通訳案内士試験道場

「行不由径」とは、道を歩むなら近道を選ばず、正攻法で歩め、という意味。 このnoteで…

通訳案内士試験道場

「行不由径」とは、道を歩むなら近道を選ばず、正攻法で歩め、という意味。 このnoteでは三百数十人の通訳案内士を輩出してきた英中韓通訳案内士の筆者が、歩いてきた各地の名所や土地を紹介します。 当試験の地理、歴史、一般常識対策の本筋は暗記より実際に書を読み歩きまとめることなのです。

マガジン

最近の記事

アンノン族に発見された小京都

「小京都」とは?  日本には「小京都」と呼ばれる町が少なくとも数十ヵ所存在するらしく、私もこれまでそのうち半分以上回ってきたようだ。「ようだ」というのは、実はこの文章をまとめる段になってようやく「小京都」だったことに気づいた伊賀上野や、訪問した時には「小京都」だったが、そののちに全国の小京都が参加する「全国京都会議」から脱退した金沢や高山のような例もあるため、どこが小京都でどこが違うかというのは流動的だからだ。とはいえとりあえずは「小京都らしさ」を定義するために「全国京都会議

    • 全国八天守対決!

      日本のお城は三百、三千、それとも三万?  訪日客を城郭に案内する際、私は必ずクイズを出す。「日本には城郭が何か所あるでしょう?三百、三千、それとも三万?」これに対してゲーム感覚ながらも真剣に考えようとするのが訪日客。日本人はなぜか口をつぐむ。この問題を出すたび、「城郭」の定義もしないで何言ってんだと、自分自身の「確信犯的態度」が恥ずかしくなる。公益社団法人日本城郭協会という団体がある。私は中学時代に会員だったという城郭マニアだが、数えてみるとそこが選定した「100名城」のうち

      • 京都名園対決!

         私が庭の魅力に取りつかれたのはいつからだろうか。子どものころから庭を見て育ったが、特に精力的に庭園巡りを始めたのは四十代になってからだと思う。庭の勉強を始めてまず気づいたのが、結局日本の庭は「京都の庭」と「それ以外の庭」に二分化されるという事実だ。逆にいえば日本の庭の「標準」は京都にあるとされる。となると天邪鬼の私はあえて京都を避けて地方の庭を巡ってきた。しかし京都の庭はクオリティも高く、そもそも数が極めて多いということは言うまでもなく、この「物量戦」に勝てる庭園都市など他

        • 「想像の共同体」を読んで歩く神奈川県

          「他人事」だったナショナリズム  私がナショナリズムという「得体のしれないもの」に関心を持ったのは、1990年代半ばに中国、朝鮮、ロシアの国境の町に二年半ほど滞在していた頃にさかのぼる。そのころ漢民族と朝鮮民族に囲まれてお互いの民族意識や国家間にことあるごとにぶつかりはしたが、「ノンポリ」の自分自身は彼らの民族や国家に持つ熱い思いについていけず、いや、ついていく気もなく、ただあっけにとられて彼らの「愛国心」めいたものの「高みの見物」をしていたというのが正直なところだ。  帰国

        アンノン族に発見された小京都

        マガジン

        • 日本のこころを訳す講座
          1本

        記事

          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          なぜ戦国の東海道か  子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。  関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり、活躍してきた場でもある。その中でも大河ドラマの原作者として六回も名を連ねる司馬

          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          大坂城で見た司馬さんの思い

          秀吉ですら勝てなかった「世間の空気」  大坂城へ向かう。一般的にこの城は太閤秀吉の城ということになってはいるが、私も城郭マニアの端くれである。ここはそもそも本願寺の一向宗が一世紀にわたって立てこもり、信長が天下に号令する大本営として狙いを定めたが十年攻撃しても落とせず、交渉の結果出て行ってもらった場所であることぐらいは十代のころから知っていた。しかし信長はすでに安土城を建造中だったうえに本能寺の変で倒れたため、秀吉がわずか二年で建造し、世界最大規模の城郭となった。とはいえ秀吉

          大坂城で見た司馬さんの思い

          小牧・長久手の戦い

          「資本主義社会の光」を知ってしまった農民、石川数正  ここで尾張人秀吉と三河人家康の間に立ち、苦悩した人物のことを書き記すべきだろう。その名は家康に幼いころから仕えてきた三河人、石川数正である。彼の名はおそらく日本史の教科書には出てこないだろう。彼だけでなく家康の側近で時代劇には出てきても日本史には名を残さない人物は少なくない。これについて司馬さんはこう述べている。 「家康がつくりあげた家風の最大の特徴は、その家臣どもの知名度がきわめて低いことである。実質を離れて名ばかりが華

          小牧・長久手の戦い

          本能寺の変と三人の動き

          本能寺の変が起こった場所はどこか  安土で家康を接待する饗応係としての光秀はすぐにお役御免となった。中国地方の毛利を攻める先鋒隊として送られていた秀吉からSOSがきたため、援軍の将として派遣されることになったからだ。その後を追うようにして信長は京都にむかい本能寺に逗留した。これについて司馬さんはこう述べている。 「信長自身は、つねに寺で泊まった。(中略)信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のため

          本能寺の変と三人の動き

          豪華絢爛安土城 

          まっすぐな石畳の安土城  初めて安土城跡を訪れたときは18歳、自転車で関西を放浪しているときだった。夕暮れ時に安土につき、そのまま城跡で野宿をした。翌朝早く城跡を散策したのだが、当時はまだ「城郭リテラシー」がさほど高くなかったのか、小6のころから憧れてきた人物の墓参りを済ませたことぐらいしか覚えていない。  それから四半世紀ほど過ぎ、旅友たちと連れだってこの城を再訪した。その間、標高200m弱の山全体が特別史跡公園として整備され、生まれ変わっていた。城としての建造物が皆無であ

          豪華絢爛安土城 

          一乗谷:義景と光秀と義昭と信長の交差点

          一乗谷の衝撃  ここでしばらく東海道を離れて、北陸は越前一乗谷を歩いてみたい。一乗谷は朝倉氏の城下町であり、都の没落貴族たちを招聘して街並みを貴族風に改めた「元祖小京都」の一つと言えよう。このようなタイプの「小京都系城下町」は他にも今川氏の駿府や大内氏の山口などもあるが、現在街並みが200mにわたって推定復元されたところといえば一乗谷しかない。  白山西麓の静かな町である。2kmほどの細長い谷間に大きくはない川が流れている。城戸(きど)を通り過ぎ、しばらく進むと左岸に昔の街並

          一乗谷:義景と光秀と義昭と信長の交差点

          実直なモノづくりの町、浜松と家康

          「出世大名家康くん」の銅像  浜松駅を歩いていると、小さな金色の銅像を見つけた。浜松市のゆるキャラ「出世大名家康くん」の像である。それにしても小さい。90センチの台座にわずか60センチ、つまりぬいぐるみサイズである。大名の銅像がこのような形で据えられている例も珍しいが、出来栄えは岐阜駅前の信長とは比較にならない。そもそも「家康」に「くん」をつける時点で権威はなく、親しみのみ感じさせる。  「出世大名」とはなにか。浜松城を経て将軍になった家康は別格だが、例えば天保の改革を指揮し

          実直なモノづくりの町、浜松と家康

          岐阜から上洛した信長

          秀吉と竹中半兵衛「七顧の礼」  信長の美濃攻めで活躍した秀吉が、美濃の軍師竹中半兵衛をリクルートしたことについて、司馬さんはこのように述べている。 「あの男をわが家来にしたい」といってそのころすでに織田家の武将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのはこのあとである。藤吉郎は(中略)六度とも半兵衛にことわられた。信長の直臣になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。  繰り返しになるが秀吉の発想は、自分は「(株)織田信長」の正

          岐阜から上洛した信長

          名古屋の「アク」が生んだ近世桃山文化

          秀吉と尾張中村  新幹線からJRセントラルタワーが見えてくると、じき名駅(めいえき)すなわち名古屋駅についた。駅の西側が太閤通り口である。さっそくこの町の生んだ英雄、秀吉に関わる通りを目にすることになった。この通りを西に2㎞あまり進み、中村公園駅で北を目指すと、中村公園につく。「尾張中村」というのは秀吉が「日吉丸」時代に育った故郷ということは小6のころから伝記を読んで知っていたので何やら懐かしい。公園内には名古屋市秀吉清正記念館がある。そう、中村は加藤清正の故郷でもあったのだ

          名古屋の「アク」が生んだ近世桃山文化

          日本人気質のルーツ(?)三河人気質

          三河・岡崎城  桶狭間の戦いで今川義元が雑兵に討たれると、今川家の人質となっていた松平元康、すなわち家康は悩みに悩んだ。今川家を見限り織田家につくかどうかという選択である。それまでの三河衆の今川家に対する健気なまでの尽力は特筆すべきなのだろう。司馬さんは家康の家来たちの口を借りて三河衆の心境をこう書いている。 「このように今川のために死働きしてさえおれば、今川家のほうでもやがて我等に同情し、我等を信頼するようになり、ひいては駿府に構われてござる竹千代(家康)様を返してくれるに

          日本人気質のルーツ(?)三河人気質

          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          なぜ戦国の東海道か  子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。  関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり、活躍してきた場でもある。その中でも大河ドラマの原作者として六回も名を連ねる司馬

          司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

          レヴィ・ストロースと歩く日本と構造主義

          神田カルチェラタン 神田神保町の古書店街を歩くのは学生時代から好きだった。平成前半のころは上京するたびにまる一日リュックを担いでこの町を歩き、それぞれ個性的な本屋を歩きながらお目当ての一冊を渉猟して歩いたものだ。古本屋は店によって「匂い」が異なるのが面白かった。私は当時おもに中国や朝鮮や言語学に関する本を物色してこの町を「徘徊」していたが、東アジア関連の書店は若干店内のにおいが異なるのは感じ取れた。  たまには新鮮な分野の書店でも入ってみようと、何気なく現代思想関連の書店

          レヴィ・ストロースと歩く日本と構造主義