見出し画像

意識は幻想か実体か

ウエブ上に意識は幻想か、実体なのかを話題にした記事があったので今更ながら取り上げてみた。
このことに関し過去色々なことを考えて書いてきた。
この世界でたった一人の私が過去ではなく、また遠い未来の世界でもなく、現在のまさにこの時代のこの場所に生まれて存在している理由を問えば、真に不思議だ。

さらに、その私という意識(=精神)は、私の肉体が死ぬと同時に永遠に消えてしまうのか、それとも絶対的な無の空間に私の精神だけが永遠に漂い続けるのか、答えのない問題を自問してきた。
この議論はある意味出口のないトートロジー(同義語反復)だ。
これについての本質は、人間の「精神」は、脳内の「物質」が作り出したものなのかという一点であろう。

これに関しての答えは、脳内における情報処理の物理的意味がやっと説明できるようになっただけで、肉体を離れて精神が独立に存在しているかに見える「現象」は何ら説明できていない。
脳科学者は、いわば「やさしい問題」を解けたと言っているだけで、意識の永遠性という本当に「難しい問題」は残り続けているのだ。

テレビ画面から出ている物理的な光(電磁波)には色や形などついていない。
色や形のない電磁波を網膜がキャッチし、その情報を脳がとらえたとき、初めて赤い色やリンゴの形が意識される(イメージとして生まれる)のである。イメージであるから物理的に定量化できない。ならば、認識して意識するものとは何なのであろうか。

仏教では、意識がすべてを作り出すという概念がある。私達の現前にあるものはすべて意識の作り出した幻想であるという思想だ。

脳生理学の実験では人が指を動かす行動は、意識が脳に電気信号として発生する以前に起こるという。人間の意志はどれほど自由なのか? 意識的な選択とは単なる幻想なのだろうか?

「人間の決定は、脳活動によって強力に準備されている。意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」と、ドイツのマックス・プランク研究所に所属する神経科学者のジョン・ヘインズ博士は述べている。

このことは人の脳は自意識が発生する前に自律的に行動を促す何かかが発生するということなのだ。私達が主体的に判断を下す意志は脳で作り出された幻想なのか。このことは、人間には自由意志がなく、すべてのことは既に決定されているという哲学の命題的な事柄につながるのだろうか。

赤いリンゴと認識されたものがイメージとしての幻想であれば、仏教の言うことには一理も二理もあるのだろう。イメージを司る意識自体が脳の作り出した幻想とすれば尚更である。

意識・魂・精神の永遠性の理解をどのように考えたらよいのだろう。
デカルト派は、考える自分の理性がまずあって、その永遠性、物質からの独立性を保証する根拠を論理的に探すことで、必然的に存在そのものは疑えてしまうけど、その思考自体は疑えないと逆転の発想を唱える。
彼らの主張は存在そのものは疑えても、その思考自体は疑えないと主張したことです。

当然、教会から一方的に神を信じよと押し付けられていた当時の人たちには新鮮だったのだろう。
デカルト派は、まず全てを疑うという方法論を徹底させ、ついに到達した「我思うゆえに我あり」という主観主義により、神そのものの説明に至り、今度は反転して、考える自分の存在こそが神の証明であるとして、主観の永遠性も説明するデカルトの論理をダイナミックに展開した。
二元論的ともいえるデカルトの心身二元論は、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方である。
ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す実体二元論のはっきりとした理論があるわけではないが、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方である。

  1. この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。

  2. そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている

現在このような思想は色あせてきたがペンローズ、ハメロフ、エックルズ、ベック、治部、保江などによって二元論の発展形や改良型とも言えるような量子脳理論が唱えられている。ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ベローズとアリゾナ大学のスチュッワート・ハメロスは意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。
ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。
この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないという。

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。

数学の微分は、有限なる曲線は無限小なる点より 生ずると矛盾的なことから考へる。
dx をx の根源として考へ るのは、我々の有限なる意識の背後に横たわる無意識(永遠なるもの)はx に対するdx の如くと考へることができるだろう。
意識現象というものも有限なる意識の内在に永遠なる意識への超越があると思えば、死というものも少し肯定的に捉えることが出来るのかもしれない。
意識現象も生命現象である。生命とは生きつつ死ぬものであり、死につつ生きることが真理です。
二つの相容れぬものの両側面が存在の真実である。
ですから断見から離れた見識即ち、意識作用も生命の否定即肯定的に捉えることが出来れば立命安心である。

補足
仏教の心の相続について見てみましょう。この問題は微妙です。私達の意識(心、意識、精神)は、表層意識と潜在意識の二重構造になっているといいます。潜在意識は末那識と阿頼耶識で構成され、末那識は執着する心であり阿頼耶識と一体になり業により阿頼耶識に熏習され未来に相続されるといわれます。

この話は無我を説く本来の仏教思想と矛盾していると多くの論争を引き起こしています。私は仏教学者でもありませんから深くは理解できていませんが、この問題は以下のように自身で納得するようにしています。

およそ世の中は、質量(物質)とエネルギーの等価で成り立っているから、物質としての私が消滅すればエネルギーに集約されるのでしょう。
そして縁があってまた違う生命体に帰納していくのだろうと思う。エネルギー保存の法則は紛れもない真実であるから、私はその意味で永遠を生きていると言えるのでしょう。
業により阿頼耶識に薫習され相続されていく身口意の3業・カルマはエネルギーそのものだから縁起によりカルマが相続されていくのだとすれば無我・無常と輪廻転生は矛盾なく理解できる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?