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本能寺の変と三人の動き

本能寺の変が起こった場所はどこか
 安土で家康を接待する饗応係としての光秀はすぐにお役御免となった。中国地方の毛利を攻める先鋒隊として送られていた秀吉からSOSがきたため、援軍の将として派遣されることになったからだ。その後を追うようにして信長は京都にむかい本能寺に逗留した。これについて司馬さんはこう述べている。
「信長自身は、つねに寺で泊まった。(中略)信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のためにつかおうというこの合理主義者にとっては、無用の費えであった。そのかわり、本能寺を大きく城郭式に改造している。」
 本能寺といえば14歳の時の修学旅行を思い出す。その時の京都でのホテルが「本能寺会館」というところで、まさにあの有名な本能寺の隣接地だったからだ。もちろん信長の時代のものはその時焼失し、その後も何度か焼失していたことは知っていたが、翌朝の明け方こっそりと単独行動で信長に線香をあげにお参りしたものだ。大人になってから知ったことだが、信長時代の本能寺の位置は現在の位置からみて西南西1㎞あまりのところにあったというが、周囲の高度より若干低く、規模もほぼ100m四方よりやや大きいだけで、攻撃されやすかったようだ。しかし京の都は信頼置ける家臣が守っているので安心しきっていた。そしてその家臣こそ明智光秀だった。あの信長でも人を信じ切ってしまうことがあったのだ。

信長と茶の湯
 光秀の襲撃を受ける前夜、信長は本能寺で茶会を開いたという。実は彼は相当の茶の湯好きであり、司馬さんもこう述べている。
「信長は、連歌より茶を好んだ。文芸より美術趣味がつよかったともいえるであろう。(中略)信長の茶道好みは、体質的なものであろう。(中略)信長の好みが、時代に反映した。茶道は京と堺を中心に空前の盛況を示しつつある。」
 信長が茶の湯のどこに惹かれたのか分からないが、おそらく21世紀に茶室で茶をたてて四季の移ろいに感じ入りながらいただく私などとは根本的なものが異なっているようだ。おそらく彼は茶の湯を政治の道具にしていたに違いない。彼は家臣に許可なく茶会を開くことを禁じた。茶会が開けるということは功労者の特権だったのだ。また功労者には高価な茶器を与えた。中には土地よりも茶器を欲しがる滝川一益のような部将すらいたほどだ。そして褒美として茶器を拝領したトップランナーが秀吉であり、実子をはさんで三番手が光秀だった。
 千利休が茶の湯のこころとして説いた「一期一会」は、まさに1882年6月1日の本能寺における最後の茶会のためにあったのかもしれない。
 翌日未明にここが光秀軍に包囲され、炎の中で信長が応戦し、最後に寺に火をつけるシーンは、史実か否かはさておき大河ドラマなどであまりに有名だ。そのあと白い寝間着をまとった信長が扇子を片手に「人間五十年 化転の内にくらぶれば 夢幻のごとくなり…」と、幸若舞の「敦盛」を舞うシーンなどは時代劇の定番中の定番だろう。
 ちなみに奴隷として信長に「献上」されたアフリカ人弥助は、このとき主君を守って最後まで戦った結果、つかまったがその後のことは不明である。

備中高松城と秀吉
 信長が本能寺で倒れたころ、秀吉は現岡山市の高松城址を囲んでいた。冬空の冷たい日中、ここを訪れたことがある。広い田園地帯の真っただ中だ。城郭としてあまりの無防備さに驚く。秀吉はここに立てこもった毛利方の部将、清水宗治を攻めるべく、金にものを言わせて周囲の農民から土嚢を購入してこの平地にずらりと積み、川の水を引いて高松城に注がせた。軍師黒田官兵衛の策として名高い「水攻め」である。
 秀吉が本能寺の変の一報を備中で得たとき、大泣きに泣いたという。が、司馬さんの言葉を借り、官兵衛の目で見ればこうなる。
「官兵衛は思う。この秀吉という人間の傑作ともいうべき人物は、片面で嬰児のように号泣しつつ心のどこかではこの事態のゆくすえを冴えざえと見ぬきはじめているのではないか。

 それが証拠にか、秀吉はただちに毛利方と交渉し、清水宗治の切腹のみを条件とし、毛利氏に対して本領安堵を約束した。そしてすぐに馬にまたがり京都を目指した。目的はもちろん、打倒明智光秀である。じきに本能寺の変のことは毛利方の耳にも入ってきたが、追いかけてはこない。司馬さん曰く
「中国地方には、一つの気風がある。(中略)―中国者の律義。(中略)これは山陽道の風土によるものだろうか。ではないであろう。この地方の征服者であった毛利元就の政治的性格によるものらしい。」
つまり、律儀なまでに秀吉との約束を守ったのだろう。さらに官兵衛の視点を借りてこうも言う。
「毛利は、なるほど堅実で律儀であろう。しかし家風に弾みがなく、暗く、華やぎというものがない。(中略)官兵衛がおもうに、人も家風も、華やぎ、華やかさというものがなければならない。でなければ人は寄って来ぬ。」
 華やかさ重視という点はいかにも「尾張的」あるいは「上方的」である。

家康の伊賀越え
 本能寺の変の一報を聞いて、秀吉と対照的な反応を見せたのが家康である。その時彼は堺の町を見物していたが、周囲に三十数名の側近しかいないため慌てふためき、おののいたという。「知恩院に入って死ぬ」と周りに言いだす始末で、その時のろうばいぶりを司馬さんはこのように書いている。
「ともあれ、家康はとりみだしている。かれは家計がそうであるだけにごく自然なかたちでの念佛信者で、戦陣には「欣求浄土」の文字をもって旗ジルシとし、その晩年、日課念佛の行を怠らなかったが、かれはまわりの三河人たちも、なにしろ三河一向一揆をおこした国柄だけに浄土を欣求する心はつよく、家康が口走った「死」というものについては、信長とその配下やあるいは後世の感覚とはだいぶちがっていた。」
 厳密にいえば知恩院を本山とし、家康の信ずる浄土宗と、本願寺を本山とし、三河の土民が信仰してきた浄土真宗とは異なる。が、共通して言えるのは死後は極楽浄土に往生することを願う点である。言い換えれば死を身近に感じる点といってもよい。無神論者の信長は、おそらく地獄も極楽もなく、あるのはこの世だけと思うのだろうが、家康にとっては生の時間よりも死んでからのほうが長いということを信じているのだ。
 ただ別の解釈もある。彼の戦場で翻った「欣求浄土 厭離穢土」の真意は「この汚い世の中を浄土に作り変える」という意味だ、という人もいるのだ。
 とはいえ周囲の側近たちは気が動転した主君をなだめすかしながら、光秀軍からの攻撃をかわすかのように伊賀越えをし、伊勢湾を渡って命からがら三河に戻ることに成功した。その時の功労者が服部半蔵という。

農夫家康VS狂言師秀吉
 ともあれ、かくして戦国の世に終止符を打とうとした風雲児、信長の時代は終わり、時代は確実に秀吉のものになっていった。山崎の合戦で光秀の首を取った彼は、「羽柴」の苗字のもととなる丹羽長秀、柴田勝家ら古参の部将を清洲会議でおさえ、信長の嫡孫三法子の後見人となった。さらに翌年賤ヶ岳の戦いで古参の柴田勝家らを滅ぼし、名実ともに信長の後継者となった。いわば「棚から牡丹餅」的に信長の版図が手に入ったわけだ。
 司馬さんは「土地ころがし」のように版図を増やしたこの尾張人と、家康という実直な三河人を比較してこう述べている。まずは家康である。
「家康のいままでの領土のふやしかたはおよそ英雄的ではなく、農夫が汗水をながして田畑を耕し、その収穫の余情をもってまた他の田畑を飼うというやりかたであった。」
そして秀吉はというと、
「秀吉は、それとはまるで逆であった。その持ち味である大度をもって世間を魅きつけ、さらにはひとびとが惹き入れられ、あらそって秀吉の傘下に入ってゆくような人気と企てをつぎつぎに作りあげつつ、大小の既成勢力群をまるめ、その上に乗っかり、さらにそれを再編成し、いつのまにか織田名義を羽柴名義に切りかえてしまうというやりかたであり、いわば大幻影を大実像に仕立てあげるようなこのやりかたは、天才以外にできるしごとではなく、(中略)この時期の家康は自分のもっている想像力のすべてを動員しても秀吉のもっている天才を理解することができなかった。」
秀吉が天才なら家康は凡才なのだろうか。それはともかく最後に家康にこうぼやかせる。
「『要するに木下は幻の上で踊っているだけだ。いまにみよ、あの男は崖からころがりおちるだろう』という目でしか見ることができず、それ以外には思いようもなかったのである。

そういえば当の本人も若いころから人生を狂言とみなしていたことを思い出す。

敵にこそ学べる家康
 家康はその後も極めて実直に、農夫が一振り一振り田畑を起こすかのようにして版図を拡大していった。武田家滅亡後は信長承認の上で甲州、信州、駿河を支配下におき、それと前後して徳川軍に新たな軍勢が加わった。武田軍である。
「武田勝頼が滅亡したあと、家康はすぐ信長のゆるしをうけ、大量に甲州人を召しかかえた。人間を採用するだけでなく、甲州軍法まで採用し、徳川家の従来の軍法を、大幅に甲州流に変えた。(中略)家康は大量にかかえた甲州人を井伊直政に配属させたが、この新参部隊をことごとく赤備えにしたくらいの惚れこみようであった。赤備えとは、旗も具足もことごとく赤で色彩統一された部隊のことを言い、かつての武田軍の特徴の一つであった。」
 長篠の戦以降落ち目だった武田勝頼だが、甲州軍としてみるとまだまだあの三河勢をも恐れさせる軍隊だったらしい。自分を打ち負かすほどの敵から学ぶ。これが家康の強みである。それも兵法までをも旧敵国にまなぶという入れ込みようである。とはいえ、その本当の理由は別のところにありそうだ。家康から見るとナンバーワンの側近が秀吉方に寝返ったため、軍法まですっかり変える必要があったからとも考えられるからだ。とはいえそれも家康の甲州びいきという基礎があってのことだろう。
「甲州の士卒は信玄の陣法になずみ、その訓練を経ているために他家の士卒とは一見してちがっていた。(中略)『このため甲州兵がおおぜいならぶと、陣列がおのずから剛強に見えるのだ』と家康がいった(後略)」
 司馬さんはこのように最大の賛辞を家康に送らせているのだ。(続)


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