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在原業平と蔦の細道

直近に書いたNoteの記事のように自分のすべてを桜の花にさらけ出した西行のような歌詠みもいれば、「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」・・・ 本来春は、のどかな季節であるはずなのに、人は桜の花が咲くのを心待ちにしていながら、咲いたと思えば、花が散るのが気になり落ち着きません。桜が存在するから人々の心が穏やかでないことを述べた在原業平のような歌詠みもいる。

在原業平は、平安時代の貴族(825~880年)。父に平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王、母に桓武天皇の皇女・伊都(いと)内親王をもつ貴公子です。

「伊勢物語」の多くの章段に共通する主人公と目されるのは在原業平(825-880)。
平安初期を代表する歌人です。平城天皇の直系であり世が世ならば天皇にもなれたかもしれない業平ですが、さまざまな因果から臣籍降下。

貴種でありながら権力の階段からこぼれ落ちた彼は、そのエネルギーの全てを女性への愛と歌に注ぎ込みました。この辺りは西行法師に似ていなくもありません。

「伊勢物語」は、いわば業平のラブストーリー集でありますが、その核には業平の人間的な魅力が満ち溢れています。



私の住む静岡県焼津市の隣町、藤枝市岡部町と県都静岡市を結ぶ古道に蔦の細道がある。文字道理の旧東海道筋である歴史街道で都から東に向かう旅人が必ずと通る街道である。
蔦の細道は、「宇津の山越え」とよばれた道で7世紀の律令時代には伝馬の道として使われた。
古代東海道駅路の道は本来我が焼津を通る海沿いの日本坂、府中ルートだったが、宇津ノ谷峠を越える道に変更されたのは、中世からであった。

よく知られるようになったのは、平安時代前期の文学作品『伊勢物語』が書かれたときからである。在原業平をモデルにしたとされる主人公は、宇津の山に入ろうとしたとき、暗く細く、蔦や楓が茂り、寂しい道に心細く思った。
その時見知った修行者に会ったので、京にいる人に「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」と記した手紙をことづけた。

「蔦の細道」とよばれるようになったのは江戸時代からで、この業平の逸話から名付けられたと考えられている。



昼でも薄暗い危ないイメージは歌舞伎の「蔦紅葉宇津谷峠」(つたもみじうつのやとうげ)でも描かれている。伊丹屋十兵衛が幼い盲人の按摩文弥をこの峠で殺して、100両のお金を奪うが、そのお金は文弥の姉お菊が、弟に按摩の官位を手に入れてやるため、身を売り苦界に身を投じて用立てたお金だった。
やがて、文弥の亡霊が十兵衛の女房に取りつき、蔦のつるのように殺しが続いていく。

盲目の少年按摩文弥は,姉が吉原に身売りしてつくった百両の金を持って,座頭(ざとう)の官位を取りに京都へ向かう。

途中鞠子の宿で胡麻の蠅の提婆の仁三にねらわれたところを同宿の十兵衛に救われる。が、
未明の宇都谷峠まで送って行った十兵衛は文弥が大金を持っているのを知り、主家のため貸してくれと頼むが断られついに惨殺して金を奪う。

やがて十兵衛は妻とともに文弥の怨霊に悩まされるようになった。
おまけに、殺害現場に落とした煙草入れをネタに殺人の目撃者仁三にゆすられるようになった。
仁三を鈴ヶ森へおびき出して殺害した十兵衛は、自らも捕えらえ死ぬ。歌舞伎特有の勧善懲悪のドラマである。

見どころはいたいけな按摩文弥と強欲の盗賊仁三という対照的な二役の早替り、鞠子の宿の世相風俗のいきいきした描写、律義な商人の十兵衛が主のため文弥を手にかける峠の殺し場、十兵衛のいとなむ居酒屋の亡霊出現と仁三の強請場(ゆすりば)など。
なかでも峠の場は〈因果同士の悪縁が、殺すところも宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血汐の紅葉血の涙……〉の台詞と早替りで知られる名場面。
名人小団次と黙阿弥という幕末歌舞伎を代表するコンビは,この一作によって確立されたのだ。

遠い駿河の宇津の山に来て心細さから都の恋人を偲ぶ業平。
思わず歌を詠み旅人に託したのは、現実でも夢でも貴女にお会いすることが難しいのは、貴女が薄情になったからでしょうと疑い思う心情からである。
備考:伊勢物語 九段

在原業平をして恋人の変心を疑ってしまうような危うげな寂しさが漂う宇津ノ谷蔦の細道だから、江戸時代の戯曲者は、いたいけない文弥殺しの現場としてこの場所を取り上げたのだろう。



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