見出し画像

「温泉教徒」の日本人 西日本編

日本人の本当の宗教的感覚は「温泉教」?
  通訳案内士として訪日客に接すると、彼我の違いをしばしば感じることがあるが、なかでも文化的なギャップとしてつくづく感じる場面が温泉である。彼らが神社仏閣や城郭庭園、いやそれ以上に和食を楽しむことは一般的であるが、温泉をこころから味わうことのできる訪日客は極めて少ない。日本人の多くにとって、温泉はチョイスではない。マストだ。しかし訪日客のマジョリティにとって、温泉は行っても行かなくてもいいところだ。日帰り入湯にゲストをお連れしようとしていたが、現地についてから「やっぱりいい。ホテルにスパがあるし。」とか言われたのも一度や二度ではない。さらには「シャワーがあれば温泉はいらない」と言われたことすらある。訪日客にとって温泉とは風呂の一種に過ぎないようだ。「菊と刀」の著者、ルース・ベネディクトはこう述べている。
「日本人の最も好むささやかな肉体的快楽の一つは温浴である。どんなに貧乏な百姓でも、またどんなに賤しいしもべでも、富裕な貴族と全く変わりなく、毎日夕方に、非常に熱く沸かした湯につかることを日課の一つにしている。(中略)彼らが毎日入浴するのは、アメリカと同じように清潔のためでもあるが、なおそのほかに、世界の他の国ぐにの入浴の習慣には類例を見いだすことの困難な、一種の手動的な耽溺の芸術としての価値をおいている。」
 彼女は日本人にとって温泉とは芸術に浸ることとみている。しかし私はもう一歩踏み込んで考える。我々のなかには「刷り込み」がある。温泉は単なる風呂ではない。ましてシャワーとは比べられない。体をきれいに保つのは「従」であって「主」ではない。それでは「主」とは何か。それは「宗教的感覚」だ。もっと言うなら、訪日客から「日本人の宗教は仏教か、神道か?」などというステレオタイプの質問をしばしば受けるが、国内の温泉につかるにつれ、私たちの多くが仏教や神道以上にこころから解きほぐされ、癒しを求めるのは温泉であると思うようになってきた。今回はこれまで湯浴みをしてきた西日本の温泉での思い出をつづりながら、日本人が「温泉教徒」であることを証明していきたいと思う。

道後の湯ー大国主と少彦名と白鷺
 俗に「三古湯」という言い方がある。道後温泉、有馬温泉、白浜温泉を指してこのようにいうようだが、中でも長男級の「最古の湯」とされるのが道後の湯である。それはまず、現存する日本最古(701年)の歴史書「古事記」に「温泉郡(ゆのこほり)」として記載されているからである。ちなみに「温泉」という地名でいうなら島原半島の「雲仙」などは、「おんせん」がなまって「うんせん→うんぜん」となったらしい。「温泉」という表記を地名につけたのはこのほかにも多数あることから、日本が昔から「温泉大国」だったことが分かる
 その他「伊予国風土記」によると国づくりをするため東奔西走していた出雲のオオナムチ(=本大国主命)とスクナビコナ(少彦名命)の「凸凹コンビ」が伊予国に立ち寄ったところ、少彦名が病に倒れ、それを大国主命がお湯で温めて蘇生させたということから「薬の湯」と呼ばれるようになったという。ちなみにオオナムチ(以降、本稿では便宜上「大国主命」とする)というとサメに皮をはぎ取られたウサギをガマの穂で治す「因幡の白兎」伝説が知られることから、「医療の神」とみなされるようになった。また、こうした「開湯伝説」にしばしば出てくるのが、神々が見つけたというものであるが、ここはその代表格といえる。
 道後温泉と聞くと立派な木造の本館がこの温泉地の全てをになっているように見えるが、いわゆる「温泉情緒」を感じさせる古風なまちなみはここにはほぼない。ただ歩いてみると本館裏手に湯神社がある。ここは主な祭神を大国主命と少彦名命とし、その他出雲系の神々も祭られている。みなが温泉の不思議な力に神を感じてきた。これぞ我々が温泉教徒たるゆえんである
 一方、道後の湯のシンボル、道後温泉本館の屋根には鳥が羽ばたく像があがっているが、神々の開湯伝説とは別に、傷ついた白鷺がここで自噴している湯に足をつけて治しているのを村人がみたからという伝説もある。白い鳥獣が傷を治したという開湯伝説は、他にも和倉温泉や、私の実家島根県安来市にも全く同じ伝説を持つ、その名も白鷺温泉があるし、山口市の湯田温泉では白狐伝説が残っている。

お風呂に入る時ゃみな裸♪
  道後温泉には市営の浴場が他にも二か所ある。天平風の鴟尾(しび)と夢殿風の飾りを屋根に乗せた飛鳥乃温泉と、戦後完成し、2017年にリニューアルオープンした椿の湯である。596年、聖徳太子が高句麗の僧恵慈(えじ)らとともに来浴し、その時椿が美しく生い茂っていたからそれぞれ「飛鳥乃温泉(あすかのゆ)」「椿の湯」と名づけられたという。その他、斉明天皇や中大兄皇子、額田王なども湯浴みした。「飛鳥乃温泉」の名に恥じない。
 しかし一つ引っかかる点がある。飛鳥時代から皇室との関係があったからか、本館には「又新(ゆうしん)殿」という皇室御用達の湯殿がある。そして松山藩の管理下にあった江戸時代においては「賤民」とされた人々やハンセン病患者の浴場が椿の湯あたりにあったはずだ。日本の温泉の誇る点は、まさにこの点である。同じ浴室ではないし、「下々の者」や「病人」は残り湯であったり牛馬とともにつかっていたことはいうまでもない。しかしそれでも同じ源泉の湯を、身分の貴賤にかかわらずつかる、大らかな「デモクラシー」がここには感じられるのだ。
 「お殿さまでも家来でも お風呂に入る時ゃみな裸 裃脱いで刀も捨てて 歌のひとつも浮かれ出る♪」というお風呂での定番ソングを思い出す。これは温泉教の「讃美歌」である。実にのびやかだ。司馬遼太郎は松山のまちを「すべてが駘蕩(たいとう)としている」と評した。うららかな春の日のようにのびやかな雰囲気という意味だ。言いえて妙である。この人々への分け隔ての「ゆるさ」がどこから来たのだろうか。
 中世には湯築城のあった道後公園には「湯釜」という、1894年まで使用されていた釜のモニュメントがあり、宝珠には一遍上人の「南無阿弥陀仏」という書と、薬師如来像が彫られている。これは「湯釜薬師」として崇拝されてきたが、もしかしたら一遍が広めた時宗の、貴賤を越えて念仏踊りをすることで極楽往生をとげようという思いがこの地に根付いていたからだろうか。なんせ一遍の出身地はここのすぐ裏手である。
 
温泉レジャーと聖地巡礼のはしりとしての「坊っちゃん」
 ところで道後温泉というとやはり「坊っちゃん」である。作品のエピソードとして有名なものの一つに、この温泉(作品中では「住田の温泉」)を気に入った江戸っ子教師坊っちゃんが湯船で泳ぎ、それを誰かに見られてしまい、翌日教室の黒板に「坊っちゃん泳ぐべからず」と書かれてしまったというものがあるが、それにちなんで浴室の壁にも「坊っちゃん泳ぐべからず」の木札がかけられているのにクスっとする。近代における「聖地巡礼」の場といえよう。 
 「聖地巡礼」に欠かせないのがラッピングバスや電車であるが、こここそその元祖である。観光用の坊っちゃん列車で松山から温泉に向かえるからだ。近代の温泉には公共交通手段がつきもの。ここは1895年、松山の外港だった三津浜・松山から延伸された。当時の汽車を模したものであるが、温泉地と市の中心部や交通の中枢をむすぶのは近代の温泉のあり方としては実によくあるパターンだ。梅田から宝塚温泉、新宿から箱根、米子から皆生温泉、花巻から花巻温泉までなど、枚挙にいとまがないのだが、これらはみな大正デモクラシーを通して温泉地を中産階級のレジャーとして造り変えたことに起因する
 その走りともいえる伊予鉄道は、ここが単なる伝統的な湯治場ではなく、レジャーランドとしての第一歩を踏み出すことを予見していたかのようだ。坊っちゃんの入浴の目的は湯治ではない。あくまでレジャーである。曰く「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈(だけ)は立派なものだ。」松山に批判的だった坊っちゃんが唯一認めたレジャー施設であることがここからも分かる。
 そしてこれが明治末期に始まり昭和には消えていく「温泉文学」のはしりであることは言うまでもない。そしてその温泉文学の基礎を築いたのが漱石の盟友の道後人、正岡子規である。地元民でありながら、帰省中に江戸っ子の漱石の下宿に転がり込んだ彼は、漱石の俳句の師匠となった。彼らの共同生活は近代日本文学史のなかでも大切な52日間だった。道後公園の彼の記念館の前には後に東京で闘病生活をしていたときに詠んだ歌碑が迎えてくれる。
「足なへの病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな鷺にあらませば」。
ふるさとの湯に心身ともに癒されたくても叶わぬ「温泉っ子」の思いが痛いほど伝わってくる。

敵兵も、放浪の俳人も…「かるみ」の湯
 それにしても立派な本館の建物だが、道後温泉は1889年道後湯之町が発足して町有温泉になった。不動産を所有する地元の人々に対しては無料で本館に入浴できる永代終身優待券を発行することで地元の協力と理解を得て、高級石材を多用した木造三階の温泉建築が完成した。漱石が松山に滞在していたのはちょうど本館ができて間もない1895年である。ちなみに彼がこの作品を執筆していたころは10年後の日露戦争中であった。そのころの道後の湯は軍の転地療養所となったが、なんとそこに敵方のロシア兵の入浴をも許していた。敵も味方も関係なく湯浴みをする。しかも後には自由外出はおろか、道後の花街への出入りも許された。なんたるパラダイスであろうか。亡くなったら松山城の北側の山裾のロシア兵墓地に埋葬され、今なお市民により供養されている。そのような「ゆるい」松山の空気を念頭に「坊っちゃん」は執筆されたのである。
  文学といえば、この町では俳句を詠む人口が多いそうで、毎年八月には「俳句甲子園」に挑む高校生たちがこの地に集う。正岡子規の弟子というと地元出身の親友同士だった河東碧梧桐や高浜虚子などがまず思い浮かぶが、1939年末に立ち寄ったこの地で十か月過ごし、この世を去った無季自由律俳句の放浪の俳人、種田山頭火の終焉の地でもある。おそらく全国の温泉で湯浴みをしたであろう彼の、道後で詠んだ句が残る。
「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし 」
「ほんにあたゝかく人も旅もお正月」
 孤独と自己卑下と周囲の無理解から脱し切り、素直な自分に戻ったかのような句だ。芭蕉はどんなにつらくてもたまに訪れる解きほぐされるような瞬間を、日常語で素直に句にするコンセプトを尊重した。それは「かるみ」と呼ばれるが、敵兵とも裸の付き合いをしてしまうのもこの「かるみ」の表れだろう。ちなみにさきのロシア兵墓地の近くに彼の終の棲家となった平屋が残されている。

源泉のメカニズムと集中管理の功罪
 ここまで宗教的、歴史的、文化的なことを述べてきたが、肝心な「温泉」としての道後についてはまだ何も述べていなかったが、まずは一般的な温泉のメカニズムについて見ていきたい。温泉が湧くには三つの条件が必要だ。それらは①地下水、②熱源、③地中から地上への通り道である。地下水は地中に蓄えられた雨水が多いが、熱源というとマグマがまず思い浮かぶ。しかしここの湯の地下にはマグマだまりはない。ここは「非火山性温泉」といい、地熱で温まったお湯が活断層の隙間を伝って上がってきたものだ。ちなみに地中の温度は100m下がるごとに約3度上がる。ここの18本の源泉は20度から55度というが、松山市の年間平均気温が16.5度ほどなので、20度の源泉ならば地下100mあまり、55度のものなら地下1300mほどのところからくみ上げていることになる。
 ところで私は普通より泉質にこだわるほうだ。温泉の成分分析表は必ず見る。公式HPによるとここはアルカリ性単純泉で18本の源泉を42度になるようにブレンドしたものという。いわゆる「源泉の集中管理」である。世の中には「源泉かけ流し原理主義者」のような温泉「狂徒」がいることを知ってはいる。そしてそうした人は、集中管理を嫌う癖がある。18本のお湯にはそれぞれの個性があるはずで、それを「ブレンド」という呼び方でマイルドに表現するものの、要するにそれぞれの源泉の個性を殺すことになると思えるからだ。私はそこまでではないが、やはりここのお湯につかると「無個性という個性」を感じる。それはこのいくつかの源泉が混ざって平準化したからなのかもしれない。
 しかし別の意味でここのお湯には残念な点がある。それは「源泉かけ流し」を高らかに謳ってはいるものの、2002年から松山市の条例によって公衆浴場全てに塩素消毒をすることを義務付けたのだ。事の発端は同年、宮崎県にできたばかりの公共の湯でレジオネラ菌により295名が観戦し、7名が死亡するという事件が起きたのだ。芋の子を洗うかのような混雑ぶりの道後の湯でもある程度安心してつかれるのは、それをふせぐための塩素消毒が施されているからだ。
 ただ「源泉かけ流し原理主義者」に言わせれば、源泉をいくつか掛け合わせた上に、塩素消毒をしてから配管するとなると、「源泉かけ流し」ではあっても実態は温泉のアイデンティティたるオリジナルな成分を殺したことになる。しかも公式HPではそれについては言及しない。温泉マニアのビギナーならばこれを額面通りに受け止めるに違いない。原理主義者でもなければビギナーでもない中途半端な私は考えてしまう。

「美人の湯」はどう訳す?
 塩素が強いと肌荒れするが、お湯から出て夜風に吹かれていると、そんなお湯でも肌が多少すべすべしているのに気づいた。ここのお湯のエネルギーは殺菌消毒にも負けていないのだ。改めてホームページで確認すると、ここは「美人の湯」とも言われているらしい。ここでいう「美人」とは外観ではなくお肌がすべすべするのを意味するのは言うまでもない。同じような表現で「美肌の湯」または「美白の湯」というのもあちこちで耳にする。
 しかし令和の通訳案内士の私は訪日客に「これはなんて書いてあるんだ?」と言われたら困る。「美人の湯?ルッキズムじゃないの?」とかはまだ序の口で、アフリカ系の客に「美白の湯」などとは絶対直訳できない。せいぜい「肌がすべすべ、つるつるになります」ぐらいだろう。
 漱石が絶賛した歴史ある「いで湯の郷」道後も一世紀余り過ぎれば激変している。ただそれは道後だけの問題ではない。この国を取り巻く社会が、そして何よりも私たち自身が変わってしまっているのだ。今回は主に西日本の温泉を歩きながら、目まぐるしく変わっていく社会に翻弄される温泉と、それにも負けずにしぶとく生き残ってきた「温泉教」について見ていくために、今度は豊後水道を越えて別府温泉の湯につかってみたい。

日本最大の別府の湯は道後よりも古いのか? 
 日本に「温泉県」という正式名称はもちろんない。しかし群馬県民など一部を除き、多くが「温泉県」といえば大分県であると認識している。そしてその「温泉県」の「県庁所在地」が別府温泉であるというのに異論をはさむのは難しいだろう。
 実は先ほど、道後温泉の開湯伝説の一つとして大国主命が危篤状態の少彦名命をお湯で蘇生させた話をあげた。ただあれは道後温泉の公式HPによるものである。その根拠たる「伊予国風土記」には、カットされた大切な部分がある。それは大国主命は豊後の「速見の湯」をパイプラインによって道後に導いたお湯で少彦名命を救ったというくだりである。そしてこの「速水の湯」がすなわち別府の湯らしい。これを見ると「最古の湯」は道後ではなく別府ではないかという疑問が生じてくるのが普通だが、それでは「三古湯の長男」としての立場がないからカットしたのだろう。 
 とはいえ別に道後の湯を貶めようとしているのではない。ここでは豊後水道をかけ橋のように行き来していた古代人に思いをはせると同時に、道後の湯のオリジンとでもいえそうな別府の湯への興味が高まってくる。
 俗に「別府温泉」とはいっても、狭義の「別府温泉」を指すのか、広義の「別府八湯」を指すのかで範囲や規模が百倍はゆうに変わってくる。狭義の「別府温泉」はJR別府駅周辺から海岸沿いの別府タワーあたりに位置する。ここには旅館街のみならず、町内会による地元民のための格安の共同湯も点在している。100円で入浴できるところもあるくらいなので風呂がない物件もよくある。ここがこのように開発されたのは近代になってからだ。
 そして広義の「別府八湯」だと、源泉数2291、湧出量9万リットル弱、源泉数43を誇る、世界最大級の温泉王国である。日本の源泉の7,8%がここに集中しているだけでなく、日本に10種類ある泉質のうち7種類があるという事実だけでもその規模がけた外れであることが分かるだろう。なぜこのように多彩な泉質を誇るのか。別府は扇状地である。そして扇状地の地下には温泉の通り道が複雑に広がるため、通り道ごとに微妙な成分の違いが生じる。そのおかげで泉質の種類も日本一になったのだ。
 「金を湯水のように使う」という表現があるが、ここは日本一の湧出量を誇りつつも少雨の瀬戸内気候であるため地面に浸透する雨水も限られる。やはり大切に感謝しつつ使うことを市民はよく理解している。

鉄輪温泉の「貸し間」
 別府駅から国道10号線を北に3㎞あまり走らせると「上人が浜公園」である。「上人」とは時宗の開祖にして伊予道後生まれの一遍上人で、鎌倉時代に彼が上陸したのがこの地だという。そして山側に位置する鉄輪(かんなわ)温泉に登っていけば、湯煙がもくもくと一直線に立っているのがわかる。お湯が噴出するところは活断層が多いため、このような光景が目にできるのだという。
 鉄輪温泉は狭義の別府温泉ほど享楽的色彩が強くなく、地獄めぐり以外はむしろ昔ながらの湯治宿が多い。特にこの界隈では「貸し間」というスタイルの湯治専門宿が今なお健在だ。ここの名物が「地獄蒸し料理」である。とれたての野菜類や魚介類を釜の上の天然の蒸し器で蒸す。それだけだ。しかしそれが実に素材そのものの甘みや塩味を感じる。質素ではあるが、こうした料理を囲んで「暮らすように旅する」湯治客同士の触れ合いもある。「木賃宿」なので、特に宿側からの手厚いサービスもおもてなしもない。手伝ってくれるのでスタッフかと思えば湯治客ということもよくあるほど、ほったらかしである。こうした宿を、私は「寅さん宿」と呼んでおり、旅文化の一つとして大切にしたいと思っている。

一遍上人のもたらした地獄・極楽
 「地獄蒸し」の由来はもちろん、海地獄、血の池地獄などといった「地獄めぐり」の多種多様な極彩色の湯である。「豊後国風土記」に「湯の色赤くして埿あり」とあるが、古代人もここの存在を確実に知っていた。その後の中世人はここで地獄を見た。現代人の我々がこれらを見ても「地獄」の存在を感じるのは難しいが、中世の人々は寺の地獄図よりもこれら目の当たりにして地獄を実感したに違いない。
 この地には熊野で修行して神通力を体得した一遍上人が、これらの地獄の熱を鎮めて石風呂として「平和利用」できるようにしたという伝説がある。熊野とは音読みで「ゆうや」=湯屋であるため、温泉町の神社としては大国主命、少彦名命に次いで多いのが熊野信仰だという。そして一遍上人は女性も社会から疎外されていたハンセン病患者も見放さず、極楽浄土に往生できると説き続けた。
 ここでは毎年九月に湯浴み祭りを行い、一遍上人像にお湯をかけるのだが、彼がもたらしたのは温泉の少ない瀬戸内海で独自に発達した石風呂だった。これは密閉した石室を熱して中に入る、サウナのようなものである。唯一残っている香川県さぬき市の「塚原のから風呂」なるものに挑戦したことがある。あまりの熱さにはだかでは入れない。シャツとパンツを着用して周りに布をかぶって入るのだが、わずか数分でギブアップである。息を吸うだけでも鼻腔から熱風が入ってくるのだ。目も開けていられない。大げさに言えば死を覚悟した。このまま外の人に戸を開けてもらえなければ確実に死ぬ。
 現在鉄輪ではそうしたものは残ってはいないが、石風呂にこもるということは湯につかるよりもはるかに「生と死」をイメージさせる。まず、石室に入りうずくまることは母の胎内に戻るかのような気分である。そして死を予見する。最後に「胎内」から外に出ると、生き返ってこの世に舞い戻ったかのような気がしてくる。おそらく一遍上人が「地獄めぐり」の末に山を下っておいしい蒸し物を食べることのありがたみをこの土地の人々に教えたのではないかと私は考えている。

温泉レジャーの第一人者、油屋熊八
  温泉は極楽と地獄、生と死を一度に体験できる。これこそ入湯と衛生保持のための風呂、シャワーとの違いであり、私が「温泉教」という宗教的感覚を感じる理由の一つだ。しかし近代日本のレジャーブームはこれを根本的に覆す「物見遊山」に変えてきた。そのひとつが大阪別府間の定期航路である。1873年に原型ができたが、1906年別府港ができると、港の脇で砂湯をしている光景が楽しめたというので、土産話で持ちきりとなった。そしてほぼ同時に地獄めぐりも見物料を取っての観光スポットとなった。
 ここの温泉観光文化を根本的に変えたのは、大正時代に亀の井旅館を開いた伊予宇和島の人、油屋熊八である。これも伊予と豊後の交流がいかに深く、広かったかが分かる事例である。そして1918年に温泉好きな文学者、田山花袋が、その名も「温泉めぐり」というエッセイで「しかし何といっても、温泉は別府だ」と絶賛したことも挙げておこう。時代は単価の低い庶民的な湯治から、客単価の高い中産階級的なレジャーに変わっていった。それにうまく乗ったのが油屋熊八だった。
 さらにアイディアマンの彼は日本初の女性バスガイドによる地獄めぐりをはじめて大当たりさせた。さらに大阪から客を寄せるために考えたキャッチコピーが「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」である。コピーライターとしての腕もこれで証明されている。その他、1927年には大阪毎日新聞の主催で「日本新八景」の首位が別府温泉となったが、これも彼が市民にはがきを配って「組織票」をえたからに他ならない。彼は温泉レジャービジネスにかけては天才的な頭脳を発揮した。市民には今なお愛される存在で、別府駅前には満面の笑みで両手をあげてとびかかろうとしているように見えるスーツ姿の老人のマントには地獄の小鬼がしがみついている。これほど頭に?マークがいくつも付きそうな銅像は見たことがない。

負傷兵も被爆者も癒す湯
 しかし時流に乗って別府温泉を創っていったのは彼だけではない。実は別府には金山もあったのだが、あまりの湯の熱さに採掘不可能になってしまった。そこに1929年遊園地と大仏が建設された。現在のラクテンチであるが、宝塚をモデルに、温泉地とファミリー用のレジャーを掛け合わせた温泉レジャー施設の流れは、戦中戦後の一時期を除くと昭和を通して続いていった。
 そうした中で1935年、八つの温泉エリアが合併して「大別府」が誕生した。しかし二年後、日中戦争がはじまり、傷病兵で旅館はあふれた。ここだけでなく日本中の大規模な温泉地は同じ運命をたどり、花柳界の灯も消え、食糧不足に悩まされた。
 戦後しばらくした1960年、鉄輪の小倉薬師温泉付近に原子爆弾被爆者別府温泉療養研究所ができた。原爆という地獄をかいくぐり、発症した人々のリハビリのための施設である。これは2011年まで続いたが、少彦名命の化身にして病をいやす「薬師如来」の名を冠する温泉の近くに最後の「極楽」をつくることの意義の深さは、医学的というよりも宗教的としか言えない。そして温泉とはこころと体を癒し、その生命力を再生させるものであるという「温泉教」の教義がここに確認できよう。また、大正時代に別府八湯温泉まつりが始まり、今も毎年四月に行われているが、市民が乗った神輿に放水銃やバケツで湯をかけるというのは、単なるバカ騒ぎに見えて、実は「お湯」のもつスピリチュアルなエネルギーに対する親しみを感じないではいられない。

鶴見岳から見る箱庭温泉都市
 最後にロープウェイにのって、このまちを見下ろす標高1375mの鶴見岳から町を見わたしてみたい。巨木、巨石だらけの頂上付近から、南北二つの活断層の間をつなぐ扇状地とその先の別府湾の姿である。実に見事なまでに「箱庭」的な温泉都市であることが分かる。温泉地は外部からは隔てられた「桃源郷」であるべきだ。町を歩いているときには気づかなかったが、ここから見れば別府という町が海と山に囲まれた桃源郷であることに気づくであろう。さらに展望台からの瀬戸内海(別府湾)は羽を広げた鶴、国東半島が鶴の頭のように見えるため「鶴見」岳とよぶのだとか。鶴は長寿のシンボル、実にこの山にふさわしい。
 ちなみに鶴見岳は阿蘇くじゅう国立公園の一部だが、こちらから阿蘇のほうに向かうと、こぢんまりとした評価の高い温泉街があるので行ってみたいと思う。その名も黒川温泉である。

「黒川温泉一旅館」とお地蔵様
 別府温泉の地形が桃源郷のようだと述べたが、やはり別府は広大に過ぎる。もっと「桃源郷らしい」こぢんまりしたところがないかと思いを巡らせたところ、あった。別府からやまなみハイウェイを経由して七十数キロ西に向かった、黒川温泉である。そこは水墨画の世界にでも出てきそうな山奥の細い川の両側に中小規模の旅館が三十棟まばらに建つ「湯の里」と呼ぶにふさわしい町だ。ここの公式HPには温泉町全体のコンセプト「黒川一旅館」が宣言されている。
ひとつひとつの旅館は「離れ部屋」。そして、旅館をつなぐ小径は「渡り廊下」。
温泉街全体の風景が、まるで一つの旅館のように自然へと溶け込みます。
 平成の世には日本を代表する人気の「秘湯」の頂点に上り詰めたが、ここまで来るのにも長い道のりがあった。
 ここの開湯伝説は「お地蔵様」である。昔、豊後の貧しい塩売りが、瓜を欲しがる病気の父親のために塩をお地蔵様にお供えしてから瓜を盗んだが、地主に見つかり首をはねられかけた。しかしはねられたものを見ると、お地蔵様の首だった。後に肥後の修行者がお地蔵様を自分の故郷に移そうとして黒川を歩くと、お地蔵様が「ここがいい」というので地蔵堂に安置したところ湯が湧き出るようになったという。
 実に悲惨ながらも牧歌的な話だが、ここで病をいやす薬師様でも極楽に連れて行ってくれる阿弥陀様でもなく「お地蔵様」であることに注目したい。地蔵菩薩の任務の一つに「地獄に堕ちた者の救済」がある。日本人の多くが無意識に路傍の地蔵菩薩を「お地蔵さん」と親しみを込めた敬称で呼ぶのも、死後、鉄輪温泉のような「地獄」に堕ちてしまった自分を救ってもらえるという信頼と期待があるからではないか。
 この「身代わり地蔵」は今も町の人々の信仰を集め、また「地蔵湯」という公衆浴場の名称にもその信仰が現れている。

「新明館物語」
 ここは戦後しばらく、1950年代から60年代はまだまだ無名の温泉地に過ぎなかったが、川沿いの「山の宿新明館」を継ぐことになる後藤哲也氏が二十代にして試行錯誤を繰り返して町おこしをすることにより、「日本一の温泉街」が生まれることとなった。終戦間もなく家業であった湯治客相手の兼業旅館の仕事をすることになった彼の半生は、柴田敏明「黒川温泉 新明館物語(以下「新明館物語」)」という劇画に詳しい。
 淡々としながらも働き者の後藤氏は、裏山の竹林の竹をパイプにして70m上の水神様から水をひくなど、DIYで温泉宿を造ろうとしていた。しかも湯治はまともに道路すら通っておらず、最寄りの小国町のバス停まで12㎞もあり、冬季は湯治客も来ない。しかも一帯は1964年に南小国温泉郷として国民保養温泉地に指定されているほどの「温泉銀座」であった。宿泊客がなければバイク便や野良仕事、わらじづくり、林業、鳥うちなど、食っていくためには何でもやった。彼だけではなく、数軒あった近所の旅館もみな似たようなものだった。私がここに向かうために走った国道442号線はなんと1982年まで開通していなかったという。
 「新明館物語」では、温泉組合の仲間たちと福岡から山口まで営業に出かけるシーンがあるが、山口の旅行会社は黒川温泉の存在を知らなかった。特徴はと聞かれて温泉と山菜料理と答えると、「山菜料理ならここら辺でもありますよ わざわざ熊本の山の中まで行かなくても それと温泉も近くにある 他に何かないですか」と言われ、絶句する。そこで考えたのが他の温泉地との差別化である。黒川に戻ってからの後藤氏は、親の反対を振り切って旅館の裏山の固い岩盤を人力でノミを一振り一振り打ちながら「洞窟風呂」をほって名物にしようと思い立ち、日々の仕事が終わると裏山を掘り始めた。そしてついに完成させた。1956年、バスが黒川まで通ると、第一次の完成を終えたばかりの洞窟風呂は繁盛した。

「胎内くぐり」の洞窟風呂
 私もこの「伝説」の洞窟風呂に入ってみた。普段から洞窟に入るたびに、私は母の胎内に戻るような錯覚を感じる。ここでもそうだ。寒い冬の日に訪れたときは、体を冷やさないためにしゃがんで体を湯につけながら進んでいった。確かにこれはここでしか感じられない体験である。いや、正確にいえば南紀勝浦温泉の「忘帰洞」という、天然の海食崖を利用した巨大な洞窟風呂も体験したこともある。しかしここのほうが手掘りだけあって、小さくせまい。
 母親の産道を逆さに登って行って羊水につかっているかのような、不思議な気分である。ふと見るとお地蔵様がある。掘り出した岩に地蔵菩薩を彫り込んだものなのだろう。不思議な安らぎがある。実に不思議な「胎内くぐり」を終えて、生まれたままの格好で外に出た。九州とはいえど、阿蘇山北部のこの地の冬は厳しい。洞窟のなかがいかに「極楽」だったかを実感しつつ、湯冷めしないように宿に戻った。

露天風呂と入湯手形の「ひなびた温泉地」
 戦後のレジャーブーム真っただ中の1961年、阿蘇くじゅう国立公園の景勝スポットとして知られるやまなみハイウェイが別府から近くまで通ったため、一時的に黒川温泉全体の宿泊者数が激増し、それにともない旅館も増えた。しかしこうした「バブル」は数年しか続かず、じきに新明館以外は「閑古鳥」が鳴くようになった。「新明館物語」で後藤氏は成功の秘訣についてこう答える。
「うちはお客さんが喜ぶようなことをいつも考えとる 洞窟風呂はめずらしくて面白かし 露天風呂は自然が感じられるように木を植えてあるし つつじは年に1回きれいな花を咲かすし それがお客さんに気に入られとるとだろう」
 「半農半宿」だった黒川の人々は、良くも悪くも「一人勝ち」ができないような空気だったのだろう。だから運命共同体として、都会の大資本の参入を拒む一方、客のニーズの流れを読みつつ自分たちでできる魅力的な街づくりを考えた。例えばバブル経済が始まったばかりの1986年、当時の「露天風呂ブーム」にあやかり、組合旅館のほとんどが露天風呂を導入しようとしたがが、二ヵ所だけ立地上露天を掘れないところがあるため、その宿を見捨てるわけにいかない温泉組合は、定額で三か所湯めぐりができる「入湯手形」を発行した。地元の間伐材を輪切りにしたものに、焼き印を押したものである。すると人々も積極的にまちを歩くようになり、お金が町全体にまわり、潤すようになった。三か所湯めぐりをした後は、その手形を地蔵堂に納めることになっている。
 これも問題を克服すると同時に色々な露天風呂が楽しめるという客のニーズにこたえたものだろう。また、団体旅行につかれた昭和末期の温泉客が求めるものが、「ひなびた温泉地のいやし」であることにいち早く気づくと、看板などの町並みを統一し、ひなびた温泉地風に変えていった
 一方でこの温泉街全体で生き残る戦略となった手形を各地の旅行会社が利用し、日中の入浴のみの団体観光客を送り込むようになった。利用客が増えればいいというものでもない。宿泊客に悪影響を与えかねないだけでなく、顧客の求める「ひなびた温泉地のいやし」も台無しになる。そもそも宿泊しないのであれば地元に落ちる金も微々たるものだ。そこで団体客の温泉利用のみはお断りとした。客を選ぶのも戦略であろう。

「つくりもの」で天下を制した黒川のマーケット・イン戦略
 私は新明館の洞窟風呂で湯浴みをしながら他では味わえない雰囲気を楽しめていたと思っていた。しかしいざお湯の質や肌ざわりを思い出そうとしても覚えていないことに今更ながら気づいた。ここも小規模ながら別府と同じく十種類ある泉質の中の七種類が集まっている。HPで改めて調べると「ナトリウム塩化物硫酸塩泉」とのこと。薄暗い中にランプがおぼろげに光り、湯けむりが揺らぐ幻想的な場所であるが、そこで温泉分析表を見たかどうかすら覚えていない。
 外を歩くと実にしっとりと落ち着いている。全体的にアースカラーで統一されており、道後や別府のような「男性天国」もない。小川の上には球状の光のオブジェなどが美しい。しかしここではたと立ち止まった。これは「つくりもの」ではなかろうか。そう、町の人々が頭をひねって都会人の嗜好を分析し、実行に移した「マーケット・イン」の賜物である。しかしここは「湯」で直球勝負していない。「湯」を取り巻くインフラで勝負しているのだ。そうでなければここは周辺のように廃れた温泉町になっていただろう。「温泉地」としての黒川は知名度において全国を制覇したが、なにか割り切れない。
 私は黒川温泉のあり方を批判しているのではない。黒川の人々が生き残っていくための戦略として分析した一つの「解」が、たとえつくりものでもホンモノと錯覚する我々の「温泉地リテラシー」の低下に起因する温泉街「風」のまちづくりであり、それ以上に「湯治もしない現代人にお湯のよさなんて分かんないんだから洞窟風呂や露天風呂といったインフラで引き付けろ」とでも言われても仕方ないほど、我々のお湯へのこだわりが薄れたことが、これを反映しているのではなかろうか。

ハンセン病患者宿泊拒否事件
 温泉側の公式HPによると、2000年代の黒川温泉の特記事項として
「景観づくりが評価され、多くの賞を受賞。さらにメディアでの紹介も増え続け、2003(平成15)年には、宿泊者数40万人、推定入込客数120万人のピークを記録しました。」
とだけある。しかし私はこのひなびた温泉街の最悪のスキャンダルが言及されていないことにため息が出た。同じ年、東京に本社をもつ「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が、熊本県による「ふるさと訪問里帰り事業」の一環として当ホテルに宿泊予約をとっていたものの、宿泊客がハンセン病患者だと知るとこれを拒否したという現代温泉史上類を見ない、しかし他の場所でも起こりかねない問題が起こった。組合を除名された挙句、被害者側に対しては「世間を騒がせた」ことに対する通り一遍の「謝罪?」で、真の意味での和解に至ったかはかなり疑問なまま、親会社の意向で閉鎖した。

消費者の人権レベルに合わせたサービスでいいのか
 これは当初人権問題として紙面をにぎわせ、被害者側に同情的な風潮だったが、被害者側がホテル側の誠意を感じないからといって「謝罪」を受け入れないと、世間の空気が変わった。患者施設だけでなく県庁に対しても、日夜聞くに堪えない雑言罵詈が響いたのだ。認めたくないのだがそれが2003年当時の人権感覚だったのだ。そしてそれに合わせてビジネスをするなら、ホテルとしてはハンセン病患者を拒否するのが「当然」だったのだろう。消費者の求めるサービスを提供するのは、時には消費者の人権レベルに合わせることになることがここで露呈した。それは「政治家は有権者のレベルを反映する」という選挙の原理のようなものかもしれない。
 しかしたとえハンセン病患者の入浴場所は分けられていたとはいえ、道後や別府のような「温泉教国」ではそれなりの入浴は可能だった。道後生まれで鉄輪の湯を開いた一遍上人はそのような人々から優先的に救おうとしたではないか。また、ここの開湯伝説の主人公たるお地蔵さまは、親のために瓜泥棒をしようとする若者の身代わりとなって斬られたではないか。世間の偏見に立ち向かう合うホテル幹部がここにはおらず、東京本社に唯々諾々と従うばかりである。このホテルだけの問題かもしれない。しかし地元の組合で「温泉に浸かればどんな人でも救われる」と信じる温泉教のドグマが浸透していなかったとも考えられる。人権感覚は薄くても、それを補うほどの義理人情や判官びいきぐらいは発揮してほしかった。その意味で、ここは「ホンモノの温泉文化」が浸透しているか、はなはだ疑問である。
 その後も温泉街が一体となって「黒川一旅館(町じゅうが一つの旅館)」との認識で観光客の人気を維持してきたが、その後「黒川一ふるさと」というコンセプトで上質な里山の温泉地づくりに参加する外部の人々を「第二村民」として黒川を二つ目のふるさとにしようとしている。はたして令和の現在、かつて「ふるさと訪問里帰り事業」の一環としてここに宿泊するのを断られたハンセン病患者たちも「第二村民」として認められるだろうか。公式HPには特に記載はないのが気になる。
 いずれにせよ、ここはあまりにもお湯>まちづくりの色彩が強い。お湯の個性がきちんとあったうえでの街づくりをしているところを求めて、島根県大田市の温泉津(ゆのつ)温泉に向かおうと思う。

「オール5」の温泉津温泉
 「温泉津」とかいて「ゆのつ」と読む。お湯の素晴らしさとまちづくりの面白さのバランスが絶妙なところとして思い当たるのがここである。島根県の真ん中あたり、石見国に大田市がある。世界遺産石見銀山と大山隠岐国立公園の活火山、三瓶山(さんべさん)、そして石見神楽の上演を誇るこの町の「奥座敷」が温泉津である。
 中世から近世にかけて、最盛期は世界の銀の三分の一を産出していたという銀山の積出港として栄えた津(港町)に、たまたま最上級の湯が湧いていた。そこで「温泉津」という、名は体を表しながらも漢字と読みが合わない温泉町が生まれた。伝説では千三百年前からいで湯の郷で、狸が湯浴みをしていたのだという。町の中心には自噴の源泉かけ流しの浴場が二か所ある。唐破風の上に狸の彫刻をあしらった元祖「元湯」と、1918年に地元の大工が神戸で修行して建てた擬洋風建築の薬師湯である。ここでも薬師如来の霊験あらたかな効能がいただけるようだが、動物が湯浴みをしていたというのは人間と動物の間に区別をつけない仏教思想の表れであろう。
 とりあえずは薬師湯のほうから湯浴みしてみたい。大正レトロな建物の中は、カフェにもなっているが、何はともあれお湯である。中にも外にも「日本温泉協会オール5の湯」という表示が目につく。「オール5」とは源泉、泉質、引湯、給排湯方式、加水、新湯注入率、いずれにおいても最上級ということで、日本に三千か所近くある温泉地の中でわずか十数か所しかオール5はないという。これこそホンモノの湯だと「温泉教徒」たちから認められたものなのだろう。

自分と向き合う湯。神仏を感じる湯。
 脱衣後、中に入るが、シャワーや洗い場などはもちろんない。湯船からあふれるお湯でかけ湯をするのだ。体を清潔に保つことを何よりも大切にする循環濾過の温泉施設と、素肌はもちろん、体の中までじっくりと癒し、治すことを大切にする湯治のためのお湯の違いの一つに、洗い場の有無があるかもしれない。
 湯船や壁に黄色く茶色く時々白い物質がこびりついている。ナトリウム・カルシウム塩化物泉というが、それらの澱が百年以上かかってこのような神々しいまでのぬめった美しさを作りあげていることに改めて気づく。ここは観光地ではなく湯治場なのだ。
 さっそくお湯に手を付ける。熱い。温度計は47度を指している。我慢できるだろうか。一人年老いた先客があったが、じっと目をつむって薄茶色に濁ったお湯の中に座っている。ジオの恵みを味わいつくしているのだろうか。クリスチャンは神に自らの行いを告白する。禅宗では座禅を組むことで自分と向き合う。この老人は自分と向き合っているのだろうか、それとも熱い湯に神仏の「おかげ」でも感じているのだろうか。そんなことを考えながら足をつけ、ゆっくりゆっくりと体を湯に沈めていく。無意識に目をつむっていた。そうでないとこの熱さに耐えられないような気がした。
 この湯は地下2,3mあたりから湧きあがっている。真下ではないか。地球のずっと奥から来た熱ではなく、本当に真下ではないか。老人が上がったので私も耐え切れず上がった。わずか5分たらずだ。しばらく休んでからまた湯につかった。

原爆症に湯治で立ち向かった日本人
 公式HPの文句が気に入った。「原爆治療にも活用された薬師湯の効能」とある。広島から比較的近いこの地に、戦時中疎開していた広島市民が少なくなかった。そこでお湯につかると調子がよくなることを知った彼らは、壊滅状態の広島に戻ってから被爆者の原爆症を癒せないか考えた。その結果別府や石見の有福温泉など数か所が被爆者に開かれた。原爆の熱線や放射線に対して、日本人は湯治で立ち向かおうとしたのだ
 「B29に竹槍」のような精神主義と思われるかもしれない。しかし科学者や医師が証明されていることしか信じないことに対して、「温泉教徒」は経験則に従うものだ。特に医者から見放されたら、自暴自棄に走るか神仏にすがるか、でなければ温泉につかるかしかない。我々が「温泉教徒」であることの証明ともいえるこの文句が公式HPの最上段に書かれているのは温泉教徒として誇らしい。

赤瓦の町並みと神楽
 湯上りに三階の展望台から眺めると、今さらながら町じゅう赤瓦であることに気づいた。赤瓦はここからしばらく西に行った江津市の「石州瓦」である。山陰および中国山地では瓦の色というと明るい茶色というのが定番であるが、それも山「陰」というくらい曇り空の多いこの地で気分を上に向かせるためのものなのだろうが、ここから見ると改めてそれを実感する。
 外に出たら雨が降っていたが、傘をさしたまま歩いてみる。よい温泉町とはやはり面白く散歩できるところだろう。山や港や時々明治大正の混ざった昭和のまちなみを歩く。私の生まれ育った、ここから東に80㎞ほどのところにある木次(きすき)の町並みにも似て懐かしい。ただこの町並みは都会からの観光客のまなざしにこだわって造られたものではない。数百年の時をかけて先人から受け継いできた感性の表れである。
 また、町じゅうに神楽のポスターが貼られているのを見かける。人口20万人の石見地区だけでも社中が百数十もあり、多くが無料で見られるのが懐かしくありがたい。これらも外部の人に見せるためではない。神々に捧げるためであり、自分たちが楽しむためである。だから夜など公民館から練習するのが聞こえてくるのもよくあることだ。都会の子が音楽教室やダンス教室に行くように、石見の子どもたちは公民館で先祖伝来の神楽を身につけるのだ。どちらが世界に通じるかというと、今や神楽のように思えてくる。

マーケット・インに振り回されて疲弊しない法
 両親と妹と倅を連れて、初秋の頃このまちの老舗旅館、ますやに泊ったことがある。明治建築の木造三階建で、バリアフリーにも対応しておらず、配膳時間や入浴時間もきちんと守ることになっている。最近はこうした「昭和型」が好まれず、素泊まりや朝食付きのみに人気があったりもする。「黒川温泉的」な温泉町であれば、無理してでもバリアフリーにし、素泊まりも受け入れるだろう。しかしますやは良い意味で融通が利かない。館内を歩くと、そのこだわりが分かる。今どきこのような木造三階建ての旅館は作れない。
 古いものを大切にするあまりにバリアフリーが行き届かなくなっている。しかし明治建築を守るということに重きを置いているのだ。また山海の珍味をふんだんにあしらった料理には自信があるようだ。中国語でホテルのことを「酒店」「飯店」というが、ここも食事や宴会がメインであり、ついでに泊まってもらうところなのだ、というポリシーを感じる。さらに、入浴時間の制限があるのも、浴室を清潔に保つためには常に掃除をせねばならず、また一度湯船のお湯を抜いたら、湧出量の少ない源泉かけ流しだけに再びたまるまでに時間がかかるからだ
 とはいえ夜は11時まで、朝は6時から湯浴みできれば十分ではないか。お客のほうを見るマーケット・インもありだが、それに振り回されて自らのもつ価値がお留守になっては元も子もない。むしろ、「うちのポリシーを分かって下さるお客様は大歓迎」というあり方がなければ現場が疲弊する
 そういえば宿の方から「寅さん」の話を聞いた。あの寅さんがおそらく一度だけ「就職」、しかも管理職になり、職場結婚の意思を柴又の家族に告げたという話がある。それが「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」で重要な場所となる温泉津であり、職場というのが温泉旅館の番頭、相手は高田敏江演じる絹代である。フーテンの寅さんに腰を落ち着けさせようとしたこの町には、なにか不思議な魅力があるに違いない。
 
アルベルゴ・ディフーゾとは
 コロナ中の島根県は都会とは比べ物にならないくらい他県の人との交流が制限されていた。しかしそのような中、この町で日本版「アルベルゴ・ディフーゾ(以下「AD」)」が行われていた。ADとは「分散型ホテル」等と訳されるが、その意味するものは過疎問題や空き家問題を解決するために、空き家を改築して宿泊施設とし、町中のレストランを食事処に、店舗を土産物屋に、観光案内所などをフロントにして、空き家を利活用しつつ交流人口を増やし、気に入れば移住者も受け入れて活性化を図るというものだ。
 温泉津は実に魅力的な街ではあるが、空き家率は半分を超える。そこでADを実践した女性がいる。お隣江津市で生まれ育ち、東京で暮らしていたところ、住職であるご主人の実家のある温泉津に戻ってきた近江雅子氏である。コロナ期をまたぐ5年間になんと4か所の空き家を宿泊施設として運営し、食事や買い物は町歩きをしながら楽しんでもらうというのだ。
 「昭和の寅さん」の番頭就任と結婚はあえなく実らなかったが、「令和の雅子さん」は一か所のみならず数か所の空き家を再生させ、番頭兼女将をこなしている。お風呂はもちろん温泉で、ドミトリー形式や一棟貸しというのもあり、宿泊客は若者中心だという。ますやとは逆に、宿泊に特化したからというのもあるだろうが、様々な宿泊のあり方と入浴の仕方が選べるようになっただけでなく、なによりも「湯」の個性の強さを大事にしているこの町から目が離せない。
 黒川温泉は外部の目を意識して街づくりをした。そうしないと若者が定着せず、温泉町としての活力を失うからだ。一方この町はマイペースに、自然体でやってきた。その結果空き家だらけになった。しかしそれでも時には若者がやってくる。先に司馬遼太郎が松山の気質を形容するのに「駘蕩」という言葉を使ったことを紹介したが、「駘蕩」というある意味奇をてらった文人の言葉を「ゆったりのんびりマイペース」と日常語に言い換えた言葉が最も似合うのが温泉津なのかもしれない。

 城崎温泉ー「まち全体が⼀つの⼤きな宿」
 子どものころから時おり温泉に連れて行ってもらっていたが、11歳の夏に連れて行ってもらった但馬の城崎温泉の印象が最も強い。春先に9歳になった倅をつれ、桜に彩られた城崎の湯につかった。温泉町としての城崎のコンセプトは、黒川温泉によく似ている。倅がまだ家内の腹の中にいたころも、山陰本線に乗ってやってきたことがある。城崎駅についたらそこはもう宿だ。つまり、「まち全体が⼀つの⼤きな宿」というコンセプトがあり、駅は玄関、町並みは廊下、宿が客室、町内に七か所ある外湯が大浴場、そして飲食店が食堂なのだ。町ぐるみで旅館を演出し、旅人を受け入れ、組合員の旅館の浴衣と下駄で伺えば七か所の外湯に入り放題である。よって町を歩くと浴衣姿の老若男女がそぞろ歩いている。これが特にSNSの「映えスポット」にならないわけはない。
 このまちを大正時代に訪れた文豪、志賀直哉は随筆にこう残している。
「車で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが街の真ん中を貫いている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めは寧ろ曲輪の趣に近かった。又温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。(中略)宿へ着くと彼は飯よりも先ず湯だった。直ぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽(ゆぶね)の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香りに、彼は気分の和らぐのを覚えた。」
 その光景は今もほぼ変わらず再現されている。温泉津温泉に「変わらぬことのよさ」を感じた私だが、ここには志賀直哉の時代からの「変えぬことのよさ」を強く感じた

コウノトリの湯浴みとまんだら
 ところで今回の私たちはというと、今回は通訳案内士仲間とそのご子息とともに、「男四人」という珍しい組み合わせで、温泉に向かう前に豊岡市内のコウノトリの郷公園で特別天然記念物に指定されるくらい危機に瀕したこの野鳥とそれを守る人々のことを学んだ。なぜ先にそこに行ったかというと、城崎の開湯伝説の一つとして、コウノトリが湯浴みをしていたことが挙げられるからだ。町内の七つの湯のひとつに「鴻(=コウノトリ)の湯」があるのもそのためだ。町の人々がコウノトリを守ろうとしたのも、世界共通の自然保護という「舶来思想」以前に、鳥獣をも癒す慈悲の湯を誇りに思ってきたからに違いない。
 以前家内(と腹の中の倅)ときたときには生来の貧乏性がたたって、一泊二日でなんと六回も湯につかった。まさにカラスの行水である。駆け足でまわっても忙しいだけで、温泉の神々にも失礼なので、今回はコウノトリに敬意を表して鴻の湯に入ろうと思い、柳の並木道を歩いていたところ、期せずして真言宗温泉寺についた。中世には温泉を管理していたこの寺の参道には、お礼参りに来た人々の石灯籠が並ぶ。実はここにはもう一つの開湯伝説がある。717年に道智上人が病に苦しむこの町の人々のため、千日もの間「八曼陀羅経」を唱えると、こんこんとお湯が湧きだした。それが城崎発祥の湯ともいわれる「まんだら湯」である。鴻の湯はコウノトリにちなんだネーミングだが、上人が直接湧きあがらせたという伝説が残るまんだら湯のほうがどうやら「ご利益」がありそうな気がして、こちらの湯にじっくりとつかることにした。
 あっさりとしたナトリウム・カルシウム塩化物泉である。七つの湯に関して温泉の公式HPには「驚くことに、これら温泉は源泉が発見された時期も、趣も特色も全く異なるのです。日本には城崎温泉の他にも多数の温泉がありますが、これだけ近接した場所に趣向の違う大浴場があるという数少ない温泉地です。」とあるが、私は知っていた。実はこの温泉はそれらのそれぞれ個性を持つお湯を一か所に集め、ブレンドして集中管理した上で各温泉に分配しているのである。道後の湯と同じだ。
 だからまんだら湯は商売繁盛、五穀豊穣を祈る「一生一願の湯」、鴻の湯は夫婦円満、不老長寿を祈る「しあわせを招く湯」等とあるが、効能は同じである。それを知らずにかつて駆け足で六ケ所も回ってしまった。ただ、ある源泉は高温でちょろちょろと、別の源泉は低温でどんどん湧きあがるとするなら、まぜてちょうどよい温度にすることでお湯の「平準化」をはかるのも分からないでもない。それによって湧出量、分配量が安定するので外湯めぐりができ、浴衣と下駄を温泉手形代わりにすれば写真映えもし、非日常感を楽しんでもらえ、新たなる誘客につながる。
 
「城の崎にて」の小動物の死
 ところで城崎の名を一躍有名にしたのはやはり志賀直哉の「城の崎にて」だろう。1913年に東京で列車事故に遭い、九死に一生を得た直哉は、脊椎カリエスに罹患することへの恐れからわざわざここまでやってきた。脊椎カリエスとは1902年にあの正岡子規の命を奪った、激痛を与える病である。直哉もそのことを覚えていたのだろう。そしてちょうど直前の1909年に京都から城崎まで山陰線が開通していたので、大けがをした後でも比較的楽に湯治に来られたのだ。
 そこで湯治がてら直哉は蜂の死を見た。
「それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。」
次に虐待された鼠の断末魔を見た。
「鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする。鼠には首の所に7寸ばかりの魚串が刺し貫してあった。(中略)子供が二三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。却々当らない。カチッカチッと石垣に当って跳ね返った。見物人は大声で笑った。鼠は石垣の間に漸く前足をかけた。然し這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そして又水へ落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命である事がよくわかった。(中略)自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本統なのだと思った。」
 串刺しにされて溺れ、石まで投げられても生きようとしている鼠に、自分の、人間の生と死を見た。そして最後にいもりの死を見た。

殺したいもりと生きていた自分
「自分は踞んだまま、傍の小鞠程の石を取上げ、それを投げてやった。自分は別にいもりを狙わなかった。狙ってもとても当らない程、狙って投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考えなかった。石はこッといってから流れに落ちた。石の音と同時にいもりは四寸程横へ跳んだように見えた。いもりは尻尾を反らし、高く上げた。」
 このいもりは作者が面白半分に石を投げたら当たってしまい、殺してしまったのだ。曰く
「自分は偶然に死ななかった。蠑螈(いもり)は偶然に死んだ。」
 鉄道事故で死ななかった自分が面白半分で投げた石に当たってイモリが死んだ。生き返るためにやってきた温泉地で、罪のないイモリを殺した。ここは直哉にとっては極楽かもしれないが、鼠やいもりにとっては地獄に他ならなかった。地獄と極楽が同居するのが「温泉教」の特徴でもある。別府のような「地質学的地獄」はここにはない。しかし弱肉強食の「生物学的地獄」があるのだ。
 それにちなんで温泉における「生と死」について考えさせるこの三匹の生き物の小さな、とても小さな銅像が木屋町小路という商業施設にさりげなく置いてある。
 作品の中で特徴的な一文がこれだ。
 「自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。(中略)自分のこころには、何かしら死に対する親しみが起こっていた。」
 「死に対する親しみ」、これは極楽と地獄を手軽に行き来する「温泉教徒」的発想かもしれない。
 しかし今見る温泉街は直哉が「城の崎にて」を発表してから八年後の1925年に起こった北但地震で壊滅状態になった後に復興したものだ。いわば直哉時代のレプリカであり、舞台装置である。272人もの人々が死んだ。死ねば蜂や鼠やイモリと何の違いがあっただろうか。

役者たちが非日常を演じる舞台装置
 それにしてもこの温泉町は「舞台装置」的である。素足に浴衣という「舞台衣装」にお湯のにおいをほのかにまとった「役者」たちが、心身ともに解き放たれ非日常を演じている。そんな城崎のある豊岡市に、コロナ直前に移住をしたのが日本を代表する演劇人、平田オリザ氏だ。過疎化に悩む同市に乞われて兵庫県立芸術文化観光専門職大学を設立し、学長となり、演劇で町おこしをした。また海外で「アーティスト・イン・レジデンス」、すなわち一流のアーティスト(ここでは劇団)を町によび、滞在してもらって作品を残してもらうことを実践し、街づくりをしようというのが注目された。
 山陰の片隅、但馬の田舎の人々に、普通に招致したら市の予算が吹き飛びそうな世界の超一流の劇団を招き、交流をかさねる。無料で滞在してもらうのだが、改築した専用の宿舎を準備することで経費を浮かせ、数十人の劇団員が毎日外に買い物や飲食に行くため、わずかだが町内の経済を活性化できる。そして何よりもこの町の人々が日常的に世界レベルの演劇に接することができ、注目を浴びれば、日本中、世界中の演劇ファンや関係者を引き寄せることができるのだ。
 平田オリザ氏は著書「但馬日記」でこう述べる。
 「演劇の街」なんかなくていい。いや「コウノトリの町」でさえなくてもいい。日々の生活を守ってほしい。その願いはまっとうで切実なものだろう。だがいまの日本で「普通の町」を目指すことは。そのまま衰退を意味してしまう。この点は、実は極めて本質的な問題だ。
 だからどこの温泉町も生き残りをかけて町おこしをしているのだ。

宗教だけでは熱すぎる科学だけでは冷たすぎる
 先ほど城崎温泉を「舞台装置」と認識した。舞台装置にいるのはそれぞれの源泉の個性を生かした「ホンモノのお湯」である必要はない。それよりも「どう見えるか」であり、訪れた人々がいかに「非日常を演じられるか」である。ここに来る人は湯治客でも観光客でもなく、みな役者なのだ。そんな特別な温泉町に最もふさわしい町おこしのあり方が、「コウノトリの遊ぶいで湯の町の、演劇による町おこし」なのかもしれない。
 著書の中で氏は劇作家井上ひさし氏の名言を引用する。
宗教だけでは熱すぎる科学だけでは冷たすぎる賢治その間芸術置いた
このくだりをみて思わず膝を叩いた。
宗教だけでは熱すぎる科学だけでは冷たすぎる日本人その間温泉置いた
これこそ温泉教の本質ではないか。
 どうしてもお湯の質へのこだわりが捨てられない私だが、やはりつまるところ、宗教と科学の間の「ぼかし地帯」にあるのが温泉ではないか。そんな問いを立てながら、兵庫県の誇るもう一つの名湯、有馬の湯につかりに行きたいと思う。

有馬温泉ー大国主・少彦名と三羽ガラス 
 初めて有馬の湯につかりに行ったのは、ある年の年末のことだった。ケーブルカーで六甲山に登って、ロープウェイで有馬に向かったが、六甲山は私にとって「ミニ中国山地」であると感じた。山の南側は華やかな阪神の都会で、冬でもやわらかい陽射しを感じさせる。一方、六甲山からロープウェイで湯煙たなびく谷底に下っていくと、「山陰」、つまり山の陰に向かっている気がしてきた。まるで岡山あたりから中国山地を越えてふるさと出雲に戻るときの追体験をしているかのようである。そこは私にとってまさに「仙境」だった。 
 ロープウェイ乗り場から十分余り歩いていくと、そこはいつも人だらけだが、まずは湯泉神社を探し当てて参拝した。ここの縁起によれば、神代の昔、道後の湯を見つけた例の大国主命・少彦名命のコンビが、ここで三羽ガラスが湯浴みをしているのを見たことに始まる。当地の温泉神社の祭神が大国主命、少彦名命とともに、熊野大社の熊野久須美命(くまのくすみのみこと≒イザナミ)とされるのはこのためである。山陽から一気に山陰に入り、出雲の神々に迎えられているような気がした。
 飛鳥時代には天皇が湯浴みしに来たというが、大国主・少彦名コンビといい、鳥の湯浴みといい、皇室と言い、パターン的には道後とまったく同じだ。ちなみに「万葉集」に登場する温泉地は、道後と有馬と白浜に加えて筑後の二日市、そして湯河原温泉である。

掘った行基と訪れてもいない清少納言
 温泉神社とセットで温泉寺に行くのが「温泉教徒」のあるべき姿だ。一時衰退したこの地の湯を再興したのが聖武天皇の時代の行基という。渡来系とされる彼は、先進土木技術を以て現伊丹空港の西側にある昆陽池(こやいけ)というため池を掘っていた。土木事業により人々を救いつつ布教していたのだ。その時、腫瘍に苦しむ人が有馬の湯につかりたいというので連れていくと、ついでに体中の膿を吸ってほしいと言われる。そこで吸ってやったところ、その病人は光り輝く仏に姿を変えると、ここの湯を苦しむ民のために開くように告げて雲のかなたに消えていった。そこで行基が薬師如来像をほって納めたお寺が、温泉寺だという。今でいえば政治家・富裕層御用達の聖路加国際病院を、だれにでも利用できるようにした人物というのに近い。
 清少納言も「枕草子」のなかで、行ったことはないだろうに「三名湯」の一つに数えている。ちなみにその他の湯は出雲の玉造温泉などが有力らしいが、なにせ、行ったことのない噂レベルに過ぎないので単なる箔付けであろう。温泉のブランディングとしてよくあるのが、来たという事実も怪しいのに来たことにする妙なブランディングだ。三名湯だの、三古湯だのと聞いたら、単なるPRに過ぎないと思って間違いない。もちろん、例えば清少納言が日本中の湯を百か所、千か所と回ってきたうえで「私家版三名湯」として語るのなら信頼性はあるのだが。
 その後、また荒廃が続いたが平安末期には仁西という僧が紀州の熊野権現に詣でた際、神仏のお告げで有馬の湯を再興するようにいわれ、苦労してこの地にやってきたという。ここで「熊野権現のお告げ」、というのが気にかかる。熊野権現のお告げで遊行をして全国を渡り歩いたのが、例の鉄輪の湯を開いた道後人、一遍上人だったからである。

派手好き太閤秀吉の湯治
 その後、戦国時代には度重なる大火に見舞われた有馬だが、本能寺の変の翌年(1583年)ここを訪れたのが太閤秀吉である。ここの湯に癒された彼は、大改修を行い、湯山御殿の落成前に亡くなった。多くの戦国武将が湯治をしたと言うが、武田信玄のような秘湯で、なにやら深刻な顔をして湯治をしているイメージの武将もいれば、湯治なのか物見遊山なのか分からぬ派手な雰囲気を漂わせる秀吉のような武将もいる。
 平成になってから「太閤の湯」という温泉テーマパークができたのも、九回も湯治にやってきた温泉教徒の天下人への感謝があってのことだ。ここには金の茶室をイメージした「黄金の蒸し風呂」や金色の千成り瓢箪のオブジェなどがおかれ、成金的にして庶民的、しかも享楽的な雰囲気が醸し出されているが、それも太閤秀吉の権力者でありながら百姓の子という、貴賤の間をシームレスに泳いだ人物のイメージにあやかったものだろう
 とはいえ私が関西で学生時代を過ごしていたころ、こんな施設はなかった。いや、あったのだが、湯治は「有馬ヘルスセンター」と呼んでいた。1961年に当時のレジャーブームの波に乗り、各地で「ヘルスセンター」と銘打った温泉レジャー施設が林立した。首都圏でいえば「船橋ヘルスセンター」のように、戦前は「プチブル」しか楽しめなかった温泉レジャーが大衆のものとなっていったのだ。さらに69年にはロープウェイも開通して、関西で絶大な人気を占めることになったのがここだったのだ。しかし私が大学生だった90年代初頭は、すでに「過去の遺物」と、当時の若者からは敬遠されていた。私も名前だけは聞いていたが、行ったことはなかった。結局2005年に閉館し、翌年リニューアルオープンしたのがこの「太閤の湯」である。
 そもそもここの敷地は浄土宗極楽寺に隣接し、また近くにはその名も念仏寺という、北政所「ねね」の別邸跡に建てられた浄土宗寺院もある。ねねといえば、温泉寺薬師堂を再興させたのも彼女だという。それにしても一帯の念佛、極楽、浄土などというネーミングからして、いかにもここの湯が極楽浄土であったかのような思いがしてくる。
 秀吉の時代まで温泉寺が入浴施設も宿泊施設も管理していたのは城崎の湯と同じであるが、かわって江戸時代は幕府の直轄地となり、庶民も湯治客として来るようになった。町中で見られる石に彫られた道しるべはその時のものである。また温泉寺本堂の柱に見られる墨書の跡も、湯治客が感謝を込めて書いたものとのこと。今でいえば「レビューの五つ星」のようなものかもしれない。また、当時はハンセン病によく効くとされていたが、「花柳病」といわれる淋病と梅毒にきくお湯が求められたため、そちらのほうに聞くとされる城崎温泉に湯治客を奪われたともいう。

谷崎潤一郎と「細雪」「陰翳礼賛」を生んだ有馬
 そういえば昭和初期にここに足しげく通った文豪がいた。谷崎潤一郎である。東京人の彼が芦屋に住むきっかけとなったのは関東大震災であるが、芦屋といういわゆる「阪神間モダニズム」の中心地に住みつつ描いたのが、そこを舞台とした「細雪」である。そのなかで四人姉妹の末っ子で、旧家のしきたりが大嫌いな「こいさん」という登場人物がいる。未婚のまま妊娠したのだが、名家のご令嬢の相手がバーテンであるということは世間体がわるいので、出産する直前までに身を隠す舞台となったのが有馬の湯だ。
 その他、「春琴抄」でも17歳の春琴が20歳の男弟子との子を身ごもり、当時を兼ねてやってきた舞台も有馬ということになっている。念仏を唱えて極楽浄土に赴く「死」と、「出産」すなわち「生」も隣り合わせなのが温泉教なのだ
 さて、肝心のお湯であるが、実はここも別府や黒川温泉と同じく、七種類もの成分が含まれているとはいえ、「有馬の湯」といえばなんと言っても「金泉・銀泉」であろう。「金泉」とは含鉄強食塩泉、すなわち酸化鉄により「赤だし」のような色をしており、鉄イオンを含まぬ「銀泉」は放射能泉(ラドン泉)や塩化物泉などを指す。いずれにせよ、赤だし色と白濁もしくは透明なのに、「金銀」と名づける感覚がいかにも「秀吉的」だ。市営の入浴施設にも「金の湯」「銀の湯」があるが、塩素消毒をしている。
 そこで大型ホテルと小型旅館がせせこましくひしめき合う隙間の細道を歩きながら、有馬一の、いや、おそらく日本一の老舗温泉旅館、陶泉御所坊に向かった。実はここが谷崎潤一郎がしばしばこもった場所である。彼のような文人墨客のインスピレーションをかきたててきたこの旅館ではあるが、意外にも日帰り入湯もできる。内部は薄暗く、無用な光を排除しようとしているのが分かる。派手好きな尾張人、秀吉をコンセプトの中心にすえた「太閤の湯」とは正反対である。さすが谷崎に「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」をひらめかせた場所である。
「われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。(中略)われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、 物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。」

「温泉は地球の血液」
 楽しみにしていた「赤だし」のような源泉かけ流しにつかった。入ると体にまとわりつく湯がしょっぱく、いささか錆臭い。薄暗い浴室内でずっと深いことに思いをはせはじめた。ジオのことである。この辺りには火山がない。プレートとプレートの間をなんと600万年前の湯が湧きあがってきているという。つまり今私のみにまとわりつくこの湯は人類誕生以前のものというのだ。にわかに信じがたいが、お湯の神秘性にはただただ圧倒される。
 クリスチャンはワインをキリストの血としていただくが、温泉教徒にとって 「温泉は地球の血液」という。特にこのような色のお湯に包まれるとまさにこの言葉を実感する。ただもともとこのような色なのではなく、地中から湧き出した時には透明だったのだが、地上に出て酸素に触れたら茶色く濁るのだという。ちなみに江戸時代には透明な湯だったと記録に残っているが、茶色くなったのは戦後ボーリング掘削してからという。
 鉄分が沈殿物となるのは確かに「湯の個性」である。一方で本当に新鮮ならば透明なので、変色するのは湯の「老化現象(エイジング)」とも言われる。とはいえやはりこの「赤だし色」の湯につかり、真っ白なタオルで体をふくと茶色くなるのを楽しむのも、有馬ならではかもしれない。「温泉教徒」は理屈ではない。「ジオの恵み」に気づく感性が最も大切だからだ。

「陰翳礼賛」の湯
 生と死とジオの恵みを満喫してから有馬をたつことにした。神戸電鉄有馬線の駅に向かうが、しばらくの間は周りの風景がやはり神戸というより山陰っぽい。「陰」というと改めて谷崎の「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」を思い出した。彼はこの有馬の湯につかり、御所坊の数寄屋で暮らしながら、日本文化の美は陽でなく陰にあることに目覚めた。
 じきに神戸が近づき、コンクリートの家々が建ち並び始めると「陰」は消えて「陽」になった。しかし私は「陰」に慣れている。神戸のような明るく乾いた「陽」の世界からわずか数十分でしっとりした「陰」の桃源郷に変わるのが、もしかしたら「有馬らしさ」であり「神戸らしさ」なのかもしれない。「陰翳礼賛」はこのようにして終わる。
 「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う具合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」
  温泉教徒ならこれをもじっていうだろう。「温泉という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う温泉があってもよかろう。」
 これぞ私の好きなタイプの温泉だ、と谷崎に教えられ、陰翳にゆらめく「地球の血液」がこんこんとわく温泉を求めて、西日本の最北端、北陸に向かった。

 加賀温泉郷へー山紫水明>お湯の片山津温泉
 福井市から車で加賀温泉郷に向かった。「加賀温泉郷」はその名の通り、湖畔のいで湯、片山津温泉や対照的に奥山に湧き出る山中温泉、これらのハブとなる山代温泉などが代表的な温泉町といえよう。山代温泉はその中でも最大規模ではあるが、そのぶん巨大なハコものが目立つ。個人的にはもう少し落ち着いた温泉町がよい。
 明治時代に干拓して温泉地となった片山津温泉は柴山潟の向こうに白山がそびえ、それを一望できるように金沢の生んだモダニズム建築家、谷口吉生設計のガラス張りの総湯が実に絵になる。熱めのナトリウム・カルシウム塩化物泉は全てではないがかけ流しになっている。しかし湯船から窓越しにみる山紫水明のやわらかさが、お湯の個性よりも勝っている。お湯そのものにこだわりたがる私もつくづく面倒くさい人間だ。
 マジョリティはお湯そのものよりも風景や雰囲気を求めるが、それでは酒呑みが酒にはこだわらず刺身が旨かったという感想を残し、蕎麦喰いが蕎麦の香りやのど越しはともかく、のっている天ぷらが旨かったという感想を述べるようなものではないか。「温泉教徒」たるものじっくりと湯に向き合うには、風光明媚な借景はかえって邪魔になるように思える。
  そう考えると、加賀温泉郷において温泉地としての、そしてお湯の「個性」が相対的に輝いていたのは山中温泉であったように思う。とはいえ、最初にこの温泉町をまわったときには、廃れ加減が多少残念だった。西日本を中心に、温泉地で廃業しそうなホテルを居抜きで買い、しばしば泉質は二の次で無料送迎や格安バイキングによってファミリー客を集める京都資本の湯快リゾート系列の宿が三か所もあるのには驚いた。六キロほど離れた山代温泉にも一棟あるが、ここはさらに同じように居抜きの改装で進出する大江戸温泉物語や、星のや系列の「界」もある。ただ、彼らが参入しなければそこも廃墟だろう。しかし都会の「外資」が入らないと廃墟ホテルだらけになる構造に問題はないのか。そうならないために湯よりも雰囲気づくりで天下をとったのが黒川温泉であり、城崎温泉だったのだと改めて思う

山中温泉ー行基と白鷺、そして蓮如
 山中の湯も奈良時代の高僧・行基が発見し、丸太に薬師仏を刻んで寺を開いたのが山際の真言宗医王寺だという。「医王」寺の「薬」師如来というほどだから、いかに人々がここの湯に救いを求めたかが分かる。ちなみに山代温泉もこの点は同じで、行基の開湯伝説と温泉寺が残る。その後一時廃れ、忘れられたようだが平安末期、白鷺が傷めた足を湧き水で癒しているのを見つけた。そこを掘ったら5寸ばかりの薬師仏が現れ、お湯が湧きだしたという。中興の祖が白鷺だったのだ。高僧伝説と鳥獣伝説を兼ね合わせているのが興味深い。
 時代は下って1473年にここから西に15㎞ほど行ったところにある浄土真宗の本拠地、吉崎御坊にて布教していた蓮如上人が湯治に来た。北陸は「百姓の持ちたる」真宗王国である。想像だがおそらく地元の門徒たちとともに湯浴みをし、庶民の苦しみに耳を傾け、教えを説いたのだろう。「お坊様でも門徒でも お風呂入るときゃみな裸」である。医王寺の北に白山神社があり、そこに小さいながらも蓮如堂が今なお守られていることからも、「湯治をする」蓮如上人を慕い続ける思いを強く感じた。

温泉教徒ではなかった芭蕉
 そしてこの湯治場の名を東国にまで知らしめたのは、1689年にここを訪れた芭蕉であろう。「おくのほそ道」の旅の途中、江戸からずっとお供してきた弟子の曾良(そら)や、金沢からお供してきた弟子の北枝とともに八泊九日にわたって滞在しつづけた。意外に思われるかもしれないが、芭蕉は温泉嫌いと言われている。少なくとも温泉に関心はなかったようで、津々浦々歩きながらも温泉にこだわったり、温泉の句を詠むことは極めて少ないが、例外がここである。山中温泉の公式HPでは「有馬・草津と並ぶ『扶桑の三名湯』と讃え、」と述べているが、真相はこうである。
「温泉(いでゆ)に浴す。其功有明(ありま)に次(つぐ)と云。
山中や菊はたおらぬ湯の匂」
 俳句の意味は、中国の古典に詳しい芭蕉は述べてはいないが、かの国には菊の露を飲んで不老不死の身となった「菊慈童」伝説というものがあり、菊は漢方薬になると知っていた。しかしこの山中では菊を取って漢方薬にする必要はないほど、万能の湯がある、といったほどの意味だろう。これも「温泉教徒」にとっては当たり前の話だ。むしろ「菊はたおらぬ」の部分に、漢籍を読み込んだ文人としての彼の教養を思わせる。
 彼はこの湯を有馬の湯に次ぐと人づてに聞いた。あくまで伝聞である。しかも温泉教徒ではない彼が温泉に関して一家言があるとは思えない。ただ「あの芭蕉も認めた、日本三名泉」といいたいのだろう。有馬における清少納言のようなものだろう。ちなみに草津がどこから出てきたかは知らないが、三つの共通点はみな行基伝説があることだろうか。ただおそらく私のほうが芭蕉や清少納言より各地のお湯につかっている。世間の三名泉はたたき台にすぎず、自分で湯につかり、「マイ三名泉」を形成しては更新してこそ温泉教徒だろう。

「アーティスト・イン・レジデンス」で旅をした芭蕉
 彼は泉屋という宿に投宿して句会を盛んに開いていたが、そこに隣接する「扇屋」の別荘が2004年に「芭蕉の館」として整備され、資料館として公開されている。これは1905年の設計で、芭蕉の時代の者ではないが、山中温泉一の古さを誇る。芭蕉滞在時の当主は若干14歳の若大将だったが、その父親が京都でも知られた俳人だったとのこと。俳諧という道を歩む後輩に、彼は自分の俳諧の道を残したかったに違いない。実際、彼は「芭蕉庵桃青」という自分の俳名から一字とり、「桃妖」という名をこの若大将にあたえ、
「桃の木の其の葉散らすな秋の風」
と詠んだ。おそらく若大将は芭蕉から宿代をとってはいまい。江戸時代の旅文化の誇るべき点として、文人墨客やなにか特殊な技能をもっていれば、招待状を持参することで地方の名家に泊ることが可能だったことが挙げられる。芭蕉は懐が寂しい。しかし俳諧の世界では超一流で、各地に弟子がいる。その数二千人というのは誇張だろうが、その中には裕福な者も少なくない。彼はおくのほそ道の旅でしばしば知り合いを紹介してもらって滞在し、そこで句会を開いては文化を地方に伝授していた。そう、これは平田オリザ氏が豊岡市で行っているアーティスト・イン・レジデンスそのものだ。日本にかつてあった誇るべき旅文化の一つである。俳諧はこうして広がっていったことが分かる一句である。

今日よりや書付消さん笠の露
 しかし芭蕉好きな人は当地の湯を詠んだこの句よりもこちらの文と句に注目するだろう。
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云(いう)所にゆかりあれば、先立て行に、
行ゝて(ゆきゆきて)たふれ伏とも萩の原 曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露
 お遍路さんさながら、笠に「同行二人」と書きつけ、ずっとともに歩んできた曾良が、慢性の腹痛を起こしたらしい。芭蕉の旅はハードスケジュールなので、先にだましだまし伊勢の長島の知り合いの家に行きたいというのだ。そして「迷惑をかけるくらいなら、このまま独りで進んでいき、秋の萩の野辺に朽ち果てるのも本懐である」と詠んだ。これには芭蕉もこたえた。これまでずっと歩んできた同志と別れることのつらさ。そこで「アンサー俳句」を送った。
「これまで『同行二人』でやってきたじゃないか。でも涙ながらに笠に書いたこの四文字を消すとするか」
 少しその前提について語っておいたほうがよかろう。北陸道を上りながら、彼らはいくつかの別れを経てきた。越後では連れて行ってくれとせがむ遊女を置き去りにし、金沢では通信添削のまだ見ぬ若き弟子に会うのを楽しみにしていたのに、金沢につく直前に亡くなっていた。こうした別れの末に、彼はまたもや同志を独り先に送らねばならなくなった、この口惜しさと寂しさが句にこもっている。
 芭蕉の館の前には二人の石像がある。笠を取って師匠に別れを告げる曾良の姿がかなしい。逆に、こうした別れがあったからこそ、芭蕉は宿の若大将に俳諧の道を託したかったのだろう。

総湯ー体の中に入ってくる地球のエキス
 さて、「温泉教徒」とはいえないが芭蕉も入った湯は今もこんこんと湧きあがっている。町の中心には総湯がある。「総湯」とはもともと「惣湯」と書いていた。「惣」とは団結力をもったコミュニティを指す。北陸の温泉町では共同湯のことをしばしば「総湯」と呼び、表記するが、そこには百年間他の戦国大名の支配をうけず、自治を続けてきた一向宗門徒のまちづくりのあり方が感じられる。住民によって管理されてきたこの総湯も、明治時代からは村の財産となり、組合に運営を任せるようになった。日露戦争では転地療養所になり、傷病兵をいやしたりするのは別府や道後などと同じである。
 行基が奈良時代の人だからか、彼が発見したとされる場所には現在天平時代風の鉄筋コンクリート建築の総湯がある。愛称は「菊の湯」という。もちろん芭蕉の句「菊は手折らじ」から来ている。ただしここは男湯で、女湯は広場を隔てた向こう側にある。男女別棟の共同浴場というのも珍しい。
 入り口前で飲泉ができるというので味わってみた。熱い。そしてしょっぱい。48度のカルシウム・ナトリウム硫酸塩泉というが、地球のエキスが体の中に入ってくるのをしっかり感じる。「温泉は地球の血液」という言い方も好きだが、やはり飲泉は別だ。血を飲むよりもエキスを飲むと考えたいものだ。
 館内は広々としており、中心に湯船がある。いや、それしかない。外の風景も見えない。ただ壁に地元九谷焼のタイルで再現した風俗画「山中温泉縁起絵巻」があり、古の昔、湯浴みをする人々の様子が実に生き生きと描かれている。それを見てから改めて湯船につかると、このしょっぱい湯に彼ら…芭蕉も、蓮如上人も、行基さんも…つかっていたのだという空想が脳裏をよぎる。しっかり地球の血液を体内に「輸血」してから総湯を出た。
 いよいよ西日本編最後の目的地は「プロが選ぶホテル・旅館ランキング」でいつも首位を独占する加賀屋のある和倉温泉である。

和倉温泉ー豪華絢爛、加賀屋の湯
 金沢から能登半島を北上し、七尾市の和倉温泉を目指した。途中車で走れる砂浜、千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイを北上しつつ、左側の車窓から晩夏の日本海を眺めていた。出雲人にとって能登はゆかりの深い土地である。出雲國を造るにあたり、巨神ヤツカミズオミツノミコトが朝鮮半島、隠岐の島、そして能登半島に綱をつけて引っ張ったという「国引き神話」を子どものころから聞かされていたからだ。海を介して古え人の交流があったに違いない。ちなみに1982年の島根国体の愛称はその名も「くにびき国体」だった。
 さらに羽咋(はくい)市の能登国一宮、気多神社の本殿の主祭神も大国主命であり、その他スサノオノミコトなど出雲系の神々が多く祭られている。西の海をみながら出雲人が渡ってきた先の一つである北陸を歩いている実感が湧いてきた。
 夕方、車は能登島を抱きかかえるように包み込む七尾湾が見えてくると時期に和倉温泉である。和倉温泉といえば「プロが選ぶホテル・旅館ランキング」で1980年以来ほぼ常時首位を独占する加賀屋が知られているが、予算の関係上宿泊できない。もし源泉かけ流しであれば宿泊を考慮していたかもしれないが、宿泊施設としてのランキングが一位でも、いで湯としての実力は「温泉教徒」たちのさまざまなコメントをみているとかなり微妙である。
 門をくぐると七、八名の着物姿の中居さんがお辞儀をして迎えてくれる。宿泊客でもないのに申し訳ない。フロントには塗り物の鳳凰、吹き抜けには季節の花をあしらった幅数メートル、長さ十数メートルの加賀友禅の織物が見上げんばかりに掛けられている。洋風ロビーの壁にはこれまた巨大な輪島塗による鳳凰が何羽も飛翔し、輪島塗のピアノも置かれ、さらに小上がりの数寄屋造り風ロビーもある。超一流の工芸美術館だ。能登や加賀の工芸の粋を集めた装飾にはただひたすら恐れ入る。
 「太閤秀吉的趣味」といえばそうかもしれないが、拝見しながら能登町黒川の中谷家という天領庄屋を務めた家のことを思い出した。江戸時代に輪島塗の職人たちが生活に困窮すると、総漆塗造の蔵を造らせたものが現存している。富をもつ者はもたざる者が危機に陥ったら仕事を振り分ける、現代的にいえば「公共工事」の目的で贅沢な世界を作りあげたのだ。
 おもてなしにせよ、工芸品にせよ、「プロが選ぶ」旅館の基準がよくわかった。一方で、これは入浴していないからなんともいえないのだが、動画で見た限りでは浴室内にエレベーターが付き、広々した展望露天風呂があるのだが、泉質は源泉かけ流しではないことぐらいしかわからない。

少彦名に導かれ
 外に出て能登湾の「あえの風」に吹かれながら、夏の終わりの夕方のウォーターフロントをそぞろ歩いた。夕陽が美しく沈み、薄紫色とピンク色の淡さに心惹かれる。この開放性と明るさは「陰翳礼賛」の太極にあるが、これはこれでいいなどと思っていたら夕方六時のチャイムが鳴った。「ふるさと」のメロディだ。歩くうちに少比古那(すくなひこな)神社があった。調べてみると、1200年ほど前にお湯が湧いたのを記念し、村人たちが薬師菩薩神社を建立したが、そののち湯の神である少彦名をまつり、現在に至るという。「びこな」ではなく「ひこな」と呼ぶのにピンときた。ふるさとの隣町、鳥取県米子市には少彦名を祭る粟島神社があるが、そのエリアは「彦名」とかいて「ひこな」と呼ぶ。なにやら少彦名に導かれている感じがしてきた。
 特にこの辺りは対馬海流によって出雲人の往来があったはずだ。そういえばここは米子の皆生(かいけ)温泉のように開放的な浜辺に十階建て以上の高層旅館が林立している。道がまっすぐで広いのも皆生のようだ。車社会なので、また大型バスが入るので運転しやすいという利便性にたけている一方、そぞろ歩くには黒川や鉄輪や有馬のような細道のほうが町歩きの期待感を高める。
 しおさいを聴きながら弁天崎元泉公園を歩いていると、お湯がくめる場所があったので触ってみた。熱湯だった。思わず手を引っ込めた。漁船やヨットが停泊しているが、むかしこの浦ではお湯につかってから漁に出ると大漁になるという言い伝えがあった。少彦名は漁業の神、恵比須様の化身であるということになっていることの縁起を担いだものだろう。
 平安時代に地殻変動で一時お湯が湧かなくなったのだが、11世紀にある漁師夫婦がここの浦で傷ついたシラサギが体を浸しているのをみた。「湯の湧き出づる浦」なので、「湧浦」となり、江戸時代に加賀前田藩が直轄して管理し、「和倉」温泉と改称した。以降、北前船の航路に近いこともあり、日本中にその名が知られることとなった。特に近代においては1925年に七尾線が開通してからはぐんと宿泊客が増えた。おりしも中産階級のレジャーブームに乗ったのだろう。

パンクロッカーのような尖った湯
  さて、肝心のお湯は、やはり総湯に向かいたい。無色透明のナトリウム・カルシウム塩化物泉だが、源泉の温度は92度である。入口前の広場では温泉卵作り専用のコーナーまで置かれており、足湯でくつろいでいる間に卵をゆでることもできる。飲泉所もあったので口に含んだ。しょっぱすぎて飲めない。いや、飲んだのだが、すぐにのどの渇きを覚えた。
 湯につかると、塩分の強さが並大抵でないことが分かる。事前に成分分析表を見ていたのでナトリウムの含有量がけた外れであることは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。顔を洗うと強くひりひりする。刺激の強さは日本有数だ。しかしいい湯である。個性的、というよりむしろパンクロッカーのような強烈な尖りようである。体にジンジンとくる何かがある。もちろんそれはジオの恵みだ。私にとっての「いい湯」の基準は個性的であることとジオの恵みを感じられることだということが、今更ながらはっきりした。
 総湯の公式HPによると、「ろ過器を使用しておりますが、毎日閉館時に浴槽のお湯は全て入れ替えをしてご利用いただいております。浴槽から溢れ出たお湯は常に補給し、源泉をお楽しみいただける施設になっております。」とある。つまり完全な源泉かけ流しではないことを正直に告白していることが、逆に信頼できる。源泉かけ流しではないのにこのレベルというのは驚いた。

和倉温泉にいく≠加賀屋に泊まる
 宿は旅友が探してくれた、「花ごよみ」という所に泊まった。加賀屋の宿泊料の1割余りで泊まれる大衆旅館なので、サービスも施設もご想像の通りだ。しかし一点、お湯が信じられないほどよかった。公式HPにはなぜか「お湯」というタブはなく、「館内案内」の中にごく控えめに
「旅の贅はお風呂から。ゆったりとした空間と、泉質でやすらぎのひとときを・・・・。当館は和倉温泉でも珍しい『源泉かけ流し』温泉です。決して大きな浴室ではございませんが、泉質は抜群。24時間入浴可能ですので、いつでもお好きな時間にご入浴ください。(※清掃時間除く)」
とある。実はこれこそ私が求めていたものだ。大きな浴室ではない。だから入浴者が少ないのでお湯が汚れにくく、一時間もしないうちにお湯がみな入れ替わり、新鮮な湯が楽しめるのだ。ただ24時間入浴というのは要注意で、いつ掃除するのか気になるので、フロントで清掃時間を確認してその直後のきれいな一番湯を楽しませてもらった。総湯の湯でも驚いたが、こちらは私一人だったからか、思った通りのさらに元気な尖ったパンクロックのようなお湯を楽しませてもらった。
 どうやら私のようなプロレタリアートの温泉教徒にとっては、加賀屋よりもこちらがニーズに、そして性分にあう。お湯だけよいけど後は微妙なのと、お湯以外はすべていいのでは、やはり前者を取るのだ。とはいえ改めて断っておくが加賀屋の存在は偉大だ。地域の伝統工芸を支え、雇用を支え、外部の人からすれば「和倉温泉=加賀屋」というほどのブランドを築き上げるのは、一方ならぬ苦労があったに違いない。
 ただ加賀屋に宿泊したら加賀屋から出ずに、庶民的な宿に実はホンモノのお湯があったり、近所の居酒屋の魚が実に新鮮だったりすることも知らずに、さらにはここの人々が崇めてきた神仏の存在も知らずに館内とちょっとした散歩で和倉温泉にいったことにならないだろうか。和倉温泉にいくというのと加賀屋に泊まるというのは別物だと思うのだ。同じことが、例えば星のやに宿泊する人は星のやに行くのであって、ついでにその周辺を歩く傾向にないだろうか。
 温泉教徒は温泉に主眼を置く。しかし我々を「温泉狂徒」と見る一般人にとっては、温泉の楽しみは風景と旅館のサービスとごちそうなのだろう。そんなことを思いながら翌日この地を去った。

お湯で勝負をかけない復興策 
 それから一年四カ月ほどした2024年1月1日、あの激震が能登を襲った。あの翌日歩いた輪島は火の海と化し、和倉温泉はお湯がとまるだけでなく、ほとんどの宿泊施設が営業再開を見込めないほど破損した。和倉の映像を見ながらあのパンクロッカーのような尖った湯を、体が覚えていた。自分に何かできないか考え、復興の一助にインバウンドが必要とされることは明らかだと確信していたが、あのような表面に現れない魅力を訪日客に楽しんでもらうためには、質の高い通訳案内士が必要となる。そこで私は北陸限定で被災地の復興に資する通訳案内士の卵に奨学金を出して、当道場の授業を受けていただくことにした。ほうぼうに声をかけて五人の方々に受講していただいた。
 あれから能登をずっと注視している。同年3月に「創造的復興ビジョンの6つの基本方針と事業アイデア」を掲げて和倉温泉創造的復興ビジョン策定会議関係者が県知事を訪問した。その内容の皮相さにがっかりした。曰く「美食とウェルネス」「サーキュラーエコノミー」「ゼロ・ウェイスト」「能登のコンシェルジュ機能」「シビック・プライド」「ワークライフバランス」「ウェルビーング」…まるで「観光白書」にでもありそうな空虚な美辞麗句を切り貼りしたような内容だったからだ。「じわものブランド化」という方言を使ったプラン以外は、全て土地に根付いていない浅薄な外来語がおどっていた。
 これで復興ができるのだろうか。なぜストレートにお湯で勝負しないのか。あの日本一のお湯を、ウェルネスだのウェルビーングだのいう借り物のことばでしか表現できないのか。もしかしたら東京あたりの広告代理店のしごとかもしれない。だとしたらより絶望的だ。お湯で町を復興させるという気概を見せてほしかった。
 同じころ、ニュースでレポーターが休業中の老舗旅館のレポートをしているのを見た。レポーターの最後のコメントが「いつか私たちのような一般の県外から来る人もこの素敵なロビーでチェックインして、おいしいもの食べて、七尾湾を眺めたいと思ってますよ」だった。そこに「お湯につかりたい」という希望はなかった。日本人はいつから温泉にお湯を求めなくなったのだろうか。だからそれを見越して復興策にお湯で「直球勝負」をかけようとしないのだろうか。だから城崎も黒川も雰囲気で引きつけ、有馬はレジャーで引きつけ、道後はシンボルとなって長い本館で引き付けるのか。

お湯そのものの力でまちづくり
 しかし私はまだまだ捨てたものではないと思っている。三月末に総湯が営業再開した。レポーターがその直前に総湯から実況中継をしていたが、そのとき彼は浴室でスーツに素足だった。私はたぶん初めてスーツに素足で中継する男性レポーターを見た。浴室は素足で入るべき神聖な場所だ。この温泉教徒の常識を、このレポーターも持っていたのが嬉しかった。そして再開すると町の人々が実に嬉しそうにお湯に包まれた。やはりここの人たちも温泉教徒なのだ。あの激震で傷つけられた心身を癒し、震災以前の日常に戻してくれるのは、このぶっきらぼうなまでにストレートなお湯しかなかったのだ。
 私は震災後現地に赴いていない。しかしこれらの映像の断片を見るだけでも、まだまだお湯の力で人々に訴えることができるし、お湯そのものでまちづくりをすることもできると確信した
 西日本の温泉をあれこれ歩いてきた。そしてお湯に神仏の存在を信じ、地球の力を感じてきた。だから純粋無垢な湯を求めるのならば混じり気ない源泉かけ流しとなる。そしてお湯の前には世俗の貴賤もなく、人間と鳥獣の区別すらなく、みな裸で解き放たれ、平等に湯浴みする。そして心身ともに癒され、生と死に向き合う。一神教ではないにせよ、これが宗教的感覚でなくしてなんなのだろう。これからも何かあるたびに日本のお湯につかっていき、「温泉教」を人々に広げたいと思いつつ筆をおく。
 東日本編はまたの機会に「布教」しようと思うので、こうご期待である。疲れたので自宅隣町の手賀沼温泉にでも大地の血液を「輸血」しにいこう。(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?