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#23 最大規模の藩校 弘道館(茨城県水戸市)

弘道館は、水戸藩徳川斉昭(9代藩主、烈公)肝いりで1841年に創設された藩校。藩校としては最大規模であったが、弘道館の戦い(1868)で文館、武館、医学館を失い、空襲(1945)で鹿島神社、孔子廟、八卦堂が消失。

創建時から現存する正門、正庁、至善堂が重要文化財(1964)に指定されている。至善堂は徳川慶喜が幼い頃に学び、大政奉還の後、恭順謹慎生活を送った場所でもある。

弘道館建学の精神

弘道館は藩政改革の重要施策(学校の義)として開設された。1838年の「弘道館記」では建学の精神として「神儒一致」、「忠孝一致」、「文武一致」、「学問・事業一致」、「治教一致」の原則が示されている。

「弘道」(みちをひろむ)とは「子日人能弘道非道弘人」(論語 衛霊公篇)に由来がある。弘道館では藩士とその子弟が学び、入学は15歳、生涯学習の観点から卒業はなく、40歳以上の通学は任意とされたらしい。

当時は最大規模の藩校であり、儒学だけでなく、医学、兵学、武芸など実用的な科目も備えており、総合大学のような位置付けともいえる。

至善堂

藩主の休息所でもあった至善堂は、徳川慶喜が大政奉還後に恭順謹慎生活を送った場所でもある。至善堂の床の間には、父・徳川斉昭の和歌が飾られている。

ゆくすへも ふみなたかへそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける
(徳川斉昭)
大意:日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏み違えることがあってはならない

徳川斉昭の藩政改革

徳川斉昭の藩政改革は、主に以下の取り組みが有名だ。
・経界の義:藩領の検地と古い習慣の刷新
・土着の義:家臣を領内に土着させ武備の充実を図る
・学校の義:藩校(弘道館)、郷校の建設
・惣交代の義:家臣の一部が江戸に常駐する定府制の廃止

しかし、改革は幕府から睨まれ、1844年に隠居、謹慎の処分を受ける。幕府命令により藤田東湖ら改革推進派も処罰を受け失脚する。幕府の詰問では問題として7点列挙されているが、特に廃物思想が色濃い寺社改革が警戒されたようだ。

1849年には水戸藩政への参与が許され、ペリー来航を機に幕府の海防参与、政務参与となるが、1857年には攘夷論が警戒され、免ぜられる。この間、水戸藩では軍備の充実、農兵の設置、反射炉の建設、郷校の増設などが進んだという。

弘道館の関連人物としては、豊田天功(彰考館総裁、中興新書、北島志)、青山延光(教授頭取、国史紀事本末など)、会沢正志斎(学校造営掛、新論」、藤田東湖、武田耕雲斎など。

尚、明治5年の「学制」発布により弘道館は役目を終えた。32年目で閉鎖された後は、県庁舎や学校の仮校舎として使用された。


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