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西行

新古今和歌集に多くの歌が選ばれた平安末期の出家者であり歌人の西行は、多少でも日本文化や文学に関心を持つ人々の関心を引き付けてきたことは疑いもない。
彼の出家への動機は中宮璋子への恋心だとする説もあるが彼自身そのことに触れていないので詳細は不明だ。
巷に流れているその噂とはこのようなものだ。

仏門に入り「西行」と名乗った佐藤義清(のりきよ)は、18歳のときに「北面の武士」といって天皇家の御所を警護をする役職に就きました。物語はここから始まります。

待賢門院璋子(たいけんもんいん しょうこ/たまこ)

璋子は、藤原氏一族の娘で、後に鳥羽天皇の中宮(皇后)となります。
名家の生まれとあって璋子は幼少より自由奔放でした。
この時代の宮中は日本の古代からの性風習の名残からか自由恋愛みたいな空気があったようです。

早熟だった璋子は若いころから何かと艶聞の絶えない女性であったようです。
皇后と武士の身分を超えた恋。しかも平安時代の、特に下級武士は限りなく強面としての反社会的な存在でした。いくら自由恋愛の風潮があったとしてこの身分違い、二人の関係の真相はどうであったでしょう。

北面の武士、殿上人の警備使となった西行(佐藤義清)は御所に出入りする身となり、そこで待賢門院璋子と出会うことになります。
当時の彼女は30代半、義清にとって妖艶な熟女といえたのだろう。

母子といってもよいくらいの17歳年上の女性である璋子は、女性経験の少ない義清が一目惚れし、気も狂わんばかりの恋に落ちたということが真相なのだろう。
今でいえば、絶大な権力を持つ勤め先の社長の奥方であるような禁断の恋、なさぬ背徳の愛であったような璋子への恋は、燃え上がるほどに最早誰にも止められないラブストーリーに昇華したのです。

現代ではLineでメールを送るのでしょうが、西行は和歌にその思いを託したラブレターを送り続けたといいます。

いっぽうの璋子は、次々と送られてくる恋文から、その一途さに心打たれ、義清を受け入れ一夜の契りを結んだのです。

璋子は皇后としての罪悪感からか、以後は義清との一夜限りの関係を断ってしまいます。
一説には熟年の恋多き「璋子が義清に飽きてポイした」との風聞もありますが、その後に璋子からの返書に書かれた「あこぎ」という3文字に義清は絶望します。
あこぎ」を現代語訳すると「ウザイ・ウザ!」です。なんにしても義清は失恋してしまったわけです。

誰にでもある失恋。人それぞれその乗り越え方は違うでしょう。義清は出家してしまうのです。出家、つまり仏門に入ることで璋子への想いを断ち切ろうとしたのです。
人生には乗り越えなければならない試練があります。出家は外面的なことですが、内面的には、人生の無常観の克服です。
どうにもならないことへの諦めではなく、克服です。人生の苦悩は様々な要求を満たそうとする煩悩です。
失恋と向きあう日々を過ごした義清は、そうして自分の弱さを心向くままに歌にしました。
叶わぬ恋の悲しさ寂しさを人生の無常と捉え歌にしました。

“出家”という行為自体は珍しくない。
西行が官位を持っていたのにそれを捨てたこと、しかもまだ20歳過ぎで若かった点などから人の注目を集めた。
時の内大臣・藤原頼長は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」と記している。

西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたその心や行動を時の内大臣頼道をして賛美させたのだ。

出家への動機が失恋という通俗的なこととはいえ、自己完成への仏道成就の厳しい道を歌道に置き換えた西行・佐藤義清の人生は日本史の中にあってとてもユニークな存在として現代人にもその心を捉えさすのだ。

『世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり』
(世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩となり私から離れない)

花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に
(この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう。 西行としての出家者ではなく、人間義清として捨てきれぬ璋子への思いをうたったのかも知れない

嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
月が私を悲しませようとでもしているのだろうか。
そう思いたくなるほど、涙が流れ落ちてしまうのだ。

出家者と言っても失恋を引きずっている西行。ですから西行にとって、歌を作ることは仏道の修行に異なりません。
歌によって悟りを得ようとしたのですから。
春になると桜の花に璋子への想いを託すようになり、いつしか花鳥風月を愛でる歌が増えていきました。きっと桜がもつ儚さを、璋子との短い恋に重ねていたのでしょう。そうして歳月が流れ、西行62歳のときに詠んだ歌が下に記したものです。

願はくは 花のしたにて 春死なん その如月の 望月の頃
璋子と義清が契りを結んだその夜は満月だったのでしょう。たとえ一夜でも西行にとっての恍惚は永遠の瞬間でした。
互いに不倫とはいえ生涯、璋子を愛し続けた西行の純愛が表われています。
そして10年後の2月16日に西行は亡くなります。1日遅れではありますが、彼の願いは叶ったわけです。西行が璋子を想いながら植えた桜はいつしか西行桜と称され、京都西山、大原野にあるその寺、勝持寺は「花の寺」と呼ばれるようになりました。
この話を好んだ私が、この寺を幾度となくたずねたことは言うまでもありません。

一筋だが二者択一ではない自由でしなやかなその生き方は煩悩の赴くままの作風をとりながらも仏道への厳しい帰依、また伊勢神宮への参拝の折読んだ歌「なにごとのおわしますかわは知らねども、かたじけなさに涙こぼれる」とよんだように、仏が日本の神の姿を借りて現れたとする神仏共存の本地垂迹思想の定着に大きな役割を果たした。

なにか一筋の生き方を追求しながらも、その実自由な立ち位置を大切にした西行の歌は親しみやすく、それでいて奥が深いと思うのは私だけではなかろう。芭蕉が西行を慕い、近世の歌人若山牧水が熱愛したのも、当然であろう。




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