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「想像の共同体」を読んで歩く神奈川県 ①「黒船来航」はおかしくないか?

「他人事」だったナショナリズム
 私がナショナリズムという「得体のしれないもの」に関心を持ったのは、1990年代半ばに中国、朝鮮、ロシアの国境の町に二年半ほど滞在していた頃にさかのぼる。そのころ漢民族と朝鮮民族に囲まれてお互いの民族意識や国家間にことあるごとにぶつかりはしたが、ノンポリの自分自身は彼らの民族や国家に持つ熱い思いについていけず、いや、ついていく気もなく、ただあっけにとられて彼らの「愛国心」めいたものの「高みの見物」をしていたというのが正直なところだ。
 帰国後、日中両国の狭間に置かれた中国残留孤児のお世話に中途半端にかかわったかと思えば、米軍のヘリポート基地移設問題で沸き立つ名護に住んだりして、ようやく「ナショナリズム」というものが日本にも存在し、それにとらわれる、または乗り越える人が自分自身の周りで少なくなかったことに気づくに至った。そんなときに読んだのが政治学者ベネディクト・アンダーソンの名著、「想像の共同体」だった。
 英国人、厳密にはアイルランド系の父とアングロサクソン系の母のもとに、日中戦争中の中華民国雲南省昆明で生まれ、1950年代に英ケンブリッジおよび米コーネル大学で学んだあと、フィールドワークを60年代のインドネシアで行った彼にとって、「国民」とは、「国家」とは、そしてナショナリズムは他人事だったのか、我が事だったのだろうかが気になった。本書のなかで彼は19世紀フランスの思想家ルナンの言葉を引用している。
「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある。」
また、戦後フランスのナショナリズム研究を牽引してきたゲルナーの次の言葉を引用している。
「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。」
 これらの引用はアンダーソンの国民論、ナショナリズム論の根底に流れるものであり、同時に90年代の東アジアの国民やナショナリズムの間をさまよってきた自分自身を振り返り、はたと膝を打つものでもあった。
 しかし思えば90年代という時代は「日本人」の多くが国民やナショナリズムについて考えなくてもよい、なんとものんきな時代最後の時代でもあった。ナショナリズムは2000年代になって中韓が本格的に勃興してくることにより、「日本国民」のアジアにおける地位が脅かされつつあると認識するに至り、急速に広まっていったからだ。
 今回の旅は「想像の共同体」をひも解きながら横須賀、横浜、川崎、鎌倉を中心とした神奈川県を歩いてみたい。そこは日本のナショナリズムを考えるにあたり実に興味深い場所だと思ったからである。

浦賀ー「来航」「開国」でいいのか?
 JR横須賀線の行き止まり、久里浜駅で降りた。川沿いの住宅街を歩くにつれ、ほほに潮風を感じてくる。太平洋が見えるところで「開国橋」を渡った。「開国」といえば、浦賀市民の夏の最大の楽しみは「開国祭」の花火大会という。まるでめでたいことのようにとらえているようだが、改めて目の前の湾に四隻もの「招かざる客」が大砲を積んで浮かんでいたことを想像すると、やはり感じるのは脅威でしかない。日本を開国させた黒船「来航」は、どう割り引いて考えても「侵入」と呼ぶべきであろう。
 ちなみに「開国」とはいっても、翌年締結した日米和親条約ではただ下田港・箱館港のみにおいて米国船に停泊を許可したり、人命救助や薪水の供与を確認しただけであり、交易は認めていない。これで幕府が「開国」した、というのならば長崎の出島でオランダと交易をし、唐人屋敷で清国商人と交易をしていたときのほうがより「開国」といえるのではなかろうか。
 久里浜海岸にはその名も「黒船食堂」なる大衆食堂と「黒船釣具店」まであった。黒船=外国艦隊という図式は浮かんでこない。そしてそのすぐ近くにはバーベキューに興じる市民の憩いの場、ペリー公園だ。例えば中国や韓国で、外国の戦艦が上陸した土地を「記念公園」にする際は、祖国のために立ち上がった人々を顕彰し、危機感をあおる「愛国教育」に結び付け結び付けがちだ。
 しかしここでは公園の中心にある巨大な「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」がそびえている。この表現をみると、外国艦隊に対する日本と他の東アジアの温度差のギャップに思わずクラッときた。ここはのんきだ。いかにも家族でバーベキューを楽しむのに最適だ。ただ、公園の主人公がペリーであることに違和感を覚えずにはいられない。
 公園の片隅にはペリー記念館がある。ここではペリーの視点のみで「来航」の舞台となったこの地が紹介されており、幕府側がいかにして迎え撃ったかという「ドラマ」は脇に追いやられている。例えばペリーとの交渉で活躍した儒者、林大学頭復斎の相手に物おじしない交渉力や論理性、あるいはおそらく日本で初めて英語を学んだといわれた長崎出身のオランダ語通詞、堀達之助の交渉通訳業務など、国際交渉や語学に関心のある私には極めて興味深いのだが、そのような「日本の」視点からあの事件を扱う見方はここには見つからなかった。

尊王攘夷は付け焼刃のナショナリズムだったのか
 ナショナリズムを遠ざけがちな私だが、ナショナリズムにがんじがらめとなった東亜を周遊して戻ってくると、やはりこの空間も異様に思えてくる。「想像の共同体」には次のような文がある。
「帝国の中枢に、ハンガリー人、英国人、日本人という国民が生まれつつあったのも事実だった。そしてこれらの国民は、本能的に、「外国」支配に抵抗した。」
 「黒船来航」当時は世界各地でナショナリズムが芽生えつつあり、日本でもすでに「水戸学」という名の国産ナショナリズムが「尊王攘夷」を唱えていた。しかしアンダーソンは帝国主義国のもつこのようなイデオロギーを「付け焼刃」としてしか見ていない。彼はこう続ける。
「こうして、1850年代以降の帝国主義イデオロギーは、典型的に、手品のトリックのような性格をもつことになった。それがどれほど手品のトリックでしかなかったか、それは本国の庶民階級が、植民地の「喪失」をーアルジェリアのごとく本国に法的に併合されていた植民地においてすらー最終的に、しょうがないとちょっと肩をすくめてそれで簡単にあきらめてしまった、その冷静さによって示されている。」
 「尊王攘夷」のような観念上のナショナリズムではなく、軍艦という目に見える脅威として目の前に立ちはだかったものに対する現実的なナショナリズムはこの浦賀から始まったのだろう。厳密にいえば「黒船事件」以前にも1837年には漂流した日本人を送還に来た米国のモリソン号に対して発砲した場所の一つもこの浦賀だったし、1846年にもビッドルの乗り込んだ米国船がやってきた。しかし彼らは大砲をちらつかせたわけではなかったからか、尊王攘夷に広がることはなかった。
 ペリーに大砲をつけられてからようやく世界の現実に気づくと、列強の餌食にならないために不平等条約の改正交渉を外交目標とし、同時に対外戦争に突き進んでいった。その挙句が太平洋戦争の敗戦である。ペリー来航から敗戦までの約90年で、日本は朝鮮や台湾、南樺太に関東州、そして南洋、そして満洲まで植民地を「倍々ゲーム」で拡張していった。
 しかし本国に法的に併合されていた植民地においてすら、敗戦で喪失するにあたっては「あーあ、残念!」と執着のかけらもなく忘れてしまったのが「内地」の庶民たちではなかったか。そんな中途半端なナショナリズムだったから、地元でも「江戸湾侵入」を「来航」と呼び変え、三浦半島の付け根に当たる現横浜市の生麦では薩摩藩士が神奈川に駐留していた英国人を殺傷する生麦事件が起こるなど、尊王攘夷の嵐が吹き荒れたことは忘れられる。中韓はともかく、少なくとも日本でのナショナリズムはその程度だったことはこのことからも感じられる。(続)


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