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不安ということ

昨年2023年は、千葉に住む弟と埼玉に住む弟を相次いで亡くした。これからしばらくは不幸は続かないだろうと思っていたこの頃、まだ現役の公務員で頑張っていた甥が突然入院していた病院で亡くなったと連絡が入った。頭がよく、生活態度はまじめで、弟たちの葬儀には参列して哀悼を表してくれた。
この地方の進学校を卒業し東京の私大へ、故郷に帰るべき地方自治体の公務員として奉職していた。身近な人の死に感じるものが身を苛む昨今である。
この記事は過去に一部をNoteで公開したが何がしの慰めになればという思いで再度取り上げてみた。

私は、学校を卒業後、大手のメーカーの機械技師となりました。しかし、物理が好きで機械工学を勉強しましたが、その実力は、不十分でした。会社は、大学の精密切削理論特別コースに就学させてくれましたが、工学が自身にあわず、その実力のほどもわかり、ならば、自分の好きな歴史や哲学を自由に勉強したいと、退社しました。当然、周囲の人は、反対をしましたが、父親の死もあり、好きなことを、好きな時にできる自営業に転身したのです。

以後、商売の世界で努力を重ねましたが、本も出版したいと思い、商売を閉じました。この文章は、私が、かよった座禅の時々に考えたものです。少し難しいところもありますが、何百と書いた論文やエッセイの一部です。

何故に我々の自己は、その根柢において宗教的であり、自己自身の底に深く反省するに従い、すなわち、自覚するに従って、宗教的要求というものが現れ、宗教的問題に苦しまねばならないのかであるが、それは、我々の自己が、絶対に自己矛盾的存在なるが故である。
絶対的自己矛盾そのことが、自己の存在理由なるが故である。

自分自身の奥底に、徹底的に矛盾した自分のあり方や腐りきって本当に救いようのない自分のおろかなあり方を見つめたとき、宗教の世界が現れてくるといいます。
「多くの人は深くこの事実を見詰めていない」と哲学者であり禅者である西田幾多郎は言い切ります。
換言すれば「道徳の極地は道徳そのものを否定するにある」ということです。
道徳の立場を徹底し、自分の力によっては決して善人になることができないことを何百回も何千回も突きつけられ、道徳の極地に至って道徳そのものの否定を知ることとなるのです。
自己の力を基礎とする「道徳」の立場と、自己を棄て去る「宗教」の立場の違いについて述べましたが、
夏目漱石も、不安の人でした。
彼はその小説、門の主人公宗助を語りながら迫りくる不安におののき、その解決を禅に求めました。
しかし、禅の実践たるや不安の解消どころか更なる不安を煽り立てる結果となりました。

彼は禅僧から、父母未生以前本来の面目の公案、すなわち問題を与えられ、その見解を求められます。およそ禅を志す者は、始めの関門、しょかんといいますが、このしょかんが解けなければ次には進めません。

当然ながら宗助は、成す術もなく寺を去ります。
この問題提起は、自分が此処にあるのは父母の和合としての因縁である。では、父母も生れていない以前、自分とはなに、誰なのかという問題なのです。

私というものは、他者との関係で有る者である。

「私は」という言葉は、ここにいる自分を指していると同時に、向かいにいる貴方であり、彼方にいる彼らであり、彼女らである。さらには、世界各地で会うことのない無数の誰かや、いまだ誕生していない人さえも指している。

このことが理解されると、真の意味で私というものが成立するのだ。私はこの私だけであるが、誰でも、私であるという同期性や一体性自己の覚醒なのだ。

表現を変えれば、本来は何も無い自分であるが、背後には大いなる生命の流れが有ることを知るのが大意です。

有ると無しの差別、有無の二元対立が人間の不安の根源であり煩悩なのだ。「有無を言わず」という日本語は、ここが出所なのだ。

禅の指導者は、修行者に「有無を言わず直ちに煩悩を断て」と迫るのだ。
 私自身若き日、父親の死に際し自分の実存に悩んだ。宗助と同じ鎌倉の円覚寺に座った。私自身もこの公案が解けず、結果仕事をやめ静岡に帰り自営業の世界に転身した。

その後自営業の傍ら、京都に何度か通い、すわるという体験と知識としての哲学の一致をこころみ、やがて、近代禅と知識の一致を目指す、FAS協会の一員となった。
そうこうして居るうちに、私は禅というものの最低限の理解を得てきました。

禅は人間の心の追求です。単にいえば、哲学もそうでしょう。
大きな違いは禅は直観であり、哲学は知識であるということです。

禅は知識を遠ざけます。知識以前の直観を大事とします。

自己の実存に悩む人は、哲学書を読みます。生きるという基本である人生に悩み、自分の考えやマインドを変えたい、成功したいと思って勉強しますが、禅は考えを放棄し、座るというところに発展があります。

最初は、心を集中させ哲学の様に言語で突破を試みますが、禅では、所詮そこを突破できません。
心というものを言葉で分析し、抽象化定義化するのが、哲学ですが、禅は分析ではなく、集中です。

日常性の中では考えもなくやり過ごしていた、当たり前のことを疑いぬいていきます。
当たり前ではないことが、自己の前に現れてきます。ですから世間一般言われる禅というものが、問題にするのは、決して訳の分からないことや、自分の縁のないことではなくて、極めて身近なことの問題提起なのです。

例えば直角三角形の定理です。内角の和は180度、この定理を、私達には見ることが出来ないが、そうであることを私たちは直感で理解します。この直感の理解が、ぜんの悟りと共通します。

自然現象の背後に数学的な法則が内在していることに気がつき、万物の根源として、初めて数学という「観念的な存在」の気づきがあるのです。
見えないものは「有る無し」的には無いのです。何故定理や法則が存在すると分かるのだろうか。それは個別的に存在するものの動きや変化によって、あるいはそれを通して現れるからである。

つまり法則は個別的具体的な諸々の現象を通して現れるもので、そうであるならば、定理法則は存在しながら存在しないという矛盾的なものといえるのです。私の肉体が存在する、有ると自覚できるのは、自分がその空間に維持されているということです。そのことは時間的に持続し、空間的に一つの場を占めることを意味します。ところが法則は時間的空間的な場を占める諸々の存在するものを通して自らを現わすが、それ自身は空間的にも時間的にも限定されない。つまり法則は空間のある一点を占めることはないし、時間的な持続性ももたないのです。

自然法則は、 宇宙のあらゆる所で作用する。ということは、法則は空間的に限定されていないことを意味します。

また時間的持続性を持たない。それ故に法則は時間と空間のように、存在するものを包み込むが、それ自身が存在するとは言えないのです。

時間と空間が存在するものの可能性を与えるように、法則も同様に存在するものに存在する 可能性を与える。

つまり存在するものは法則に従って存在するのである。
だから法則それ自身は存在するのではなくて、存在するものに、それらが存在することの可能性を与えるのです。禅ではこれらを、無が有を包み込む、無だからこそ有と表現し、包むものと包まれるものが一体だからこの世界があるとするのです。このように物の有り様をみれば、矛盾的同一てきで、片方だけ見て全体を知ることが出来ないのです。

禅では「有無同然」の自覚を悟りとするのです。相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまい、対立矛盾の迷い・苦しみを残すのです。
西洋の基本的認識、弁証法はこのような問題を完全には解決できないのだろうと私的には、考えます。

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