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スピノザと西田幾多郎 その1

最近買い替えたPCに以前のPCからファイル移動していた時、このような記事がみつかった。
この記事がどのような経緯で書かれたのか、どこまで自身のオリジナル的内容なのか検証できていないが、私が以前から関心を寄せる内容なのでNoteに載せることにした。

スピノザ

「知性改善論」「神学政治論」を世に説いた、近世哲学の一つの流れを生 み出した 17 世紀の哲学者、ベネディクトゥス・デ・スピノザ(1632 - 1677)。

彼の名が現代に語り繋がれ、とりわけ彼の哲学が、現代思想にも巨大な影響を与え続けてい るのはなぜなのだろう。

それは、人間の行為や感情、知性、社会のあり方に深い洞察を加えたものとしての評価です。
そんなスピノザが最晩年、自らの哲学的な営為の集大成として、世に問おうとしたのが 「エチカ」という論理学です。

神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという「汎神論」。
それをベースとして、「自 由意志の否定」「人間の本質を力だと考える人間観」「活動能力による善悪の再定義」など、 当時も今も常識とは全く異なる考え方が導かれていきます。

私が以前から影響を受けた哲学者は、日本の西田幾多郎です。彼の考えた神の定義はスピノサ によく似ています。
彼のベースにあるものは、と言われていますが、このことから、の普遍性がギリシャ哲学から西洋哲学 へのある種の流れの中にあるということに気づかされます。

西田幾多郎

西田幾多郎は、日本人哲学者としてはめずらしいほど「神」というもの にこだわった。西洋のキリスト教圏の哲学者が神にこだわるのは不思議 ではないが、日本人であり、かつキリスト者でもない西田が何故神にこ だわるのか。

何しろ西田は、「善の研究」において「神」を持ち出して以 来、終生神を問題とし続けた。
彼の最後の論文となった「場所的論理と 宗教的世界観」も、まさに神と人間との緊張あふれる関係について論じ たものなのである。
「善の研究」を始めとして西田が神について論じたところを読むと、そ れがキリスト教的な神でないことはすぐにわかる。

しかし、日本人にと って、キリスト教的な神とは違った別の神がありうるのか。 普通われわれ日本人が「神」という言葉を使う時には、「神様仏様」とい う具合に、仏と並列した形で使う。西田もまた、「父なる神、母なる仏」 というような言い方をしている。
こういう使い方における「神」とは、仏 の仮の姿(これを権現さまという)、あるいは仏とほぼ同様なものとして 表象されているのが普通である。

こうした意味での「神」は歴史上、神仏 習合の結果生まれて来たものだ。日本古来の神が、仏と集合して仏教的 な神になった。それは神という名で言われるが、実体としては仏と別物 ではない。 では仏と習合する前の、日本古来の神とはいかなるものであったか。

そ れは一言で言えば、神話の神である。高天原と葦原の中国とを股にかけ て闊歩する八百万の神々、それが日本の神の本来の姿である。

これは、宗教的なものというよりは、神話の世界の住人たちなのである。 神話と宗教との相違をこの場であげつらうつもりはないが、両者が基本 的には違うということだけは押さえておきたい。

西田のいう神とは、キリスト教におけるような超越的存在でもなければ、 日本古来の八百万の神のような、この世界にとって内在的な存在でもな い。

端的には、信仰の対象としての超越的な神ではなく、この世の生成を説 明した神話の原理でもない。
神という言葉は使っていても、従来の仏教的な神仏論に立ちながら西田 はそれは、彼独自のユニークな内容を持ち込んだのだろう。
西田が「神」というは、「神とは決してこの実在の外に超越せる者ではな い、実在の根底が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 また、「神とはこの宇宙の根本」をいうのである。

西田は、「余は 神を宇宙の外に超越せる造物主とは見ずして、直にこの実在の根底と考 えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係では なく、本体と現象との関係である」・・(体用論)とも言っている。

西田が言っていることは、神とは宇宙に内在するものだということである。これは、神を宇宙の外に超越するものだとするキリスト教の考え方 とは根本的に異なっているのだ。

神は、宇宙に、そして我々個人の内部に、内 在しているとするのである。 こうした考え方は、スピノザの汎神論やその影響を受けた理神論の主張 と非常によく似ているのだ。

スピノザは、この世界の形成原理をキリスト者が考えるような超越的な 神に求めるのではなく、世界そのものの内部に求めようとして、なおか つ、無神論との批判をかわすために、この原理に神と言う名を与えたが、 西田の場合には、もともと無神論との批判は当たらないが、 神を、宇宙に内在する原理、実在の根底とする西田の見方は、その後基 本的に変らなかった。

西田がこの議論を展開す る場面においても、神が宇宙に内在する実在の根底だとする主張は揺る ぐことはなかった。 だが、そんなものにわざわざ神という名をつける必要があるのか、とい った批判もある。
神のもつ内在と超越とをいかにして調和させるか、と 言う問題である。

内在と超越とは、普通に考えれば、排斥しあう関係にある対概念だ。あ る事柄の内部にあるのが内在、その外部にあるのが超越、と考える。
キリスト教では、神は宇宙の外部にあって、この宇宙を創造した造物主 である。
そうしたものとして、神はいまでも宇宙の外に超越して存在す ると考えられている。 しかたがって、そういう神と人間との関係は、宇宙や人間の外部に存在 する者との間の超越的な関係である。
神は宇宙を超越しているがゆえに、 それとの関係は宇宙に内在する原理では説明がつかない。

まして、信仰 の根拠とはならない。人が神を信仰するためには、パスカルがいうよう な飛躍が必要である。 人間は飛躍することによって、神との距離を一瞬にして縮め、信仰に入 ることができるのである。

宗教というものは、信ずるものは救われるごときに、こうした超越の要素を含んでいるものだ。 しかし、西田の神は、この世界の外に超越していてはならなかった。 だが、この世界に内在しながら、超越的な絶対的無矛盾をはらむ要素であらねばならない。

内在と超越とは一見矛盾した関係にあるが、どこかでつながってもいる。
それを西田は内在的超越という言葉で表わしたのだ。この言葉は、内面的外面というようにも聞こえる。
この様な仏教的論理は、いかさまように聞こえるが内在的超越が成り立 つのは、絶対矛盾的自己同一というものの働きによる、というのがその 主な理屈である。
このあたりの違いや整合を勉強するのも、スピノサや 西田への理解を深める手立てであろう。

西田哲学における神概念を把握するには、「人間と神との逆対応」との理解が大事だ。
そこで、「逆対応」という概念が「場所的論理と宗教的世界観」においてどのように展開されているかを確認しなければならない。
その上で、西田が見出した神概念とはどのようなものであるのかを考察してみよう。

逆対応とは絶対矛盾的でありながら対応関係にある絶対矛盾的自己同一的関係を言い表す術語の概念である。
我々の自己は、何処までも絶対的一者、即ち神と逆限定的、逆対応的関係にあり、「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むも のなるが故に、自己自身によって有るものであり、絶対の無なるが故に絶対の有である」。

西田は人間と神との関係を考える上で、「絶対」をどう捉えているのだろう か。
「神」という言葉は「絶対」や「絶対的一者」、さらには「絶対の無」ともいうが、絶対と云へば、云ふまでもなく対を絶したものである。

しかし単に対を絶したものは、何物でもない。単なる無に過ぎないし、何物も創造せない神は、無力の神であるから、神ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾がある。
自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。

絶対は、自己の中に、絶対的自己 、如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であらなえばならない。
絶対は自己の無に対することによって、真の絶対であり絶対の無に対 していなければならない。
自己が絶対的無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立ち、自己が自己の中に絶対 否定を含むことにならない。
これから、自己の中に絶対的自己否定を含むと云うことが、自己が絶対の無となると云うこになる。

西田が考える絶対は、絶対が自己の中に相対立する絶対の無を含むもので、よって真の絶対とは、絶対矛盾的自己同一そのものになる事態と言える。

否定態が、絶対の無自身に相対立する(「無が無自身に対して立つ」)ことであり、このことにより絶対は真の絶対 の無となり、自己が自己の中に絶対的否定を含み、絶対の無の絶対 あってこそ、真の絶対となるのだ。

絶対矛盾するものが、互いに矛盾しながらも対応しているのが逆対応であり、我々の自己は自己の底に自己を超越(絶対否定)した、絶対矛盾的自己同一に宗教的立場の成立を見るのだ。

このように人間からの神へのあり方は、人間の死(絶対否定)により到達できる。
死とは肉体的死ではなく宗教的な死である。私たち人間が絶対自力から絶対他力ヘと転換する極みにおいて「自力の絶対否定」を介するような自己の絶対否定によってのみ神と繋がることが出来るのだ。
しかる後、私たち人間は、自力の死により神に接っし、真の自己を見出すことが出来るのである。

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