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全国八天守対決!

日本のお城は三百、三千、それとも三万?
 訪日客を城郭に案内する際、私は必ずクイズを出す。「日本には城郭が何か所あるでしょう?三百、三千、それとも三万?」これに対してゲーム感覚ながらも真剣に考えようとするのが訪日客。日本人はなぜか口をつぐむ。この問題を出すたび、「城郭」の定義もしないで何言ってんだと、自分自身の「確信犯的態度」が恥ずかしくなる。公益社団法人日本城郭協会という団体がある。私は中学時代に会員だったという城郭マニアだが、数えてみるとそこが選定した「100名城」のうち87か所を、「続100百名城」のうち48か所を訪問していることが分かった。
 それなら私が訪れた城郭は140か所弱か。だったら日本の城郭の総数は三百ぐらいか、というと、そういうわけではない。同協会の選定する「城郭」の中にはアイヌ民族のたてこもった根室のチャシ跡もあれば、弥生時代の集落である佐賀県吉野ヶ里遺跡もある。西日本各地の古代朝鮮式山城もあれば、明朝の影響を受けた琉球のグスクもある。さらには幕末に大砲を備えた「品川台場」まで含まれる。
 では「〇〇城」とつくところだけを「城郭」だと定義づけることができるかといわれても別の問題が生じる。鳥取県米子市には米子城天守を模した「お菓子の寿城」という菓子屋があり、熱海には城郭はなかったにしてもその名も「熱海城」という名を冠した「天守閣風」の博物館がある。それよりも何よりも有名なのが、東京ディズニーランドの「シンデレラ城」に行ったからと言って城郭を訪れたといえるのだろうか
 さらに「城郭」だと認識していないで実は城郭跡だったということがままある。高知市の名所、桂浜の坂本龍馬記念館から龍馬像などがある場所は浦戸城跡だったが、あそこを訪れた人の一体幾人が「城郭を訪れた」と実感するだろうか。あるいは上野公園には戊辰戦争時に彰義隊が立てこもった事実上の要塞といえるし、沖縄の米軍基地はまさに世界をにらんだ空の要塞であるが、これらは「城郭」なのだろうか
 そもそも「城郭」という言葉を使うのはマニア向けであり、一般人は「お城」と呼ぶのかもしれない。そして「お城=天守閣(以下「天守」)」というのがマジョリティの見方だろう。例えば川越市でボランティアガイドの面接を担当した時のこと、「川越城に行きたいんですけど、何が見られますか?」と尋ねてみたところ、「川越には城はありません。」とガイド志望の市民にいわれた。川越市民にとって「お城=天守閣」、よって川越にはないと思われたのだろう。ちなみに同じ質問を駅構内の観光案内所で問うたところ、「本丸御殿しかないんですが」となぜか残念そうに言われた。現存天守は国内12か所、現存本丸御殿はわずか二か所。希少価値からすると川越城の魅力はあまりに深いものだが、それは多くの日本人にとっては理解しがたいことかもしれない。
 今回は日本の「城郭」を回りつつ、特に天守に特徴があるところを二ヵ所ずつ選んで「対決」させることで、日本人にとって城郭とは、天守とはいったいなにか考えてみたい。

巨大城郭だった姫路城へ
 まずは日本の城の中の城、天守群が国宝であることはもちろん、単独で世界遺産に登録された唯一の城郭である姫路城を歩いてみたい。この城は様々な歴史の証人でもある。戦国時代にこの城に生まれた黒田官兵衛は、織田信長と中国の毛利氏に挟まれた際、合理的な見方をする織田氏に将来性を見出してその麾下にあった秀吉の軍師となった。そしてこの城を、交通の便が良いことを理由に秀吉に捧げた。さらにここを拠点に信長の毛利攻めの最前線として備中高松城(岡山市)を水攻めにした際、本能寺の変で信長が倒れたことを知らされた。茫然自失した秀吉に「今こそ天下を取りましょう」とその気にさせたのも官兵衛である。その後体制を整えるために軍勢を結集させ、怒涛の如く京を目指し、山崎の合戦で明智を倒す拠点となったのもこの城だった。
 秀吉の没後、関ケ原の戦いで東軍に味方した池田輝政が52万石をもって入城した。家康は譜代大名の筆頭として池田氏を信頼しており、岡山藩、鳥取藩、淡路洲本藩をあわせると合計百万石に近い大勢力となった。つまり家康は西国の外様大名から畿内を守る役割を池田氏に申しつけ、その大本営としてこの城を拡張整備させたのだ。
 姫路駅のプラットフォームにつくと、旅客の多くが北側を向く。運が良ければ小高い丘の上に白亜の天守が見えるはずだ。私の出雲の実家は田園地帯で、白鷺に慣れ親しんできたが、「白鷺城」という別名にここほど納得のいくところもあるまい。天守までは直線距離で1㎞あまりありそうだが、江戸時代には駅の北口すぐ目の前に外堀があったはずだ。それどころかかつての姫路城は周囲を外堀に囲み、内側に武家地はもちろん、町人のすむ区域まで取り入れ、戦になれば推定26000人もの民とともに町ごと籠城をするという欧州型、中国型の「総構え」の巨大城郭だった。だから駅から1分ほど北に足を進めるだけで、かつては城内だったのだ。

美しくとも地形を生かした砦
 大通りをまっすぐ北上し、かつて御殿が立ち並び、庭園があったはずの三の丸公園を歩くと、やがてチケット売り場である。そこから菱の門に向かうにつれ胸が高まる。ふと門の向こうに目をやると「中村大佐顕彰碑」が見える。明治時代に廃城になって朽ち果てつつあった姫路城を買い取り、整備して現在にまで伝えてくれた恩人を顕彰してのものである。そして右手には四角い三国堀がある。ここから右手に天守がそびえる鷺山、左手には櫓群が連なる姫山があり、この堀がちょうど谷間にあたるのが分かる。日本の城は自然の地形を利用した防御施設というのが基本なのだ。ちなみにこうした丘の上に築かれた城を「平山城」というが「鷺山」にせよ「姫山」にせよ実に女性的なネーミングである。
 ルートに従い天守に向かって歩いていく。途中いくつもの城門をくぐっていく。ARアプリを入れておいたので、例えば白壁に丸や四角の穴が開いているところでアプリを起動すると、その穴から弓矢や火縄銃の銃口を突き出して敵を撃退する侍たちが現れる。アプリのおかげでだれでも城郭の機能がよく分かる。また天守群を目の前にしたと思うと、道が急にヘアピンカーブをして遠ざかる。上から見るとおそらくひらがなの「つ」の字型のようになっていそうなこの160度ぐらいのカーブは、軽自動車でも左折できないだろう。もし敵兵がここに攻め込んで来たら後ろから押してくる友軍につぶされ、自滅するに違いない。この白亜の美女は、妍(けん)を競うかのような艶やかさを持つ反面、敵を寄せ付けない激しさがあるのを実感する。城はいかに美しくとも本質は砦なのだという当然のことを思い出した。

真っ暗な内部
 大回りをしてようやく天守内に入った。靴を脱いでビニール袋に入れる。冬は足が冷たい。一階内部はがらんどうであるが、ここは平時は女性の空間であり、戦時も女性はここに集められたという。籠城に備えて厠(非公開)や流し、塩の倉庫などがある。この事実もここが主に「女の園」だったからだ。思うに資料館と化したコンクリート天守と異なり、展示物や説明版の少ないこのようなところこそ城郭マニアとしての「リテラシー」が試される。
 さらに登っていくにつれ、さらにその「リテラシー」が発揮されてくる。例えば壁に何かをひっかける木製のラックは槍や鉄砲を備える武具掛けである。長押(なげし)にさしてある竹釘は火縄銃の縄を掛けておくところである。さらに内部まで敵に侵入されたことを想定して武士を潜ませておく「武者隠し」という空間もある。多分に自己満足であることは百も承知だが我ながら城郭マニア系通訳ガイドとしての面目躍如(めんぼくやくじょ)たるものがある。
 それにしても暗い。外観の女性らしさとは異なり、内部は無骨そのものである。私が城をはじめとする日本建築を見るときにチェックするものの一つが柱と梁であるが、ここは一階から五階まで、東西二本のもみの巨木の通し柱が天守を支えている。これらはほぞとほぞ穴で横木と連結されるが、25m近くもあるため所々腐食していたため現在は二本の柱をうまくつなぎ合わせて一本としている。この東西二本の通し柱があるため、横揺れにも負けないのだ。ちなみに現在長さ25mでこれほど太いもみの木材は国内調達することはほぼ不可能という。外観は白鷺でも、内部は牛骨とでもいおうか。
 昼でも暗い内部をさらに上っていきつつ、宮本武蔵を思い出した。吉川英治の「宮本武蔵」には、若き日の主人公がこの天守に住む妖怪を退治するために真っ暗な天守を次々と上がっていき、最後にこの最上階でおさかべ姫と出会い、喜んだ姫から名刀をもらったというエピソードがあるが、言いえて妙なほどの暗さである。

空襲にも焼け残った城郭
 とうとう最上階についた。ようやく明るい空間に出られて解放感がある。中央にこの山の神をまつる長壁(おさかべ)神社がある。武蔵が出会ったというおさかべ姫を祭るものだが、天守の頂上に鎮守の神が祭られるというケースは極めて珍しい。ここを訪れる人はみな南のほうを見る。ここから駅に向かって、スーッと伸びる大通りがまず目につく。実に整然とした街並みだ。この町がいかに「キャッスル・ヴュー」にこだわって街づくりがなされているか分かるというものだ。そしてその向こうに瀬戸内海が見える。播磨灘だ。その向こうに讃岐の山々まで見える。ここをおさえるため城と瀬戸内をつなぐ水路まであった。逆に航海中の船からもこの白亜の天守はランドマークとして見えたはずだ。
 天守の北側はそれほど大きく整然とした街並みはなく、むしろごちゃごちゃとしている。後で車で北西部を走ったことがあるが、対向車が来ると立ち往生してしまうほど道幅も狭い。しかし城の南北で街並みがこうも違うのは、南側の城下町を焼きつくした昭和二十年の二度にわたる姫路空襲の結果である。ただ姫路駅周辺から三の丸あたりは全焼したが、城郭の大部分は焼け残った。
 米軍は攻撃対象から外すものはどれか、事前に策定してパイロットもそれを守っていた。そして姫路城は一流の文化財だから攻撃対象から外れていたと思う方も多いだろうが、そうではなかった。実際、同時期に名古屋城や和歌山城、岡山城、福山城など貴重な天守が空襲に遭って焼失し、広島城は原爆で崩壊したが、姫路城は焼け残った。空襲の翌朝、真っ黒こげの城下の中にもこの天守は目立たないように黒い覆いをまとったまますっくりとたっていたのだ。城下の人はどう思ったのだろうか。焼け残った城を見て励まされたのか。あるいは町中が焼きつくされ、城だけ残っていたのを恨めしく思ったのだろうか。そんなことを思いつつ階段を下りて行った。

保険金を掛け捨てにした城?
 ところで天守の構造にも数種類あり、姫路城は今上がって降りた「大天守」の周りに三棟の「小天守」を衛星のように連ねた「連立式天守」である。上から見ると「ロの字型」に見えるこの形式は現存天守の中では他に松山城だけだ。鉄壁の構えで敵を迎え撃つという先述は分かるのだが、ここまで押しよせてこられれば敗北は明らかだろう。いっそのこと降参したことにして後で隙を見て裏切るという手もあるだろうに、ここまで細工を施すのは、単なる意地なのか?いや、意地で戦は務まるまい。戦術はあっても戦略はないのか、等と考えながら外に出ていった。
 ぐるりと天守群を回りつつ、角度を変えてみると全く別の城に見えてくるくらい「表情」が豊かな天守群だ。かつて城主池田輝政の御殿が並んでいたという備前丸から見上げると、15mの天守台の上に32mの大天守が聳えている。戦後の測定では38㎝も傾いていたというので「昭和の大修理」を行い、さらに2010年代に「平成の大修理」を終えて現在に至る。
 最後に西の丸の化粧櫓に入った。これもまたフェミニンな名前の櫓だが、それについてはここを与えられた徳川家康の孫娘、千姫について語らねばならない。豊臣秀頼に政略結婚させられていた千姫だが、大坂の陣で豊臣家滅亡の折に家康はこの孫娘に大坂城を脱出させた。そののち自らの重臣本多忠刻に嫁がせ、この城を本多家に与えたため、この化粧櫓が千姫のスペースとなったのだ。
 あちこちに女性的な香り漂うこの城だが、実は血なまぐささであふれている。城を後に歩きながら思った。ここは「保険金を掛け捨てにした城」のようだ、と。軍事的な防御にカネと技術をつぎ込み、つまり保険金をかけまくっていたのだが、戦に見舞われることはなかったからだ。ただ城の危機は明治時代の廃城令という政治的なものや、空襲という軍事的に17世紀の技術では想定しようもないことであった。しかしこれらの危機をひとつひとつ潜り抜け、名実ともに日本一の名城となった。ここに対抗しうる現存国宝天守はあるか。色々考えて私はそれを世界遺産暫定リストにあがっている近江の彦根城にしてみた。

彦根城の独自の価値とは
 琵琶湖の水城にして国宝天守を備える彦根城が世界遺産の暫定リスト入りしたのは姫路城と同じ1992年だった。しかし以後数十年経っても登録される気配を見せていない。この城には何度か登ったこともあり、姫路城とは異なる価値があふれていることを分かってはいるのだが、結局のところ「彦根城が姫路城より優れる、あるいは独自の価値を持つことを証明せよ」とUNESCO側に迫られた時、決定打となるものがないというのが現状なのだろう。よって彦根城を歩くにあたり、特に世界遺産姫路城と比べ、この城がいかにユニークであるかという視点から見ていくことで、彦根城に送るエールとしたいと思う。
 彦根駅のホームの隅からは小高い丘の上に彦根城天守などが見える。ただ逆に駅前で降りても姫路のように玄関口の駅前からずっと天守を拝みながら進むというわけにはいかず、見えたり見えなくなったりはするが、約1㎞ほどの道のりで迷うことはない。逆にいえばこの町は大々的な空襲に遭ってもおらず、また戦後の乱開発でビルだらけになったわけでもないともいえる。この山は金亀山(こんきさん)という。鶴は千年、亀は万年というが、姫路の別名が鶴ならぬ白鷺城ならば、こちらは「金亀城」である。青空を悠然と舞う白い鷺と広い琵琶湖を万年もの間泳いでいそうな大亀。後者のほうにより老荘思想的な佇まいを感じさせてくれ、私の好みである。
 そのうち堀と石垣と二の丸佐和口多門櫓が見えてきた。車で来たときはこの裏あたりで駐車できたはずだ。おそらく江戸時代には櫓門が侵入者をにらむかのように聳えていたはずの表門橋を越えると、チケット売り場である。ここでは彦根城博物館や玄宮園を見るか見ないかで料金が異なるが、全部込みのチケットを買いたい。さもないとここと姫路城の誰でもわかる違い、さらに言うならば彦根城にはあっても姫路城にはない独自性が分からないからだ。

破格の文化的コンテンツ
 チケット売り場前方の御殿風の博物館に入る。ここは江戸時代、政務を執り行う表御殿があったが、明治時代に陸軍により破却され、昭和の末期、1987年に鉄筋コンクリートで再建された。中でも特に目を引くのが藩主井伊氏の刀剣や、世に名高い「赤備え」と呼ばれる甲冑である。家康が武田氏を滅ぼした際、戦場で目立つ赤い武田氏家臣の甲冑だったが、戦後はそれを着用させたまま徳川に従った井伊氏のもとに配属された。全軍を赤備えで固めた井伊直政は関ケ原で大いに軍功を挙げ、徳川家の筆頭家老ともいうべき地位に就いた。
 その後徳川が関ケ原の西約30㎞に位置する石田三成の居城、佐和山城に直政を配属させたと同時にこの城を築城させた。その際周辺の諸大名に負担させて築かせることで、彼らの経済力をそぐ「天下普請」というやり方でこの城は築かれるのだが、完成を見る前に直政は亡くなった。さらにその次男にして後の三代藩主直孝は、大坂の陣で同じく真田丸を攻めた際も赤備えを着用して戦ったという、戦国の歴史の中でも伝説の甲冑である。
 その他、茶道具や能面、能衣装、さらには雅楽器や書画までがずらりと並ぶのにも驚かされる。泰平の江戸時代、繁栄を謳歌した彦根藩主たちは、伝統文化を極められるところまできわめていたのだ。特に風俗画「彦根屏風」は、桃山文化を継承する17世紀前半の寛永期の文化の代表であり、京都の遊里とみられる舞台で享楽に興じる男女の濃絵がここにあるということは、この藩の文化的な余裕さえも感じさせる。
 さらに行くと1800年、十一代藩主直中の時代につくられた能舞台もある。当時能楽というのは大名が身につけるべき教養であると同時に、他の将軍や大名、公家らとの交流のツールでもあり、盛んに舞われたが、「日本百名城」「続百名城」併せて二百か所の城郭の中で、城内に能舞台が現存するのはここだけである。最後に現れるのが木造で復元された藩主のプライベートゾーン、奥向き・御亭(おちん)と付随する庭である。観光客の我々ですらこの空間はリラックスできるのだから、執務中の藩主たちもこのような空間で茶をたてたりして心静かに過ごせたに違いない。
 そしてこうした藩政期の高い文化がうかがい知れる場所は、実は姫路城にはほぼない。言い方は悪いが建築という「箱」とそれを乗せる石垣という「お盆」のみ評価対象になるのが姫路城ならば、箱の中の「コンテンツ」まで楽しめるのがこの彦根城なのだ。

南北近江の城郭建築の集大成
 博物館を後にして坂道を登る。実に登りにくい。石段の幅と高さが一定でないので歩幅とテンポも乱され、普段以上に疲れるが、実はこれも敵に攻め入れられたときの地味な防御である。しばらく歩くと天秤櫓が見える。転ばないように下を見て歩いているとあの櫓から矢や銃で狙われるという寸法だ。
 城に入るとき、侵入者としてこの城を落とすにはどうすればいいかしばしば妄想する。本丸に続くこの櫓を落とすには、相当の犠牲を伴いそうだ。この天秤櫓前は四角い螺旋状の坂道になっている。登りきると木橋があるが、戦時にはそこは落とされるであろうから、結局ここまで登ってきた敵は後から来た武者におされて橋の下にいるはずの仲間の上に落下してしまうだろうことが容易に想像できる。
 ちなみにこの天秤櫓はこの北に位置する秀吉築城の長浜城にあった櫓だといわれる。その他、ここに来るまでの石垣やこの先にある太鼓門は佐和山城から、頂上の天守は琵琶湖南部の大津城からおまけに天守の裏手に地味にみえてくる西の丸三重櫓は、1853年に大規模に修築されたとはいえ、戦国時代に浅井氏の居城だった琵琶湖北部の小谷城からそれぞれ移築し、改修されたものと言われる。つまり、この城は全く新しく築城したものというより、近江の北から南までの建造物を一か所に集め、まさに交通の要所たる近江の新しい主としての井伊氏の城郭を、幕府のお墨付きで建てさせ、目に見える形で体現化したたのではないかと思えてくる。

玉音放送で中止となった彦根大空襲
 ようやく本丸の天守をしげしげと眺めるときが来た。三階建てで付け櫓のある「複合式」だが、天守台をあわせて高さは23メートル。幕府に遠慮して小さくしたのだろうが、姫路城の半分にも満たない。なるほど、これでは「位負け」しているように見えても仕方あるまい。しかし千鳥破風や唐破風のような飾り屋根と花頭窓のような装飾窓で全体を覆っている。破風を数えると十八もあり、姫路城より一つ多い。この表面積にこれだけの破風が並び、また漆喰の白に瓦の黒、そして金箔でアクセントをつけてはいるため、全体的に「厚化粧」な感じが否めない。ただこれは多分にシンプルな城が好きな私の好みの問題だろう。
 天守内部に入る。内部の梁は竜がのたうち回るようなほぼ製材しない材木を随所に使っており、その風雅さ迫力、そしてそれを可能にする匠の技に驚く。一方で鉄砲狭間や矢狭間、武士を隠しておく隠し部屋など、落城の直前まで抵抗をするための施設が整っている。ただ、先ほど外観からは狭間など見えなかったはずだ。じつは普段は破風などの装飾で見えないが、いざというときにはその下からなんと75か所もの銃口と矢がこちらを向くという。戦国大名の「武」と泰平の世の「雅」が一つになっているのが感じられる
 三階から周りを見渡してみると、やはり目につくのは琵琶湖である。二の丸には武家屋敷が残っているが、これも姫路城にはない。来るときに歩いてきた二つの堀は確認できたが、その外にあるはずの天然の堀川をめぐらせ、さらに一部に湖を取り込んだ「総構え」となっているという事実までは、あいにく見抜けなかった。建造物では圧倒的に姫路城が優位に立つが、姫路城に栄枯盛衰のドラマがあったように、ここにも色々あった。
 明治時代に廃城令が出ると、ここもごたぶんにもれず荒れ果てた。しかし1878年に明治天皇が大隈重信らとともに北陸を回る際にここを通過することとなり、みすぼらしいため保存を命じられたため今の彦根城があるという。昭和20年、姫路市は何度か空襲に遭い、市街地は全焼したが城は残った。ここは同じころ空襲に遭いはしたが、小規模だったため町もあらかた残った。しかし米軍による本格的な空襲は昭和20年8月15日夜に行われるはずだった。つまり「玉音放送」がその日の正午にあったため、「幻の彦根大空襲」となったのだ。逆にいえば降伏が一日遅れていれば我々は今見るこの城を見ることはなかったのだ。

庭を愛した茶人大老
 天守の東に位置する井戸曲輪の惚れ惚れするほど堅固な石垣を横に丘を下りきると、楽々園、玄宮園という大規模な庭園がつづく。唐の玄宗皇帝の宮殿にあやかったという玄宮園は、同じく城内にある庭園の代名詞、二条城二の丸庭園のような豪壮さはない。むしろ数寄屋造りの建築群を横目に池に浮かぶ島々にかかる橋を渡り、たどり着いたところに丘の上の天守と眼下の池泉回遊式庭園を一望できる茶室がある。
 薄茶を一服いただきながら、この城にいたある茶人のことを思い出した。彼はこの城内で32歳になるまで政治的には何事をもなさず、歌を詠み、茶の湯の稽古に励んで暮らす幕末を代表する茶人であった。それが兄の死によって急遽彦根藩主となり、譜代筆頭の井伊家であったがゆえ、ペリー来航以降は幕閣に加わり、ハリスとの日米修好通商条約締結時には大老にまでなっていた。そう、その「茶人」とは幕末の大老井伊直弼である。後にそれに反対する尊王攘夷派を安政の大獄にて処刑したかどで怨みを買い、桜田門外にて暗殺されたが、彼が幕末の歴史の渦中に巻き込まれるまでの32年間はこのような風雅な光景を眺めながら過ごしていたのだろう。
 そんなことを考えながら改めて天守を見上げた。本丸で見たときと比べて横太りのずんぐりむっくりに見える。それもそのはず、大津城の四層天守を移築したとき、幕府に遠慮するつもりで三層に造り変えたため、本来ならもう一層あってもしかるべきなのだ。それにしても四方八方から見直すと天守が表情を変えるこの面白さに関しては、姫路城に引けを取らない。
 ところで茶会では最後の出会いになるかもしれないことを想定して、その都度の出会いを大切にせよ、という「一期一会」とは茶の湯の精神とされるが、この成語を造ったのも井伊直弼だ。登城前に拝見した御殿群や能楽堂に加えて、天守を借景に臨む庭のすばらしさ、さらにそうした空間で一服の茶をいただける幸福感。これは姫路城では味わえない至福の時間である。
 城郭という「ハコ」だけで勝負すると確かに姫路城に軍配をあげざるを得ない。しかし文化という「コンテンツ」も加えて勝負すれば、決して負けてはいない。彦根市民にとって姫路城は「目の上のたんこぶ」かもしれないが同じ土俵で立つのではなく、土俵を変えるという発想も大切なのではないか、などと思いつつ、堀に浮かぶ遊覧船に手を振りながら城を後にした。

「信濃の国」松本城へ
 次に東は信州の松本城と、西は出雲の松江城を「対決」させてみたい。出雲人の私にとって信州、特に安曇野から松本、諏訪あたりにかけては一種独特の思いがある。いわば本家ー分家の関係とでもいうべきだろうか。それはまず「古事記」によると出雲が高天原に国譲りを迫られ、相撲で決着をつけた際、出雲の神タケミナカタが降参したのが諏訪であるとされることによる。これは古代出雲族と信州との交流を示しているのだろうが、それを証明するかのように中信一帯を治めたという「安曇族」の存在は、もしかしたら(adumi≒idumo)という発音の類似性から出雲族の分派なのではないかと妄想がとまらない。
 逆に出雲の近世は中信は松本藩から松江城に転封されてきた家康の孫、松平直政によって本格的に始まったといってよい。ついでにいえば「三大蕎麦」と俗に呼ばれる出雲そばのルーツも直政がもたらした信州そばとも言われている。そんな信州松本だが、私はなぜか夏にしか訪れたことがない。
 その日の朝は上田市の秘湯、鹿教湯(かけゆ)温泉から山道を20キロほど西に走って松本盆地に向かった。出発前に宿の廊下に掲げてあった書を思い出した。「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 」それは信州の人ならだれでもうたえる「信濃の国」という県歌の歌詞だった。山を突き抜けて見えてきた松本盆地を、地元では「松本平」という。「平(たいら)」とは盆地のことだ。信州の人なら「四つの平(たいら)」の名をみないえる。それは「松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地」と続くからだ。
 関東平野のど真ん中、茨城県に住んでいる私からすると、これらはいずれも小盆地であるが、山ばかり通った後に見る松本平は広大に見えるのが不思議だ。この歌詞の後に続くのは「海こそなけれ物さわに 万(よろ)ず足(た)らわぬ事ぞなき」である。信濃の国の豊かさを謳ってはいるが、江戸時代には寒冷地であるため稲作には苦労した。だから逆に温暖な西日本ではやせた土壌でも育つ救荒作物である蕎麦が主食となったのだという。

備えあれば患いなし
 車は松本の町を走るが、松江よりも高いビルが多いからか、あるいは平城だからか、町のどこからでも天守が見えるというわけではない。市街地のある信号を曲がった瞬間、「それ」がいきなり目に飛び込んできた。そのうち堀が見えてきて、漆黒の五層天守から真南、堀を隔ててすぐのところに駐車場を見つけたが、古地図で確認するとそこはすでにかつての二の丸だったようだ。
 駐車場から入口の高麗門に向かう。城郭の一般的な歩き方は、天守があれば松江城のように三の丸から二の丸、本丸、そして天守を目指すのが王道なのかもしれないが、今回はいきなり本命の天守の向かいに車をとめた。後で調べたらそこが二の丸だと分かったのだが、幅広い堀を歩き、水面に映える天守を楽しみながら城に近づけるのは、現存する十二の天守ではここと津軽の弘前城だけだ。しかも弘前城天守脇の堀は天守の全景を映すほど大きくはない。この城ならではの楽しみだろう。
 1590年代、すなわち秀吉の時代はとりあえず天下が統一されたとはいえ、まだ幕府にとって「不穏分子」が各地にいた。よって姫路城や彦根城、松江城や犬山城のように防御を考えて丘の上に建てる平山城が主流だった時代なのだが、ここは平地である。しかし防御に自信があったからこのような平城を築いたのだ。そしてそのカギとなるのがこの目の前の豊かな水だった。松江と同様、ここもかつて湿地帯に近かった。西側にそびえる北アルプスなどから流れる伏流水が町中にしみだしていたのだ。今は市民の生活用水として所々湧き水を味わうことができるが、その豊富な水を土木工事によって三重の堀に造り変え、敵の攻撃に備えて水底にはあちこちに杭を埋め込んで防御したという。
 黒門の桝形を越えると本丸である。正面から見るとまた別の表情を見せる。16世紀末期に家康から秀吉に鞍替えした三河の部将石川数正が秀吉の命でここに築城した。数正は質実剛健な農民気質の三河人にしては、豪華で軽やかな尾張風を好み、尾張との交渉役として活躍してきたが、いつのまにか秀吉に篭絡されてしまったのだ。小田原の合戦の後、石川数正がここに本拠地を構えさせられたのは、秀吉と家康の「緩衝地帯」として関東の家康に西日本に攻め入られた場合の備えであろう。まさに「備えあれば患いなし」だ。

「烏城」というより「カササギ城」か「トランプ城」?
 この城は黒い下見板張りから「烏城」と呼ばれるが、その日は青空を映し出してか、青黒く見えた。また夕陽に当たれば赤黒く光るという。漆塗の漆が反射して光るからだ。「カラス」ならば全体が黒くあるはずだが、ここはおよそ黒七割白三割といったところか。むしろ「カササギ城」というべきかもしれないが、日本で青黒く三割ほど白いカササギのイメージがすぐ浮かぶのは佐賀県民ぐらいかもしれない。しかしここであることを思い出した。確かそのころは瓦に金箔が張られていたといわれ、また天守の最上階に赤い欄干が巡らされており、信長の安土城や秀吉の大坂城を思わせる「ザ・桃山文化」とでもいうべき天守だったはずだ。つまりここが信州における権威と権力の象徴であり、それを高層建築という形で具現化したというわけだ。
 大天守は高さ30m弱で、ほぼ松江城天守と同じだが、石垣の高さが5mほどしかなく、建築部分のみで勝負すれば姫路城に次ぐ高さを誇る。しかしずんぐりとした漆黒の松江城に見慣れた私には、ダイエットに成功したスリムな女性のように見えてくる。この天守の特徴は三層の小天守と赤い手すりを備えた月見櫓によって「連結式複合天守」となっていることだ。これらは石川数正の時代から40年ほどたった、松平直政の時代に、彼にとっていとこにあたる三代将軍家光を招くために増築したものと言われる。
 ところで私の城歩き、特に天守見物の際の楽しみの一つは「あだ名」を勝手につけることだが、これを見ていると「トランプ城」と名づけたくなってきた。大天守の真ん中にある唐破風がトランプの「キング」のヒゲのように見え、またそれに付随する月見目的でつくられた櫓はまさに「紅一点」の手すりが目立つ「クイーン」である。すると独立した小天守はおのずと「ジャック」に見えてくるではないか。このように遊びながらかつて御殿が建ち並んだはずの本丸広場を歩いて天守に入ろうとすると、天守のあちこちに黒くて目立たない鉄砲狭間が確認できた。調べると天守全体で鉄砲狭間が115か所もあるという。

断層の十字路にまたがる天守
 天守内部は松江城と同じくらい柱だらけで階段はさらに急であり、やはり全体的に薄暗い。そして一二階、三四階、五六階の通し柱も確認できる。四階には御簾がかかっているが、ここがかつて書院造だったことを表している。
 そして最上階でようやく光がさしこみ、松本平の向こうの北アルプスが美しく一望できる。思うにあの稜線は西日本と東日本を分けるフォッサマグナの西側、いわゆる「糸静線」とかさなる。そしてこの平の南には日本列島を東西に横切る大断層、中央構造線が走る。日本の大断層の十字路にこの天守はまたがっているのだ。その割にはここは自身で倒壊もせず、火災にも戦災にも遭わなかったが、明治初年の廃城令によって1872年には解体の危機に見舞われた。しかし市民が中心となって城を会場に博覧会を行い、その利潤を資金に天守を買い取り、残したという。天井近くに「奉鎮祭二十六夜神」という神棚があるが、伝説によると女神が「二十六夜神」をまつればこの城を守る、とある家臣の枕元に立って言ったからだというが、そのご利益でこの天守群は残ったともいわれるが、直接的にはやはり市民の熱意のおかげでこの現存最古の桃山時代の城が楽しめるのだろう。
 注意深く手すりにつかまりながら下に降り、最後に改めて開放的で明るい月見櫓につく。「信濃では月と仏とおらが蕎麦」という俳句がある。北信出身の化政時代の俳人、小林一茶が詠んだとかそうでないとか詳細は不明だが、仏=善光寺阿弥陀如来、蕎麦=戸隠・更科に先立って「月」が美しいところではあるが、その代表の一つがここなのだろう。まるで桂離宮を思わせる趣だ。

プロジェクションマッピングの是非
 外に出て改めて天守を振り返った。おそらく1950年代まで、これはピサの斜塔のように斜めになっていたはずだ。これは「加助一揆」の祟りだという伝説がある。1686年、凶作のため9万人の領民の内約4000人が餓死したにもかかわらず藩は増税を実施したため安曇野の庄屋、多田加助が中心となって、一万人が一揆をおこした。藩は減税の要求を呑むといいながら責任者の加助らを打ち首獄門にした。首をはねられる際、加助は天守をにらんで叫ぶと天守が傾いたという。実はこれは明治時代にできた「都市伝説」というが、信州が決して「肥沃の地」とはほど遠かったことを示している。
 松本城を離れてからしばらくすると、偶然テレビで松本城のイベントの番組を見た。夜間、天守をプロジェクションマッピングによって極彩色に飾っていた。幻想的ではある。一方で、正直なところ見たいような見たくないような複雑な心境である。私が見たいのは城なのであってアートではない。いや、たしかに市内ではこの町の生んだ前衛芸術家、草間彌生の作品を中心とした松本市美術館も見学したが、城は城で、アートはアートで見たいのだ。こういう時に妙なこだわりがあることを再発見した。とはいえ国民の生活苦をよそに自らの裏金は隠しつつ増税を続ける政府に対する批判として、私が市長だったらプロジェクションマッピングで天守を傾けて見せるぐらいのことは許可するかもしれない、などと考えているうちに番組は次に移った。
 現在の天守群を完成させた松平直政はわずか五年ほどで松江に転封となった。信州で白い蕎麦を楽しんだ後は、直政の転封先にしてその後松平氏が230年にわたっておさめた出雲・松江に向かいたい。

安眠をむさぼる城下町、松江
 ここでは私が生まれて初めて「お城」と認識した城郭が故郷山陰の名城、松江城である。出雲人にとってはお城=松江城であろう。人生の何かの折にこの城にあがってきたため、逆にいえば客観視しがたくもある。ひいき目に見るか、でなければ過度にあげつらってしまいそうなのだ。コロナがあけた正月に両親と倅をつれてこの城にあがった。思うに父と上がるのは40年ぶりだったかもしれない。
 山陰の幹線道路、九号線を進み、宍道湖から中海に流れる大橋川を越えると松江の城下である。いつ来ても町中が春の午後に安眠をむさぼっているかのような眠たさを感じる不思議な町だ。この町を開いたのは秀吉の先鋒として活躍しながら関ケ原の戦いでは徳川方に与し、戦功を認められて浜松城から現安来市の月山富田城に入城した堀尾氏である。確かにその地は戦国時代尼子氏の居城として山陰山陽の中心として栄えたとはいえ、松江藩の中では領土の東に偏り過ぎているため松江の地を新たなる居城として選んだ。今では想像しがたいが、どうやらそのころは一面の湿原だったらしい。
 松江大橋を渡ると島根県庁である。昔から感じてきたことだが、典型的な、実に典型的な城下町である。城下町のリーダーたちは近代に入っても藩政期の「行政癖」が抜けなかったのだろう、城のまわりに県庁や役所の他、公立の施設をこれ見よがしに固める癖がある。現に松江も内堀から直線1㎞以内に県立図書館、県民会館、知事公舎、地方裁判所などを集結させている。とはいえ一方で城下町のもう一つの特徴として、文教を愛するというのも忘れない。茶人大名として名高い松平治郷(不昧公)ゆかりの茶道具を展示する田部美術館や明々庵、菅田庵、武家屋敷に小泉八雲旧居だけでなく、八雲が教鞭をとったという県内一の東大合格率を誇る松江北高もこの近くである。
 堀川を歩いて松江市歴史館に入った。ちょうど地元の鉄砲隊の演武を行っていた。堀尾吉晴がかつて本能寺の変の直後、秀吉の鉄砲隊を率いて明智光秀の軍を一網打尽にしたことにちなんだものだという。パーンパーンと連呼する火縄銃の音を聞きながら、中国の春節の爆竹のようだと思った。

堀尾吉晴<松平直政
 駐車場に車をとめ、堀を渡ったところに堀尾吉晴の銅像が右手を高く上げ、指揮を執っている。築城した人物とは言え松江と関わった年数が短いからか、市民の間では堀尾吉晴の名はそれほど知られてはいないかもしれないが、それはもしかしたら彼が機を見るに敏なる尾張人だから山陰の人々のこころに訴えるものが弱かったのかもしれない。なにせ信長から秀吉、家康という順に、常に勝ち組の支配下にはいることで戦国を生き抜いた堀尾氏だ。
 一方山陰の誇るべき戦国武将は没落した「陰陽十一州の太守」尼子氏の居城月山富田城が毛利に落とされるまで主君に従い、主家が滅びてもその遺児勝久を探し出し、織田方の先兵として毛利と戦って殺された山中鹿介である。要領の良さよりも愚直であることが評価される山陰において、世継ぎがなく改易となった堀尾氏や、それに代わり移封されたがわずか数年でまたもや世継ぎがなく改易となった京極氏よりも、三河土着の家康の孫にして信州松本より移ってきた松平直政のほうが安定したシンパシーが感じられたのかもしれない。

「千鳥城」<「黒鉄城」?
 二の丸の広場にはかつて御殿があったというが、その豪壮な石垣から本丸に向かうと木々の間から天守が顔を出す。一の門跡の桝形をくぐり、入場券を購入する。このあたりから見る天守が「表の顔」といえよう。赤茶がかった石垣は数キロ離れた嵩山(だけさん)からとったものらしいが、この色は中国山地特有の鉄分を帯びた岩石であることを表しており、またその砂鉄が「たたら製鉄」によって古代出雲王国を成立ならしめたという。
 天守の前に付け櫓があるのは彦根城と同じ複合式天守であるが、その付け櫓が入口となっているのは実は多くない。全体的に黒い板をはっている点では松本城と似てはいるが、相撲取りのようなずんぐりとした形である。巨大な入母屋屋根の上に望楼が乗せられている形式は「望楼型天守」といい、江戸時代というよりもそれ以前の安土桃山時代に多いタイプである。一般的には別名「千鳥城」だが、私にとってはその色とどっしりした躯体から「黒鉄(くろがね)城」である。
 側面から天守を眺めると、見た目の約九割が真っ黒であるが、中心を占める三角形の入母屋破風の存在感がとてつもないほど大きい。四方それぞれ全く異なる表情を見せるが、いずれも「裏日本」山陰の天候のごとくずっしりと寡黙である。さらに最上階の屋根の上には2mあまりと日本一大きなしゃちほこが城を守る。木造建築にとって最も恐ろしいものは火である。屋根に水中に生息するはずのしゃちほこを置くのは、天守全体が水中にあるため燃えないという縁起をかついでとのことという。

黒い天守にはやはり雪
 中に入るとまずは地下であり、そのあと薄暗い空間に灯りがともっている。2015年に二の丸の松江神社から見つかった祈祷札のレプリカが展示されているが、これによって天守が1611年に完成したことが証明され、それが国宝指定につながった。また深さ24mもあるという井戸があるが、天守の中で井戸が現存するのはここだけだという。
 急な階段をのぼっていく。まるで梯子のようだが、これも敵に侵入されても登りにくくするためという。空間が広い。それもそのはず、ここは現存天守としては姫路城に次ぐ面積を誇るのだ。ちなみに木材の多くが月山富田城の木材を再利用したものである。かつての中国地方を制覇した出雲史上の黄金時代を築いた本拠地の夢の跡を感じる。姫路城とは異なり上から下までの一本の通し柱ではなく、一階と二階、二階と三階というように数段に分けて柱を通しているが、これは当時すでに巨木が全国的に不足していたことを表す
 最上階に到着した。かつては畳敷きだったらしい。ここからは松江の町はもちろん、宍道湖も「出雲(伯耆)富士」大山もよく見える。実に雄大な風景だ。松江は福岡県の柳川や茨城県の潮来とならぶ「水郷」であるが、そもそも築城前は城下のほとんどが湿地帯だったことを思い出した。山陰の誇る雄大な山水を楽しんでからまた手すりにつかまりながら下に降りていった。
 外に出てもう一度天守をみた。正月二日なのに嘘のようによく晴れているが、いつの日か冬の日に見た雪化粧した日のじっとうずくまるかのような漆黒の天守を見たことを思い出し、青空の下の天守に重ね合わせた。しーんという音が聞こえそうなほどの静けさだった。やはり雪国山陰の黒い天守には雪が似合う
 松江城も松本城も天守としては実によい勝負である。しかし松江城ではプロジェクションマッピングを行っていない。五層天守でこの城の本質、すなわち防御とかけ離れたことをして客寄せをせず、雪の中しっかりとたたずむ孤高の天守に私はしびれるのだ。スマートさとは正反対のずんぐりした体躯。北国らしい厳しさ。それがより感じられる松江城に、地元だからではなく一票を投じたい。しかしここは家から車で30分たらずの、また戻ってくるはずの城だ。だがその時両親と倅とそろって戻って来られるだろうか。そんな事を考えながら城を後にしていった。

東西日本の要、名古屋城
 次は日本で育った人ならだれでも知っているお城の代名詞、名古屋城と大坂城を、天守を中心に「対決」させてみたい。いずれも信長、秀吉、家康の「戦国三英傑」が深くかかわった城郭であり、また巨大な鉄筋コンクリート造りの「昭和天守」という共通点をもっている。
 名古屋駅から車で名古屋城を目指す途中で日本に三本しかない巨大な「100m道路」を通った。「久屋大通」と「若草大通」である。昭和二十年の空襲で焦土と化す前は、市内にはまだ江戸時代の城下町が残っていたという。戦後は焼け野が原を整備して現在のようになったという。ちなみに「100m」というのはキリがいいからというのが都市伝説ではないのが興味深い。名古屋城に向かっていくとビルの上に櫓が乗せられたビルが二棟続く。戦前に建てられた名古屋市役所と愛知県庁だ。この町の「お城愛」が伝わってくる
 二の丸駐車場に車をとめて空堀の橋を越える。信長が生まれた那古野城はこのあたりだったというが、後に清洲に移り、1610年、徳川家康が築城を開始するまでは廃城だった。この時期に家康がここに鉄壁の城塞を築いた理由は1614年に起こした大坂の陣で、万一豊臣方が勢いづいて駿府や江戸を目指した際、二条城も彦根城も落とされたらここから東には一歩も入れないという覚悟を示すためだった。城の造営には多くの大名を従事させたが、この城が絶対落ちないことを築城しながら悟った諸大名は、大坂の陣ではほぼ徳川家に与した。大坂の陣および家康の没後、彼の九男である義直が名古屋に移封され、御三家の一つ尾張徳川藩が成立した。

文武の共演
 見るからに堅固な造りの東門の桝形を過ぎると、「造園大名」小堀遠州、そしてその師にあたる古田織部の手による二の丸庭園が復元されている。観光客は城目的で来るため、庭にまで目がいかないからかいつ来ても見学者は少ないのだが、手入れの度合いはともかく、岩々がそれぞれ語りかけてくるような魅力を持つ庭である。無骨なだけではなく、庭を通して風流を愛する気持ちが感じられるのは、彦根城にも通ずる。実は正門からではなく東門から入城する理由は、この庭を見たかったからだ。
 東南隅櫓を横目に表二之門に向かう。ここも空堀だ。水をなみなみとたたえた堀も城の西谷北にはある。ただ水堀だと防御には強いが、反撃力に欠けるため、空堀になっているのだ。さらには反撃を意図して、本丸の堀の内側には分厚い壁の多門櫓という横長の壁で守り、敵を寄せ付けなかった。そして複雑な桝形の虎口に入る。「虎口」とはよく言ったものだ。ここに入れば周りから集中砲火を浴びることは火を見るより明らかだ。
 そしてすぐ左手に空襲で焼失して2010年代に正確な再建を実現した本丸御殿である。領主の邸宅兼謁見室でもあった御殿の中に入ると白木の壁にまばゆいばかりの金色に輝く狩野派の障壁画がずらりと並び、かつての栄華を偲ばせるに十分だ。ちなみにこれら豪華絢爛な襖絵は千面以上、空襲直前に倉庫に移されていて焼失を免れたものを正確に模写したものだ。御殿の白木の部分が全体的に初々しく、二条城二の丸御殿を新しく作ったかのようである。庭→虎口→御殿と、文と武をかわるがわる見せてくれるのが目の保養になる。

横綱級天守の「貯金通帳」とは?
 次に最後の天守を下から望む。ここは2018年から登閣できず、木造天守完成のめどがまだつかないため、コンクリートの巨大な塊を下から仰ぐほかはない。日本最大にして最高を誇るこの漆喰で白塗りされた層塔式天守は、防火のための工夫が施されています。その後、天守の重みで天守台が傾いたため、1752年により軽い銅瓦に改修されました。はじめは赤銅色だった銅瓦も経年変化でさびて緑色に変化したこの天守は、大きさと言い、スタイルと言い、あらゆる意味で天守の完成形と言われている。私ならそのでっぷりした体格から「横綱城」とでも名づけたい。
 ところで名古屋といえば左右平均約260センチ、重さ1200キロ以上もの金のしゃちほこである。最初に完成したときに使用した金の重さは両方で229㎏という。今でいえば時価二十億円以上。このしゃちほこにまつわる逸話の中で、強風の日に大凧に体を縛り付け、屋根に上って金しゃちほこの鱗を盗んだという話は実話ではないが、1937年1月のある夜に賊が天守に侵入し、雄のしゃちほこの鱗58枚を剥ぎ取ったというのは事実である。
 「金鯱(きんこ)城」という異名を持つほど名古屋人が誇るしゃちほこだが、その他にも受難は多い。まず尾張藩の財政難により三度も改鋳され、その都度金としての純度が低くなってしまったのだ。明治維新を迎えると徳川から薩長に「献納」され、1873年のウィーン万博では日本館の目玉として展示することで、外貨稼ぎをすることになった。つまり藩や国家が経済難に陥ったときの「預金通帳」が、結果的にしゃちほこだったのである。

空襲で燃え上がった天守
 そういえばまだコンクリート天守内に入れたころのことを思い出した。城マニアとして長い間「鉄筋コンクリート天守は邪道」と決めつけ、価値がないと思っていた私だが、その考えが変わりはじめたのはこの名古屋城を訪れてからだ。
 昔から怖いものを四つあげると、「地震雷火事親父」が相場だったが、それは城郭にも当てはまる。つまり地震(伏見城・小田原城等)、雷(金沢城・徳川期大坂城他)、火事(江戸城・松前城他)、親父=新しい権力者による破壊(萩城・島原城他)など、枚挙にいとまがない。しかしわずか数カ月のうちに七棟の天守を焼きつくしたのが昭和20年の米軍による空襲及び原爆投下である。平成の大改修前にコンクリート天守内の博物館を見学した際、「尾張名古屋は城でもつ」と地元民に愛されてきた名古屋城天守が空襲に遭って燃える写真とその際破れた襖が展示されていた。戦災に遭っている天守の写真はこの一枚だけだ。多くの城を見てきたが、城内の展示物で真っ向から戦争の愚かさと平和の大切さを主張する初めての城が名古屋城だったのだ。
 あらためてコンクリート天守を見ながら思った。家康がこの城を日本一の大要塞としたのは、あまりの難攻不落さによって諸大名に戦争を起こす気を起こさせなくするためという「抑止論」のような面があった。しかしその城が、戦時中のB29の焼夷弾によって炎上し、市民、国民が戦意を喪失し、あるいは二度の核使用によって、戦後の我々が平和を希求するようになるという「核抑止論」に繋がるようにも思えるのは、歴史の皮肉というほかはない。

「市民天守」の名古屋城
 昭和30年代になるとようやく戦災から復興し、高度経済成長の道を歩むようになると、名古屋城天守再建の気運が高まった。それは同時期に雨後の筍のようにコンクリート天守が林立するさきがけの一つとなった。ところでコンクリートというのは平成以降の感覚では文化財的な価値がないと思われがちで、それが「おらが国のお城」というのはいかがなものかと思われる。しかし終戦間もなくの焦土の中から立ち上がった市民の気持ちを忘れてはならない。名古屋の人々は自慢の城が焼かれるのを目撃した。もしそれが鉄筋コンクリートだったら焼夷弾でも燃やせなかったはずだ。そうした生々しい実体験から、コンクリート天守こそが復興の象徴となったのだ。つまりこの城で燃やされる天守の写真パネルと破れた御殿のふすまを目の当たりにし、自分こそ天守の復興を被災した自分自身の生活の立て直しに重ね合わせた人々の心を私は無視してきたことに気づいたのだ。
 復興期の天守の再建は並大抵のものではなかった。市民も国民もまだ貧しかったころ、三度の飯を二度にしてまで戦前同様の外観を持つ天守を見たかったのだ。広島市民が焦土の中から原爆症を引きずりながら広島カープを応援して樽募金をし、この市民球団のために一喜一憂して戦後を歩んできたのを思い出す。それを名古屋市民は名古屋城の復興に夢見たのだ。金銭面だけでなく、物理面においても難航をきわめた。築城名人加藤清正の設計とは言えども一度焼けて脆くなった高さ20mの天守台の上に、高さ36m、総床面積日本最大のこの天守をコンクリートで再建するには、当時思いつく限りの知力と体力、そして財力をつくしたことは今なお名古屋市民のなかでレジェンドとして残っている。
 工事を請け負った会社は利益よりも使命感に突き動かされており、現場からの叩き上げでのし上がった社長がトレードマークのニッカーポッカーを着込み、手に扇子を持ちながら、大赤字前提で天守を再建した。それが名古屋人の「心意気」だからだ。天守台が崩れそうになっても、完成直前に伊勢湾台風の直撃を受けても、見事に仕事を貫徹した。名古屋城を建てたのは家康であり、小堀遠州であり、加藤清正であるというのは一つの正答にすぎない。少なくとも今の名古屋城を建てたのはこうした名古屋市民である広島カープが「市民球団」ならば名古屋城は「市民天守」なのだ。

木造天守復元とバリアフリー
 それにしてもこの城を歩いていて思い浮かぶのが、時代の変遷につれて変わっていく天守の存在理由である。織田氏の軍事拠点であった戦国時代。御三家尾張徳川家の権力の象徴であった江戸時代。捨てさるべき封建時代の遺物とされた明治初期、空襲の目印だった昭和20年夏、そして復興のシンボルだった昭和30年代。天守が持たされてきた数奇な運命は、当時の時代の流れを如実に表している。
 その後、経済的、文化的にも成熟し、「本物志向」が標準の平成になってからは、文化財としての価値が重んじられ、往時と同じ材質で、しかもオリジナルの設計図や写真がなければ文化庁も再建を許可しなくなった。さらに2017年には名古屋市長が天守を木造で再建することを決定した。コンクリート天守の再木造化は、本邦初のこと。500億円以上もの事業費をかけてまで行うこの再建には、市民の熱い思いが伝わってくる。三十年にわたる不況続きに苦しんでも、「名古屋らしさを取り戻す」ためには背に腹をかえられないことがあるのだろう。
 とはいえオリジナルにこだわるあまり、高齢化する社会においてバリアフリーに留意しないなど、街のアイデンティティよりも個人の人権が重視される現代にいかがなものだろうか。時代により価値観は変わる。そもそも木造天守でなければニセモノというのは平成的価値観にすぎないのではないか。しばらくすれば、木造天守もレプリカに過ぎないという価値観が出てくるかもしれないではないか。ここは尾張名古屋は城でもつ土地柄の「市民天守」だ。戦後復興期には身障者や高齢者のことは後回しになったが、1995年、平成になると外部からエレベーターを敷設した。美観を損ねるという人もあったろうが、それが「市民天守」のあるべき姿だろう。
 私も新しく木造で建てられた「令和天守」が見たい。そしてそれは江戸時代と寸分たがわぬレプリカではない。城は市民に見守られる存在であると同時に、市民のあり方を見つめてきた。家康の時代から四百年以上たっても封建時代のメンタリティそのままでよいのか。我々の「市民意識」を「市民天守」に見てもらうという意味でも、私は「令和天守」の可能な限りのバリアフリー化に賛成である。天守も私たちもアップデートされるべきなのだ。そんなことを考えながらおそらく2030年代に完成するであろう天守を夢見つつ、広大な城を後にした。
 
水に囲まれた庶民の一大要塞、大坂城
 大「阪」府大「阪」市にあり、公式ホームページやパンフレットには「大『阪』城」とあるのにファンたちには「大『坂』城」、さらにコアなファンには「おおざかじょう」とまで発音されるこの天下の名城だが、そもそも戦国時代初期に上町台地の北端に蓮如が浄土真宗の拠点として寺内町を形成した時はちょっとした坂の上にあったからだろう、「小坂(おさか)」と呼ばれていた。当時このあたりは淀川・大和川水系の大きな中州で、心斎橋周辺は川だった。そして西にしばらくいけば瀬戸内海になっていたという。つまりここは庶民中心の真宗門徒による物流の拠点だったわけだ。
 小坂がそのうち大坂となり、1570年代には信長がここを自分の新しい居城として狙ったが、十年かけても軍事力では陥落しないことからも、いかに要害の地かがわかる。門徒衆を支えたのは地形だけではない。海と繋がることで中国地方の毛利から支援を受け続けることができたことも十年持ちこたえられた大きな要因だ。交渉の結果本願寺勢力を京都に移転させたが、そのすぐ後に信長が亡くなり、後をついた秀吉が居城として選んだのもこの大坂だった。
 秀吉は台地の周りに石塁をめぐらし、鉄壁の城と造り変えたが、そもそも秀吉は尾張中村の庶民出身。庶民の門徒衆が築いた要塞を、庶民出身の秀吉が完成させたのだ。さらに秀吉は城の西側を町人の町として開発し、黒地に金をあしらった天守がそのメインストリートからよく見えるように街づくりをした。戦後姫路の町が白鷺城をランドマークとして見えるような街づくりをしだす数百年前の話である。
 同じ県と言えども愛知県は派手好き商人気質の尾張人と地味な農民気質の三河人に分かれるという。信長秀吉は尾張人、家康は三河人である。「錦城」とも「金城」とも呼ばれるこの城は、金色が最もよく映える黒地の望楼型天守だった。

日本最大、最高、最強の石塁群
 大阪城公園を訪れる際、南西に位置する地下鉄谷町四丁目駅から行くか、南東に位置するJR大阪城公園駅から行くかでいつも迷うが、初心者は谷町四丁目で降りて大阪歴史博物館10階の展望ロビーで城郭の全貌を見てから行くのがいいかもしれない。ここから見る大坂城は巨大な石垣の連続に度肝を抜かれ、正に圧巻である。秀忠は秀吉時代の石垣をすべて埋めて新しく築きなおしたため、最高32mという日本最高の石塁となった。これによって西日本の諸大名ににらみを利かせる「抑止力」としたのは名古屋城と同じ発想だろう。
 博物館から出て大手門に近づくと、先ほど展望ロビーからみた石塁が詳細に見えてくる。一説によると石の数は百万以上と言われ、小豆島など瀬戸内地方から切り出して運び込まれた。最大幅90mともいわれるこの堀端には、他の城なら天守として通用しそうな三層の櫓群が今なお数棟残っているが、幕末には全体で十一棟あったという。
 門をくぐると日本最大の桝形虎口で、あちこちに見える鉄砲狭間がこちらを狙うだけでなく、権威を表すための巨大な「鏡石」がいくつも桝形に貼りついている。名古屋城にも清正石という鏡石があるが、それをはるかに上回る。堀と石垣だけでいえば名古屋城より大坂城のほうが勝っている。さらに門の上を見ると巨大な梁が。梁の太さや長さも権力の誇示である。

脳内誤作動で秀吉を偲ぶ
 しかし私はここらでいつも混乱してしまう。この巨大な石塁群や幅広い堀や巨大な梁に驚嘆しながら、分かってはいても太閤秀吉の権力と混同してしまうのだ。秀吉の築いた大坂城はこの地下に眠っていて、今地表に見えるものは大坂の陣の数年後、徳川二代将軍秀忠が全体を埋めなおしたもの。だからこれらの巨石群も、もちろん秀吉が命じて持ってこさせたのではなく、秀忠の命によって諸大名が瀬戸内海から切り出したものだ。そして石垣の所々に各大名の印がミノで打たれた「刻印石」があちこちに見られるのは今でいうなら「ネーミングライツ」だが、これらもみな諸大名が秀吉のためではなく将軍家のために貢献していることをアピールするためのものなのだ。
 そしてしばらく天守の南の空堀沿いに歩くと明治初年に秀吉の霊を祭った豊国(ほうこく)神社の鳥居が見えてくる。くどいようだがこの地は秀吉時代の石垣の上に盛り土した徳川将軍家による城郭だ。また大政奉還のあと鳥羽伏見の戦いが起こるや、十五代将軍慶喜はここから抜け出し、大坂湾に浮かべていた軍艦で江戸に落ちのびた。名目上とは言え最後の城主は慶喜である。しかし徳川家康を神格化した東照宮ではなく秀吉を神格化した豊国神社である。徳川家の影は全くないのだがこの巨大な石の要塞は紛れもなく徳川家によるものだ。
 桜門を越えて巨大な蛸石をみる。5,5m×11,7m、約108トンの日本最大の鏡石だが、実は奥行きはわずか70㎝であることから、効率よく幕府の権威を見せつけているのが分かる。岩の奥行きまでは見えないからだ。しかしその上にコンクリート天守の上層部が見える。これでまた私の頭が誤作動を起こす。徳川期の蛸石の向こうに秀吉時代の天守を模した昭和コンクリート天守。これで脳内誤作動を起こさなければ城郭マニアではない。

「上豊下徳(?)」のコンクリート天守
 あっけにとられながら本丸の広い園内を歩く。ここには本来本丸御殿があったはずだが、徳川慶喜が江戸に下った直後、火災で全焼したという。それはさておき、天守に向かいながらさらに脳内誤作動が激しくなる。あの四角い巨石を積み重ねた天守台も、秀忠時代のものなのだが、その上に1931年に市長が音頭を取って市民、府民、国民の寄付によって完成させた目の前の昭和天守は、最上層は屏風絵に描かれている秀吉時代の天守の上層部を模して黒い下見板張りに金箔で竜虎をかたどったものがこちらをにらむが、そこから下の白い部分は秀忠時代の漆喰壁だ。「上豊下徳」という成語(?)が頭に浮かんだ。
 あえて言うなら秀忠時代の基礎に秀吉時代の夢を想像して乗せたエンターテインメント施設と言おうか。天守に向かって左手に本丸庭園が見える。桜の時期には庭と城のコンビネーションが実に「日本風」でマッチしてるのか、訪日客御用達の撮影スポットとなっていた。日本の庭に必要な三大要素というと、石、木、水であるが、ここには素晴らしい石はほぼ見当たらない。むしろ大手門周辺の巨石群、水堀、そして門を支える柱や梁という巨木こそ、大坂城の三大要素ではないかと思えてきた。
 そんなことを思いながら入場券を購入し、長い列に並びながらしげしげと天守を見上げる。天守台は秀吉時代にはほぼありえなかった、定規でまっすぐな切れ目を入れたかのような江戸時代の技法である。これで秀吉を偲んでしまったら城郭マニア失格である。それにしても見上げるたびに巨大な三角形の千鳥破風が三つも連続している。子どものころからおもっていたが、まるで巨大なおでんを三つ連続で串刺しにしたかのようなイメージだ。
 ところでここは1931年当時、世界的に流行した鉄筋コンクリート造りだが、シンプルなモダニズム建築ではなく、装飾性がおびただしい。これを日本建築史のどこに当てはめるべきか悩ましい。例えばそれから約30年後に外観復元した名古屋城や熊本城と比べるべきべべきか、あるいは同時代に建てたコンクリート建築の最上層をアジア風装飾で覆う「帝冠様式」と見て、名古屋市役所や九段会館、さらには満洲国関東軍司令部(現吉林省共産党委員会)の仲間として見るべきか、あるいはいっそのこと実際には世界のどこにも存在しなかったファンタジーの世界を体現化したといういみで東京ディズニーランドのシンデレラ城と同列に見なすべきか、マニアックな思索にふけっているうちに、入場の番が来た。

利便至上主義と新しい物好きの浪速っ子
 内部は博物館であるが、城郭として機能していた約300年の歴史のうち、9割は徳川家の城であったにもかかわらず、わずか1割、30年間の豊臣家の時代が展示物の9割を占める。最上階から見渡すと東に生駒山脈がよく見える。大坂の陣の際は東と北の低地は淀川を決壊させたため水没し、徳川方をてこずらせたはずだ。さらに南に目を転じると、あべのハルカスの手前に真田丸があり、激戦地となっていたはずだ。
 「はずだ」「はずだ」の連続になってしまうが、本丸の東北東に目を転じると、おそらくそこに秀吉時代の天守があったはずだ。ちなみに現在の昭和天守は高さ約55m、秀吉時代のものは40m未満、秀忠時代のものは約59mとされる。現在の展望台の位置からでも秀吉時代の天守よりは高かったはずだ。それでもやはりここから眺める人々は太閤秀吉のことしか考えない。なぜ史実を忘れてまで、秀吉ばかり目に浮かぶのか。ひとつ思い当たるのは、徳川期の天守が高いから徳川を顕彰したいというのではなく、浪速っ子の気質にぴったりあうのがオープンで庶民的な秀吉だったからではなかろうか。松江における松平直政のようなものだ。大坂は「天下の台所」と呼ばれた商人のまちであり、こんな巨大な城郭はあっても城下町ではない。むしろ商人の町である船場や道頓堀のはずれのはずれに巨大な城郭が所在なげにあるような趣すらある。
 この浪速っ子のもつ庶民的な利便至上主義や新しもの好きを表すのが、戦前に鉄筋コンクリート天守を作り、当時最先端の電気エレベーターで上まで上がれるようにしたことである。他の城下町ならば伝統のもつ重々しさに市民があやかろうとするのだが、浪速っ子たちは城を自分たちの気質に合わせて作り直そうとしたのだ

エレベーター設置は「大きなミス」?
 2019年、7月、サミットで訪日した国賓をここに案内した安倍首相が、「エレベーターの設置は大きなミス」と言い、各団体からクレームが来たので陳謝した。しかし人権問題とは別に、アカデミックな歴史考証などどこ吹く風で、お年寄りでも登れる便利なエレベーターで最上階まで行って当時「大大阪」と呼ばれた繁栄を一目見られるようにすることを疑わずに実行したのがなんと1931年だったことに、この街の庶民の価値観を見せつけられるような気がした。
 そのエレベーターで下に降り、天守台の北側、東側に回った1945年の空襲の際、1トン爆弾がさく裂したため岩が黒ずみ、今なお石垣の石が少しずれているのが確認できる。これがあと数メートルずれていたら天守に直撃し、コンクリートと言えども大破していたに違いない。しかし大阪市民ならたとえ焼失しても、もっと便利で最先端の「おもろい」天守を再建したに違いない。
 さて、名古屋城と大坂城。天守比較をするとどちらに軍配を上げたいか。歴史考証にこだわるがあまり人権面のアップデートができない名古屋城と、そもそも歴史考証もせずプラグマティズムを反映した大坂城。全く別の価値観で天守を再建してきた両城だが、大坂城天守に対する大阪市民の思いと、名古屋城天守に対する名古屋市民の思いを比べてみると、大阪では天守以上に人々を励ますものがたくさんある。例えば粉モンであり阪神タイガースであり、お笑いである。しかし名古屋はどうか。確かに名古屋めしがあり、中日ドラゴンズもあるが、城のもつ意味が大阪以上に強いように思えてならない。だから木造天守を寸分たがわず再現したくなるのだろう。城はなくても大阪人は存在しうるが、城のない名古屋人というのはあり得ない。この思いの強さを買って、名古屋城天守のほうに軍配を上げたい。
 あとは大坂城天守が完成した百年後、2030年代の完成を待って名古屋に赴き、装いも新たな令和の木造天守に入るだけである。

虚空に弧を描く石垣ー熊本城
 昭和の戦前戦後を隔てて復元された大坂城、名古屋城の次は、復元に対する「正直さ」を基準に、2016年4月の大地震で大きく損傷し、復興が現在進行中の熊本城と、原爆により数秒間で崩壊し、再建されはしたが、今後の木造再建を検討している広島城を「対決」させてみたい。
 2015年の暮れに熊本城を訪れた。断崖絶壁の下に河川工事で坪井川を堀にしただけでなく、行幸橋近くの馬具櫓から竹の丸を通って飯田丸に向かう道は六度も折れ曲がった桝形が続く。これら一体に飯田丸五階櫓がにらみを利かせていたこともあり、ここを突破できる敵などいなかった。
 登りきると二様の石垣の向こうに黒い大天守、小天守が顔をのぞかせる。それにしても何度訪れてもこの石垣の美には心打たれる。「扇の勾配」といって、石垣が虚空に弧を描いている。「城といえば石垣」というほど石垣好きの私だが、ここと萩城天守台の美しさは突き抜けている。「武者返し」、すなわち敵が登ってきても必ず途中で落ちてしまうという仕掛けになっているというが、「清正(せいしょう)流三日月石垣」とも呼ばれるこの石垣は1599年に熊本城ができる3年前、慶長伏見地震で秀吉の伏見城石塁が崩壊したのを目の当たりにした加藤清正が、戦だけではなく耐震構造を考えて角度を考えに考えた結果完成した、最も崩れにくい究極の物理学の賜物である。こうした完璧な備えにしなければならない理由も、秀吉の親戚筋にあたり(両者の母親がいとこ同士)少年期から小姓として召し抱えていたため信頼できる清正に、島津を抑えるための九州の重心としてこの地を守らせたかったのだろう。

銀杏の木とくまもん
 さらに進むと21世紀に入ってから木造で再建された、狩野派のきらびやかな障壁画や、目をみはるばかりの豪壮な梁と柱にため息が出る本丸御殿である。それは名古屋城本丸御殿と肩を並べるほどの出来栄えだ。そして御殿の下をくぐって広場に出ると、高さ21mの銀杏の木が出迎えてくれる。熊本城天守はしばしばこの木とともに撮影されるが、それはこの城の別名が「銀杏城」だからに他ならない。なお、神社仏閣の境内にしばしばこの銀杏の木がある理由は、水分が多く防火に役立つうえ、籠城した際にはその実を食用にできるからと加藤清正自ら植えたとされる。
 この城の大きな特徴は、単に軍事だけでなく防災も考慮したり、あるいは籠城した折の持久力を重視した設計になっている点だ。例えば城内には120か所もの井戸があるが、文禄の役で小西行長とともに先鋒を切った加藤清正が蔚山(ウルサン)城を包囲された際、水不足に悩まされたことへの教訓だという。また、土壁にはかんぴょうが塗りこめられ、畳には芋のツルが編み込まれているのも、さらに言えば小天守に厨房があったのも、籠城を意識してのことである。「腹が減っては戦はできぬ」。軍事面をサポートするのは精神論ではなく食料と水だということをよく知っていたのが歴戦の勇士、清正だったのだ。防衛費はうなぎ上りに上げるが食料自給率は三割台の現在の日本の首相とは格が違う。
 改めて白い下地に黒い下見板張りの望楼天守と小天守を眺める。ずんぐりとしたその躯体は何度見てもツキノワグマのように見え、そのうちご当地キャラ「くまもん」の親子にしか見えなくなってきて、コミカルな近寄りやすさを感じさせる。そして天守に入る。西南戦争の際、西郷隆盛率いる薩軍が明治政府の拠点だった本城を包囲した際、城を預かった谷干城が自ら城に火を放ち、背水の陣を敷いて薩軍を追い返した。52日間の籠城の後、引き上げた西郷曰く「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」その際灰燼に帰した天守を、1960年に外観のみ可能な限り再現した。
 その割には内部は多少興ざめだった。天守ではなく完全な博物館だったからだ。むしろ四角四面の鉄筋コンクリート建築だったら「城」という認識がないのだが、なまじ城内の天守台の上に外観が天守風の博物館があると、天守というより「天守風建造物(=歴史ファンタジーの産物)」のほうに私の脳内で自動分類されてしまうからかもしれない。とはいえ館内の見学を終えて改めて天守をみると、天守台があまりに素晴らしいだけに、残念ではある。

「ご本尊」は宇土櫓?
 一方で私にとって最も心に突き刺さる城内建築は、西南戦争も熊本空襲も生き残った、言い換えれば西郷隆盛にもB29にも負けなかった宇土櫓である。加藤清正のライバル、小西行長の居城、宇土城から移築されたかどうかはともかく、約20mの石垣の上に聳える19mの五階三層の櫓は、西南戦争後に天守に変わり熊本城のシンボルとして聳え続けた。なお、19mという高さは現存天守でいえば姫路城、松本城、松江城に次ぐ日本で四番目の現存城郭建築だ。明治初年に陸軍の管轄下に置かれ、熊本鎮台本営が移転してきた熊本城跡だが、1920年のワシントン軍縮条約で予算が激減したため櫓まで維持補修できず、地元の第六師団関係者を中心に募金活動で基礎をコンクリートに、内部は鉄筋で補強した。熊本城は軍の管轄であると同時に市民のものになったことの表れだろう。そして1933年には国宝に指定された。
 千鳥破風が大天守、小天守と異なって直線的なところが、曲がったことが嫌いな頑固者ー「肥後もっこす」らしさがあってほほえましい。実はこれは大小天守に続く「第三の天守」と呼ばれている。ちなみに宇土櫓の堀の向こうからファインダーを向けると、なかよく「三棟の天守」が見える。私は清正の時代から風雨と砲弾と焼夷弾と激震にも耐えてきたこの城の本当の「ご本尊」は宇土櫓だと思っている。そして背後の大小天守はいわばそれを後ろから見守る「脇仏」だ。呼称は「櫓」で天守より一段低く見られがちだが、結局「天守」かどうかはその城における相対的な関係になるのではなかろうか。そんなことを考えながらこの城を去るとき、まさか百日余り後に熊本をあの激震が襲うとは思ってもみなかった。

“before”と “after”
 2016年4月の大地震は、多数の死者を出し、熊本城も瓦解した。画面で見る熊本城は瓦が落ち、石垣も壁も崩れ、満身創痍だった。数カ月前に見た飯田丸三重櫓は、わずか一列の、高さ数mの石垣で今にも落下しそうな櫓を支えていた。「ご本尊」の宇土櫓は外観は思ったよりしっかりしていたが、内部はかなり傾いていたという。しかし扇の勾配は健在であった。これは斜面に平行なら積んだ岩が飛びし出やすいが、直角なら飛び出にくいという物理学の英知に基づくものらしい。
 その年の暮れにまた熊本を訪れた。宿は復興作業員であふれていた。翌日熊本城を訪れると、テレビで見た被災地の世界に投げ込まれたようだった。石塁は崩れて砂地を見せ、天守群も瓦が崩落していた。それまで百五十ほど城を見てきたが、ここまで痛ましいものはなかった。まぶたに浮かぶ昨年の“before”と、目の前の “after”と対比しないではいられない。一方で清正の築いた時代の石垣はほぼ立派に残っていた。清正は西郷だけでなく、大地震にも耐え抜いてみせたのだ。だがその時点で完全復興まで20年、その後の発表ではさらに2052年までかかるという。

「仕事」へのこだわり
 そこで目にした作業員たちの仕事に注目した。「仕事」に関して日本人らしい緻密なまでのこだわりに心を打たれたのだ。金銭のみを求めるならば、クレームがでない程度に、無難な仕事をしようとする。しかしそこに自己の存在を投影するとなると、こだわりが生じる。数十年の工期は長いが、その理由は崩落した十万個もの石垣の石に一つ一つ番号をつけ、移動させてからもう一度一つの間違えもなく積み直すからだ。見つからない石は、そっくりの形のものを探してくる。一度に崩して積み直せば工期も短縮され、税金の投入額も抑えられるはずだ。そもそも崩落前の写真といちいち比べる人などほとんどいない。しかしこれは営利業務ではなく、どこまで本物に近づけるかという復元に携わる研究者や土木作業員たちの挑戦であり、プロとしての「意地」なのだ。石の形など素人には分かるわけがないからといって妥協するのは、仕事に誇りを持つ職人魂を傷つけるに違いない。
 しかし自己実現だけでは単なる自己満足になりかねない。それを補うのが日本語の「仕事」のもつもう一つの側面である「社会貢献」だ。熊本城は熊本人の誇りである。あの巨石の連なる石垣と重厚感ある天守に見守られて育つことは、何にも代えがたい誇りであるはずだ。それゆえ、経費削減とはいえ適当に積み直した石垣では、熊本人の誇りを傷つけることになる。県民は熊本城の復興を、故郷の復興の可視的な指標とし、それを見て励まされる。それをきちんとこなすことこそ、「あの日」の前に戻すことにつながるのだ。それは熊本だけではない。空襲で焼かれた名古屋や和歌山、福山、大垣、岡山、そして原爆で木っ端みじんにされた広島などの城下町の人々共通の思いに違いない。
 思うに城というのは昔から戦で攻められ、天変地異で壊れ、火災で焼け、政変で破壊されてきた。それを私は「地震雷火事親父」と分かったような軽口を叩いてきたが、このとき初めてその現実に触れたのだ。と同時に日本人の「仕事」に対して妥協しない誇りと、城の復興を自らの生活の復興に重ね合わせる人々の思いを痛感した。一城郭マニアとして城の滅多に見られない、しかし本当はみたくない様子を目に焼き付け、ほこりの舞う城を後にした。

「広島は城下町?」「平和都市です。」 
 天守対決の最後の対戦相手は広島城である。広島の公共交通といえば路面電車が有名だが、瓦礫となった町の復興は、原爆投下わずか三日後の広島電鉄復旧から始まった。あの日、広島城天守も爆風で数秒のうちに崩れ去り、約三世紀半「廣島」の町中のどこからでも見えていたという城の光景も一瞬でなくなった。だが数日前まで市内を縦横に走っていた路面電車が再び走り出したことは市民たちにそれまでの「日常」を取り戻させ、ひとときの安堵を与えたことであろう。ちなみにその運転をしたのは、芸北地方や島根県の農村から「広島で学校に行かせてもらえるから」と呼び寄せられた少女たちだったというが、彼女たち自身も被ばく者であった。
 その電車が縦横する町を旅友たちと城に向かった。堀端で地元からの参加者に「広島って城下町?」とわざと尋ねたところ、「いえ、平和都市です。」との答えが返ってきた。目の前に天守があるのに、である。これは広島では普通の感覚であろうが、広島城は日清戦争時に大本営が置かれ、明治天皇も居住し、太平洋戦争時には中国軍管区司令部となり、中国地方における陸軍の拠点であった。ここだけではなく、今回扱った城郭のほとんどが、1873年の「廃城令」の対象外としてその地域の陸軍の軍事拠点となった。そのこともあり逆に原爆投下の口実になったとも言われる。

マニアすら楽しめない城郭
 15歳の頃、つまり昭和の終わりごろここを初めて訪れたときは、コンクリート製の天守が寒々と建っているだけだったが、その後1992年に二の丸の櫓や門が木造で再建された。堀にかかる御門橋を渡って表御門をくぐる。私は堀や石垣を見るたびに胸が高まるのだが、ここだけは重苦しい。「あの日」、このお堀の中を、水を求めて焼けただれた人々が殺到してきたことを聞いているからだ。ここも死体がよどみ、猛烈な腐臭が漂っていたに違いない。城郭マニアのくせに城郭を城郭として楽しめなくなるのがこの城なのだ。空襲で焼失した名古屋城も似たような状態だったろうが、核兵器となると重みが違うのは平和教育の賜物だろうか。
 気を取り直して二の丸に入る。ここは「馬出し」といい、戦の際には文字通り馬を出すための橋頭堡である。本丸から出島のように突き出しているため、360度どこでも攻撃が可能であるが、甲信を抑えた武田信玄の城にはよくこのタイプが見られ、桃山時代の城郭とはいえど「やれるもんならやってみろ」といわんばかりの「ファイティングポーズ」を感じさせる。ちなみに南側の堀沿いに復元されている平櫓、多門櫓、太鼓櫓という一連の櫓群は無料で見学できる。江戸時代はこうした櫓がなんと八十八か所もあり、堀の面積も現在の約七倍から八倍もあったという。
 ようやくいつもの城郭探訪のモードになってきた、と思い、橋を渡って本丸に向かおうとすると、ユーカリの木がある。あの爆風と猛火にも耐え、おそらく傷ついた被爆者を袂に横たわらせたであろう被ばく樹木の一つだ。「はだしのゲン」の著者、中沢啓治氏による劇画「ユーカリの木の下で」は、正にこの木を舞台としている。さらに橋の上にも被ばく樹木のマルバヤナギがあり、それを過ぎると本丸の中御門の桝形である。桝形を通るときのぞくぞくする思いもここでは全く感じられない。赤茶けた岩肌はあの日にこの上にあったはずの櫓門が焼けた火で変色したからだ。
 本丸は上下二段になっており、下段の西には戦後護国神社が移され、上段には江戸時代御殿がほぼ隙間なく並んでいたという。ここに例の大本営が置かれていた。その北西に天守がそびえるが、城主たちの日常生活は御殿で営まれ、天守は蔵代わりだったという。
 ここは桃山時代に毛利輝元がこのデルタ地帯の広い島に築城を決定したため「廣島」と命名された。その後毛利氏が関ケ原の戦いで西軍の総大将として敗れると、福島正則が入城し、城郭の工事を幕府の許可なく行ったことで改易されると、浅野氏が二百数十年間守ってきてからは中四国地方最大の城下町となった。一般に「城下町」の人々には城に見守られて生まれ育ってきたことを誇りに思い、藩政時代の伝統産業や伝統文化、行事などを絶やすことなく守る、保守的な「城下町メンタリティ」がある。しかし広島は例外的にこのメンタリティに乏しい。というより忘却したのではないかと私は見ている。

古風な下見板張りの望楼天守
 旧天守の礎石が移動して保存、というより置かれていた。そのあたりを歩きながら天守を仰ぐ。天守台は11m、天守26mという高層建築で、最上階には禅寺でよくみられる釣り鐘型の花頭窓(かとうまど)に廻り縁の手すりが施されている。下見板張りは熊本城に比べると赤茶色を帯びており、熊本城がツキノワグマならこちらはヒグマのようだ。1598年、つまり秀吉の亡くなったとしに完成したこの天守はどれをとっても姫路城のような白い漆喰の層塔型天守になる前の桃山期の古風な望楼型天守で、復元図を見たときは安土城の外観そっくりなのに驚いた。
 石段を上がると天守入り口の前は多少広くなっている。ここにはかつて小天守があったはずだ。それだけではなく天守の東側にもそれはあったはずだ。昭和のコンクリート天守とはいえ、完全な復元ではなく中途半端である。その二年後に完成した熊本城は小天守も備えているが、なぜ小天守は無視されたのか気になる。
 ここも内部は博物館であるが、展示品も少なく、あっても鎧兜等どこにでもある代り映えのしないものばかりだ。なによりも下地を塗っただけのコンクリート壁がむきだしで実にさむざむしている。むしろ一番の見どころは展望台かもしれない。かつては中国地方第一の大河、太田川から手前はすべて城郭で、その面積はほぼ一キロ四方に及び、原爆ドームのあたりまでが城内だったという。それが一望できるからだ。

鯉城<カープ
 戦後の1949年に広島平和記念都市建設法が制定され、広島市は世界初の被爆都市として核兵器の恐ろしさを訴える平和都市としての役割を担うこととなった。同法のもとに1958年鉄筋コンクリートで復元されたのが、かつてこの城下町のシンボルだった広島城天守である。完成は同じく戦災で焼失した名古屋城天守の再現よりも1年早い。 
 21世紀の価値観では文化財を鉄筋コンクリートで再建してもしょせん偽物扱いだが、当時は何よりも原爆の災禍から立ち上がり、戦前の暮らしが元通りに復興したことが目で見て実感できるシンボルとして天守が必要とされたのだ。むしろ巨大なコンクリートの柱になっているのが「まがいもの」扱いされようとも、原爆投下にも負けないという、当時の強い思いが込められているような思いもしてきた。その点は名古屋城も同じである。
 ただそのコンクリートについてであるが、鉄筋コンクリートの耐用年数は約60年であり、2010年代にはすでにそれを過ぎている。調査によると震度六の地震に耐えられず、熊本城天守以上の災禍に陥ろうとしているのが現状だ。そこで十億円ほどかけて耐震補強をするか、その十倍以上はかかるであろう木造天守の再建をするかが広島が抱える2020年代の課題である。
 天守から降りてもう一度ヒグマのような天守を仰いだ。そういえば広島城の別名は「鯉城」である。己斐(こい)という地名から来たと言われるが、このことを知ると細長い天守が滝登りのように上に登っていく鯉のようにすらみえてくる。そして広島カープの名もこの城から命名された。焦土と化した広島の人々が夢を託したのは、むしろ大企業のスポンサーも無く、県民や県内企業のカンパ(樽募金)によって結成・運営された広島カープだった。とはいえ、カープを熱愛するように、広島の人々はこの城を愛しているのだろうか。復興された広島城天守ももちろん市民の励みになったであろうが、三度の食事を二度にしてまで天守復興に力を入れた名古屋市民のほうが「お城愛」に関してはやはり上であろう。

広島城の「対戦相手」は原爆ドーム?
 城を離れて原爆ドームに向かった。広島城とは異なり、訪日客であふれていた。城を巡る時には常に他の城と比較しつつマニアックな興奮を覚えてきた私だが、広島城天守と比較してしまうのは熊本城でも名古屋城でもなくこの原爆ドームであることに気づいた。「あの日」この街は天守は失ったが、半壊した姿をさらすことで平和を訴えるために「生まれた」のがこの原爆ドームとは言えまいか。
 市民は「あの日」から十数年後に天守をコンクリートで復興させたが、ドームを戦前の「産業奨励館」として復元しようという声はまずない。復元してしまったらこれまで世界の人が祈ってきた平和への思いがリセットされてしまいそうだからか。だからあの形のまま巨額を投じて保全する。一方日本人はなぜ天守を復興するのか。しかも、原寸で同じ材料を使って、なけなしの懐をはたいてまで。
 日本中の天守を歩いてきてしみじみとわかってきたこと。それは結局天守や塔などのようなものは宙に浮遊している何かが宿る「依代(よりしろ)」なのだろうということだ。なぜ熊本城や名古屋城の御殿の復元は史実に基づく割には後回しにされた上、盛り上がりがいまいちなのか。なぜ広島城の小天守は復元されないままなのか。おそらく天にそびえるような形状でなければ依代としての役割を果たさないからだろう。これは理屈ではない。
 ただこれは決して日本だけでなく、カトリック教会の尖塔やピラミッド、泰山など、海外でもありうることだ。何かの思いを形にしたい時、城下町の民は天守という様式を選び、その思いを託したのではなかろうか。そしてその「思い」のなかで最優先なのがこの広島では反核であり平和なのだ。かつては中四国地方最大の城郭を誇る町だったという事実も、人類史上初のあの惨劇の前では吹っ飛んでしまったのだろう。
 しかしそれでもあえて思う。広島と「ヒロシマ」の二つしかない現状ではあるが、毛利氏とそれに続く藩政期の伝統を感じさせる「廣島」という選択肢があってもしかるべきではないか。半壊状態をこのままずっととどめる原爆ドームとならび、藩政時代以前、ここがかの徳川家康と対峙した西日本最大の大名のお膝下であったことを示すためにも、私は二棟の小天守をふくめた天守の木造復元を願う。「ヒロシマ」の他にも「廣島」というもう一つの、いや、本来の顔を取り戻してほしいからである。
 西南戦争で焼失し、高度経済成長期にコンクリート復元したが震災で大被害を受けると真っ先に復興させた熊本城天守。原爆で崩壊し、同じくコンクリート復元したが耐用年数を過ぎてしまった広島城天守。どちらに軍配をあげるか悩ましいところだが、私は人々の城に託す思いの強さと「第三の天守」宇土櫓を「準現存天守」として認めた上で、熊本城に軍配をあげたい。ただ今後広島城天守が小天守も含めて木造完全復元が行われ、市民が「廣島」を取り戻そうとしたときには再び勝負させてみたいと思う。(了)


 

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