通訳案内士試験道場

「行不由径」とは、道を歩むなら近道を選ばず、正攻法で歩め、という意味。 このnoteで…

通訳案内士試験道場

「行不由径」とは、道を歩むなら近道を選ばず、正攻法で歩め、という意味。 このnoteでは三百数十人の通訳案内士を輩出してきた英中韓通訳案内士の筆者が、歩いてきた各地の名所や土地を紹介します。 当試験の地理、歴史、一般常識対策の本筋は暗記より実際に書を読み歩きまとめることなのです。

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最近の記事

昔、女ありけり

1%の女たち  「昔、男ありけり」で始まる「伊勢物語」は、在原業平を主人公にした歌物語である。「源氏物語」が書かれる前の世紀から日本文化に大きな影響を与えてきた名作中の名作だが、作者は不明である。おそらく女性ではないかと感覚的には思うのだが、それすら知る手立てがない。ところで日本史の教科書に出てくる人物の99%は男性であり、女性は1%ほどではなかろうか。とはいえいつの世でも人口に占める女性の割合は半分ほどであったはずだ。今回は「昔、女ありけり」として日本を、そして日本史を「女

    • 「はだしのゲン」片手のダークツーリズム

      「はだしのゲン」は怖いもの見たさの肝試し?  子どものころ、我が家では「勉強しなくなるから」「部屋が散らかるから」「くだらないから」などという理由で漫画を買ってもらえなかった。テレビアニメはある程度見られたが、やはり漫画も見たかったが、たまにいく病院や歯科や理髪店でジャンプなどをめくるのがせいぜいだった。今思うと初めて第一巻から事実上の最終巻まで読み切ったのは学校の図書室においてあった唯一の漫画、「はだしのゲン」だった。  世界に知られる日本の漫画の中でも、日本での知名度は極

      • コメ二スト宣言ー旨いコメが喰いたい!

        「コメ二スト」  希代の美食家、北大路魯山人はいった。 「元来米というものはうまいものである。うまいものの極致は米なのである。うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。特にうまい米は、もうそれだけで充分で、ほかになにもいらなくなってしまう。」  言いえて妙だ。日本人は「コメ二スト」である。旨いコメが喰いたい!老若男女そう思っているはずだ。炊きたての新米に味噌汁、それにノリの佃煮や梅干し、納豆でもあれば充分に満足できる人の割合などという妙な国際統計(?)があったら、日本人

        • 「温泉教徒」の日本人 西日本編

          日本人の本当の宗教的感覚は「温泉教」?   通訳案内士として訪日客に接すると、彼我の違いをしばしば感じることがあるが、なかでも文化的なギャップとしてつくづく感じる場面が温泉である。彼らが神社仏閣や城郭庭園、いやそれ以上に和食を楽しむことは一般的であるが、温泉をこころから味わうことのできる訪日客は極めて少ない。日本人の多くにとって、温泉はチョイスではない。マストだ。しかし訪日客のマジョリティにとって、温泉は行っても行かなくてもいいところだ。日帰り入湯にゲストをお連れしようとして

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        • 日本のこころを訳す講座
          1本

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          大アジア主義の足跡をたどる ーもう一つの日中近代交流史の旅

          中国語の授業  毎週木曜日の夜は小学生の息子がオンラインで中国語を学ぶ日だ。時々聞き耳を立てる。声の小ささや消極的な授業参加を注意しそうになりながらもぐっとこらえ、書斎に入った。古本を眺めていると、1980年代半ばのNHK中国語講座のテキストをまとめて語学入門書とした「ニーハオ明明」が目に留まった。久しぶりに思わず手に取ってみた。懐かしい。そこには80年代、改革開放政策で急速な変化に戸惑いながらもたくましく前に進む中国の民衆の姿がつまっていた。  数えてみれば1985年、中国

          大アジア主義の足跡をたどる ーもう一つの日中近代交流史の旅

          伊勢神宮と神々ーつながりの尊さ

           伏見稲荷大社ー「こんな神社」に誰がした?  90年代の初め頃、私は京都と大阪の間の枚方市に住んでいた。大阪府民でありながら二駅で京都府という立地のため、京都市内の京阪沿線のバイト先を転々とするついでにあちこちの名所を回ったものだ。それらの中でも最も「変わってしまった」のは深草(現「龍谷大前深草」)駅から歩いてしばらく行ったところにある伏見稲荷大社である。現在は門前に伏見稲荷駅ができ近くなったとはいえ、ここを訪れるのは現在の私にとって苦行でしかない。あまりに多くの訪日客に圧倒

          伊勢神宮と神々ーつながりの尊さ

          富士山と神仏と国立公園

          「切手」が教えてくれた国立公園  私は日本の山々を歩いてきた。とはいえ、「日本百名山」のうちまともに「自力で登った」のは富士山や筑波山、大山、三瓶山等、わずか数か所で、またロープウェイや車で中腹まで登ったり、下から遥拝したものをふくめても半世紀で百か所中三分の一に過ぎない。一方で国立公園はというと、小笠原と尾瀬と利尻礼文サロベツを除き、九割がた訪れている。今回は国立公園として訪問者数が最多の富士箱根伊豆国立公園のうち、日本人のこころの山としてもあがめられる富士山その他の「郷土

          富士山と神仏と国立公園

          アンノン族に発見された小京都

          「小京都」とは?  日本には「小京都」と呼ばれる町が少なくとも数十ヵ所存在するらしく、私もこれまでそのうち半分以上回ってきたようだ。「ようだ」というのは、実はこの文章をまとめる段になってようやく「小京都」だったことに気づいた伊賀上野や、訪問した時には「小京都」だったが、そののちに全国の小京都が参加する「全国京都会議」から脱退した金沢や高山のような例もあるため、どこが小京都でどこが違うかというのは流動的だからだ。とはいえとりあえずは「小京都らしさ」を定義するために「全国京都会議

          アンノン族に発見された小京都

          全国八天守対決!

          日本のお城は三百、三千、それとも三万?  訪日客を城郭に案内する際、私は必ずクイズを出す。「日本には城郭が何か所あるでしょう?三百、三千、それとも三万?」これに対してゲーム感覚ながらも真剣に考えようとするのが訪日客。日本人はなぜか口をつぐむ。この問題を出すたび、「城郭」の定義もしないで何言ってんだと、自分自身の「確信犯的態度」が恥ずかしくなる。公益社団法人日本城郭協会という団体がある。私は中学時代に会員だったという城郭マニアだが、数えてみるとそこが選定した「100名城」のうち

          全国八天守対決!

          京都名園対決!

           私が庭の魅力に取りつかれたのはいつからだろうか。子どものころから庭を見て育ったが、特に精力的に庭園巡りを始めたのは四十代になってからだと思う。庭の勉強を始めてまず気づいたのが、結局日本の庭は「京都の庭」と「それ以外の庭」に二分化されるという事実だ。逆にいえば日本の庭の「標準」は京都にあるとされる。となると天邪鬼の私はあえて京都を避けて地方の庭を巡ってきた。しかし京都の庭はクオリティも高く、そもそも数が極めて多いということは言うまでもなく、この「物量戦」に勝てる庭園都市など他

          「想像の共同体」を読んで歩く神奈川県

          「他人事」だったナショナリズム  私がナショナリズムという「得体のしれないもの」に関心を持ったのは、1990年代半ばに中国、朝鮮、ロシアの国境の町に二年半ほど滞在していた頃にさかのぼる。そのころ漢民族と朝鮮民族に囲まれてお互いの民族意識や国家間にことあるごとにぶつかりはしたが、「ノンポリ」の自分自身は彼らの民族や国家に持つ熱い思いについていけず、いや、ついていく気もなく、ただあっけにとられて彼らの「愛国心」めいたものの「高みの見物」をしていたというのが正直なところだ。  帰国

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          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          なぜ戦国の東海道か  子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。  関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり、活躍してきた場でもある。その中でも大河ドラマの原作者として六回も名を連ねる司馬

          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          大坂城で見た司馬さんの思い

          秀吉ですら勝てなかった「世間の空気」  大坂城へ向かう。一般的にこの城は太閤秀吉の城ということになってはいるが、私も城郭マニアの端くれである。ここはそもそも本願寺の一向宗が一世紀にわたって立てこもり、信長が天下に号令する大本営として狙いを定めたが十年攻撃しても落とせず、交渉の結果出て行ってもらった場所であることぐらいは十代のころから知っていた。しかし信長はすでに安土城を建造中だったうえに本能寺の変で倒れたため、秀吉がわずか二年で建造し、世界最大規模の城郭となった。とはいえ秀吉

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          小牧・長久手の戦い

          「資本主義社会の光」を知ってしまった農民、石川数正  ここで尾張人秀吉と三河人家康の間に立ち、苦悩した人物のことを書き記すべきだろう。その名は家康に幼いころから仕えてきた三河人、石川数正である。彼の名はおそらく日本史の教科書には出てこないだろう。彼だけでなく家康の側近で時代劇には出てきても日本史には名を残さない人物は少なくない。これについて司馬さんはこう述べている。 「家康がつくりあげた家風の最大の特徴は、その家臣どもの知名度がきわめて低いことである。実質を離れて名ばかりが華

          小牧・長久手の戦い

          本能寺の変と三人の動き

          本能寺の変が起こった場所はどこか  安土で家康を接待する饗応係としての光秀はすぐにお役御免となった。中国地方の毛利を攻める先鋒隊として送られていた秀吉からSOSがきたため、援軍の将として派遣されることになったからだ。その後を追うようにして信長は京都にむかい本能寺に逗留した。これについて司馬さんはこう述べている。 「信長自身は、つねに寺で泊まった。(中略)信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のため

          本能寺の変と三人の動き

          豪華絢爛安土城 

          まっすぐな石畳の安土城  初めて安土城跡を訪れたときは18歳、自転車で関西を放浪しているときだった。夕暮れ時に安土につき、そのまま城跡で野宿をした。翌朝早く城跡を散策したのだが、当時はまだ「城郭リテラシー」がさほど高くなかったのか、小6のころから憧れてきた人物の墓参りを済ませたことぐらいしか覚えていない。  それから四半世紀ほど過ぎ、旅友たちと連れだってこの城を再訪した。その間、標高200m弱の山全体が特別史跡公園として整備され、生まれ変わっていた。城としての建造物が皆無であ

          豪華絢爛安土城