である。東洋哲学でいうところの体用論でいう体と同義である。

色も形もないのに私たちが日本画や墨絵を見るときに余白を感じるのは輪郭線によって現れる、即ち虚空の形無き、色無きを見ていると言えるのでしょう。それが余韻となってみる者の感動を引き起こすのです。これは能楽俳句をはじめとする日本文化全体に係るものなのでしょう。

芭蕉の句として誰もが知る「古池や蛙飛び込む水の音」の句は「個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換」・・超越・・を示している 。「超越」と「内在」の弁証法的な関係性を巧みに捉えたもので、西田哲学では、真の実在は個々の事物や現象を超えた「超越」的な次元にありながら、同時にそれらの中に「内在」しているという。

個人は自然という「超越」的な全体性の中に組み込まれながら、同時にその全体性は個人の中に「内在」しています。
また、時間的・空間的に限定された個物は、無限なる「超越」的実在の中に存在していますが、その「超越」的実在は、個物の中にも「内在」しているのです。 このように、西田哲学において、「超越」と「内在」は相反するようでいて、実は不可分に結びついています。そして、この「超越」と「内在」の矛盾的な統一こそが、「絶対矛盾的自己同一」の本質なのです。
つまり、そこに芭蕉という人物のポエジー ( 詩心 ) がある。要は普遍的なものを個物の中にとらえることなのだ。 


古池や/は心象風景

芭蕉が作り上げた俳句が後世これほど支持されているのは、現実の一瞬を描きながら、永遠の生を捉えているからである。

貞亭3(1686)年3月末の昼下がり、芭蕉とその弟子たちは、隅田川の畔にある庵の中に集まり、句会をしていた。その庵は過って私がサラリーマンとして住んでいたことがある現東京江東区の門前仲町であった。それ故に私にとって芭蕉は違った意味での時空を呼び戻す存在である。

その句会の最中に、蛙が水に飛び込む音が聞こえた。
室中には、その光景は見えず、音だけが耳に入った。

芭蕉は「蛙飛び込む 水の音」と詠んだ。
それは現実の風景を描いた句であり、音も現実に聞こえたのだろう。

しばらく、芭蕉は上5を考えていた。芭蕉の心の中に古い池のイメージが浮かび上がってくる。
その池は、現実ではない。心である。
そのことを示すため「」という切れ字を用い、「古い池」とした。つまり、「や」は、7/5の部分蛙飛び込む水の音との断絶を示している。

芭蕉は、現実の世界を描きながら心の世界を浮かび上がらせるという、新たな俳句の世界を創造することに成功した。
それを西田哲学風に表現すれば、内在即超越となる。
誰もが知る「古池や蛙飛び込む水の音」の句が「個の本質から普遍の本質への微妙な一瞬の転換を示し、そこに芭蕉という人物のポエジー ( 詩心 ) があるとされる。
それが普遍的なものを個物の中にとりこみ、 作り上げた俳句が、現実の一瞬を描きながら、永遠の生を捉えているということなのだ。
日常的な世俗は内在的理性の対象であり脱世俗的(世界彼岸的・宗教的世界)は超越的宗教の世界である。

我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがある。我々の自己が自覚的に深くなればなるほど、しかということができる。内在即超越、超越即内在的に、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。
という西田哲学の本意を芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」が当てはまる。
「蛙飛びこむ水のおと」自体は表象的文章であり、事実を記 しただけのもののように思われるが、この文章に芭蕉の思想を読みとるところに哲 学の役割がある。
人間は本来自由であるという自由因果関係。一方で、すべてはあらかじめ決定されていて、偶然も自由も存在しないとする自然因果関係を主張する考えがある。自由意志とは、自分自身の意図や選択に基づいて判断したり行動する能力を指します。
芭蕉の句に、自由因果関係という観点を見出すとき、芭蕉の心を 読むことに通じるようになるのだろう。

「蛙飛びこむ水のおと」 という事象が成り立つということは、それを成立させているそれぞれに共通の場があるということに ほかならない。

「蛙飛びこむ水のおと」は、二義性をもった文だ。すなわち、自然的因果と自由の因果である。
この両義は句の中でけっして対立するものでなく、 異なるものでありつつも両立し、むしろ両者がある意味で結合しているとみるべき である。

さらにいえば芭蕉という人間の中で、この両義は調和し一つになっている と考えられるのである。
これら一連の事柄は、断絶しながらも連続であり、蛙が飛び込んで発生した音は物理法則に支配されており、それゆえこの情景は当たり前の出来事として決定している情景描写でありながら古池という切れという間に、読み人に限りない永遠の世界を想像させるのだ。

「池」は最初から「古池」ではない。
家と同時に庭が造られ、池もできた。 「池」には鯉が遊び、子供たちの歓声もあった. 時の流れは、家族の離合集散、年取った夫婦もやがて死に家も朽ち果てる。
形あるものは「古池」 だけとなった。
悠久の自然の時間の中で人の一 瞬の営みで残るのは「古池」だけ。その池で暮らすのはただ「蛙」だけです。
「古池」には,時の経過,命の誕生と終了、家の盛衰など,物理的な宇宙の時間の中におけ る「人の営みの時間」が凝縮(内在)されているのです。

情景的な静寂ではなく、 「自然の時間・営みと対比して人の時間・営みの はかなさ」つまり「もののあはれ」が本来内在されているのです。
それ を「古池」(主題)という空間を表す言葉に、時 間の表象である「動き」と「音」(蛙飛び込む水 のおと)を組み合わせて一 点に集中(超越)させているのである.その意味で「もの のあはれ」を詠んでいるともいえる。

池に飛び込む音を聞いて感ずるところを句にした。そこに俳諧としての独創、風雅がある。

俳句は考えるものではなく、感じるものとすれば「感ずる」とは何をどう感じることなのか。古池の句は、日本人誰もが知る句だが、「飛び込む水の音」に何を感ずるかは人によって異なるだけでなく、蛙飛び込む水の音の背後にある芭蕉の表現意識は深い。単に静寂、閑寂な心ではない。「わび・さび」の深い心をさりげなく、平易な言葉で表現しているところに芭蕉の凄さがあるように思う。

音という自然因果律を超越した芭蕉の自由意志(自由因果律)というものがくみ取れるのだろう。
二つの因果のありかたを全体として成立させている場について思い をこらした時、その「場」として浮かび上がったもの、それが「古池」で ある。
古池という場においてこそ、「蛙飛びこむ水のおと」という命題が成り立 つのである。

こうして芭蕉は、新しい自分の立場を古池という表現をとおし、実はそれが古来の世界に根づいたものとして世に示すことができたのである。

 この文章のヒントを石 神 豊さんの論を参考とした。

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