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「想像の共同体」を読んで歩く神奈川県

「他人事」だったナショナリズム
 私がナショナリズムという「得体のしれないもの」に関心を持ったのは、1990年代半ばに中国、朝鮮、ロシアの国境の町に二年半ほど滞在していた頃にさかのぼる。そのころ漢民族と朝鮮民族に囲まれてお互いの民族意識や国家間にことあるごとにぶつかりはしたが、「ノンポリ」の自分自身は彼らの民族や国家に持つ熱い思いについていけず、いや、ついていく気もなく、ただあっけにとられて彼らの「愛国心」めいたものの「高みの見物」をしていたというのが正直なところだ。
 帰国後、日中両国の狭間に置かれた中国残留孤児のお世話に中途半端にかかわったかと思えば、米軍のヘリポート基地移設問題で沸き立つ名護に住んだりして、ようやく「ナショナリズム」というものが日本にも存在し、それにとらわれる、または乗り越える人が自分自身の周りで少なくなかったことに気づくに至った。そんなときに読んだのが政治学者ベネディクト・アンダーソンの名著、「想像の共同体」だった。
 英国人、厳密にはアイルランド系の父とアングロサクソン系の母のもとに、日中戦争中の中華民国雲南省昆明で生まれ、1950年代に英ケンブリッジおよび米コーネル大学で学んだあと、フィールドワークを60年代のインドネシアで行った彼にとって、「国民」とは、「国家」とは、そしてナショナリズムは他人事だったのか、我が事だったのだろうかが気になった。本書のなかで彼は19世紀フランスの思想家ルナンの言葉を引用している。
「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある。」
 また、戦後フランスのナショナリズム研究を牽引してきたゲルナーの次の言葉を引用している。
「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。」
 これらの引用はアンダーソンの国民論、ナショナリズム論の根底に流れるものであり、同時に90年代の東アジアの国民やナショナリズムの間をさまよってきた自分自身を振り返り、はたと膝を打つものでもあった。
 しかし思えば90年代という時代は「日本人」の多くが国民やナショナリズムについて考えなくてもよい、なんとものんきな時代最後の時代でもあった。ナショナリズムは2000年代になって中韓が本格的に勃興してくることにより、「日本国民」のアジアにおける地位が脅かされつつあると認識するに至り、急速に広まっていったからだ。
 今回の旅は「想像の共同体」をひも解きながら横須賀、横浜、川崎、鎌倉を中心とした神奈川県を歩いてみたい。そこは日本のナショナリズムを考えるにあたり実に興味深い場所だと思ったからである。

浦賀ー「来航」「開国」でいいのか?
 JR横須賀線の行き止まり、久里浜駅で降りた。川沿いの住宅街を歩くにつれ、ほほに潮風を感じてくる。太平洋が見えるところで「開国橋」を渡った。「開国」といえば、浦賀市民の夏の最大の楽しみは「開国祭」の花火大会という。まるでめでたいことのようにとらえているようだが、改めて目の前の湾に四隻もの「招かざる客」が大砲を積んで浮かんでいたことを想像すると、やはり感じるのは脅威でしかない。日本を開国させた黒船「来航」は、どう割り引いて考えても「侵入」と呼ぶべきであろう。
 ちなみに「開国」とはいっても、翌年締結した日米和親条約ではただ下田港・箱館港のみにおいて米国船に停泊を許可したり、人命救助や薪水の供与を確認しただけであり、交易は認めていない。これで幕府が「開国」した、というのならば長崎の出島でオランダと交易をし、唐人屋敷で清国商人と交易をしていたときのほうがより「開国」といえるのではなかろうか。
 久里浜海岸にはその名も「黒船食堂」なる大衆食堂と「黒船釣具店」まであった。黒船=外国艦隊という図式は浮かんでこない。そしてそのすぐ近くにはバーベキューに興じる市民の憩いの場、ペリー公園だ。例えば中国や韓国で、外国の戦艦が上陸した土地を「記念公園」にする際は、祖国のために立ち上がった人々を顕彰し、危機感をあおる「愛国教育」に結び付け結び付けがちだ。
 しかしここでは公園の中心にある巨大な「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」がそびえている。この表現をみると、外国艦隊に対する日本と他の東アジアの温度差のギャップに思わずクラッときた。ここはのんきだ。いかにも家族でバーベキューを楽しむのに最適だ。ただ、公園の主人公がペリーであることに違和感を覚えずにはいられない。
 公園の片隅にはペリー記念館がある。ここでは主にペリーの視点で「来航」の舞台となったこの地が紹介されており、幕府側がいかにして迎え撃ったかという「ドラマ」は脇に追いやられている。例えばペリーとの交渉で活躍した儒者、林大学頭復斎の相手に物おじしない交渉力や論理性、あるいはおそらく日本で初めて英語を学んだといわれた長崎出身のオランダ語通詞、堀達之助の交渉通訳業務など、国際交渉や語学に関心のある私には極めて興味深いのだが、そのような「日本の」視点からあの事件を扱う見方はここでは弱かった。

尊王攘夷は付け焼刃のナショナリズムだったのか
 ナショナリズムを遠ざけがちな私だが、ナショナリズムにがんじがらめとなった東亜を周遊して戻ってくると、やはりこの空間も異様に思えてくる。「想像の共同体」には次のような文がある。
「帝国の中枢に、ハンガリー人、英国人、日本人という国民が生まれつつあったのも事実だった。そしてこれらの国民は、本能的に、「外国」支配に抵抗した。」
 「黒船来航」当時は世界各地でナショナリズムが芽生えつつあり、日本でもすでに「水戸学」という名の国産ナショナリズムが「尊王攘夷」を唱えていた。しかしアンダーソンは帝国主義国のもつこのようなイデオロギーを「付け焼刃」としてしか見ていない。彼はこう続ける。
「こうして、1850年代以降の帝国主義イデオロギーは、典型的に、手品のトリックのような性格をもつことになった。それがどれほど手品のトリックでしかなかったか、それは本国の庶民階級が、植民地の「喪失」をーアルジェリアのごとく本国に法的に併合されていた植民地においてすらー最終的に、しょうがないとちょっと肩をすくめてそれで簡単にあきらめてしまった、その冷静さによって示されている。」
 「尊王攘夷」のような観念上のナショナリズムではなく、軍艦という目に見える脅威として目の前に立ちはだかったものに対する現実的なナショナリズムはこの浦賀から始まったのだろう。厳密にいえば「黒船事件」以前にも1837年には漂流した日本人を送還に来た米国のモリソン号に対して発砲した場所の一つもこの浦賀だったし、1846年にもビッドルの乗り込んだ米国船がやってきた。しかし彼らは大砲をちらつかせたわけではなかったからか、尊王攘夷に広がることはなかった。
 ペリーに大砲をつけられてからようやく世界の現実に気づくと、列強の餌食にならないために不平等条約の改正交渉を外交目標とし、同時に対外戦争に突き進んでいった。その挙句が太平洋戦争の敗戦である。ペリー来航から敗戦までの約90年で、日本は朝鮮や台湾、南樺太に関東州、そして南洋、そして満洲まで植民地を「倍々ゲーム」で拡張していった。
 しかし本国に法的に併合されていた植民地においてすら、敗戦で喪失するにあたっては「あーあ、残念!」と執着のかけらもなく忘れてしまったのが「内地」の庶民たちではなかったか。そんな中途半端なナショナリズムだったから、地元でも「江戸湾侵入」を「来航」と呼び変え、三浦半島の付け根に当たる現横浜市の生麦では薩摩藩士が神奈川に駐留していた英国人を殺傷する生麦事件が起こるなど、尊王攘夷の嵐が吹き荒れたことは忘れられる。中韓はともかく、少なくとも日本でのナショナリズムはその程度だったことはこのことからも感じられる。

新聞のふるさと、横浜
 アンダーソンによると新聞がナショナリズムを生んだという。例えば今朝読んだ新聞を、北は北海道から南は沖縄までみな読んでいると想像すると、会ったこともないその購読者の居住する範囲が国家であり、毎朝同じ新聞を読んで同じ情報を仕入れている人の集まりを「国民」と意識するようになったからだという。
 この新聞というメディアを考えるにあたり、最も大切な場所として横浜を歩いてみた。日本大通り駅を出てすぐのビルには「ニュースパーク」という愛称で知られる、その名も「日本新聞博物館」が入っている。それもこの町が日本における新聞発祥の地だからだ。
 日本初の新聞は米国籍を取得した漂流民、ジョセフ彦が1864、5年にこの町で「新聞誌」を発刊した。そして明治に入ると1871年、ついに日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」もこの町で発刊された。この博物館にはこれら最初期の新聞が展示されているだけでなく、明治から現在までの歴史を飾るトップニュースの紙面がみられる。アンダーソンは新聞がもたらしたナショナリズムについて三点考察している。
「これらの出版語は、三つのやり方で国民意識の基礎を築いた。第一に、もっとも重要なこととして挙げるべきは、出版語が、ラテン語の下位、口語俗語の上位に、交換とコミュニケーションの統一的な場を想像したことである。」
 私たちが使用している「日本語」は、実は明治時代に「発明」された。それまでは、いやその時でさえ政治をおさえていた薩摩人は薩摩弁、長州人は山口弁、商業をおさえていた近江商人や伊勢商人、大阪商人は関西系の諸方言、しかし明治天皇とその取り巻きは京ことばで、「首都」となった東京の庶民は江戸っ子のべらんめえ口調だった。話し言葉の共通語はあってないようなもので、正式な書き言葉は文語体、日米和親条約等の外交における条約の文言も漢文だった。
 そこで江戸時代を通して武士たちの居住区だった山の手の言葉を、「出版語」としていった。つまり、漢文の下位、口語俗語の上位に、「実生活ではだれも口にしない」という意味では平等な、「想像の共通語」を作り上げたのだ。そのうち文学の世界では口語と文語をより近づけるための「言文一致」を目指す二葉亭四迷の「浮雲」のような作品もでてきた。これも「想像上の国民」が「想像上の共通言語」で話す「想像の共同体」を目指すものだった。

「出版言語」の形成とナショナリズム
 アンダーソンは続ける。
「第二に、出版資本主義は、言語に新しい固定性を付与した。これがやがて、主観的な国民の観念にとってかくも中心的なものとなるあの古さのイメージを作り出すのに役立つことになる。」
 いつの世でも口語より文語が伝統的な重々しさ、公式的な非日常性を持つものだ。新聞で毎日目にする出版用の言葉は、読者の中で「新しい権威」として瞬く間に定着していったのだ。そして地方的に偏りのないと思われた「標準語」の向こうにあるのは、この国家の「想像上の標準」だったに違いない。とはいえ、次第に人工語だった「出版語」からできた「標準語」を母語とする者も次々に出てきた。アンダーソンはさらに続ける。
 「第三に、出版資本主義は、旧来の行政俗語とは別種の権力の言語を想像した。出版語が出現すれば、いくつかの方言が、それぞれの出版語に『より近い』ものであることは避けられず、そうした方言がやがて出版語の最終形態を支配することになった。」
 明治時代の横浜の人々はどのような言葉を話していたのだろうか。「横浜弁」が形成される前、現地人が外国人にはピジンを話すというのはアジアの開港地ではよくあることだったろうが、少なくとも令和の現在、話し言葉だけで横浜人かいなかを判断するのは困難なほど、横浜ことばは彼らの先祖が出版した新聞の「出版語」により近いものになっている。いや、新聞のような言葉など話さない、という方もいるだろうが、これは比較の問題である。東北や北関東、日本海側や関西、九州や沖縄など、首都圏から少し離れるだけで、横浜の言葉が「出版語」にいかに近いか感じるだろう。

野島で完成した大日本帝国憲法
 横浜と横須賀の境に野島という島と埋立地がある。ここは明治時代に伊藤博文が別邸を持っていた場所であり、彼がプロイセンの憲法をもとに大日本帝国憲法を完成させた場所でもある。この憲法は参議だった彼がベルリン大学のグナイストや、ウィーン大学のシュタインらの助言を受けて編纂させたものだが、その文章は漢文を訳読したようなかたい表現である。
 すでに完成しつつあった出版語とは大きな違いだ。新聞にみられる出版語は、この国土にこの文章を毎日読む国民の存在を読者に想像させたが、一方で近づきがたい旧時代風の重々しい漢文をあえて使うことにより、改めて万世一系の天皇の統べる国家を想像させたのだ。アンダーソンは言う。
「近代的概念にあっては、国家主権は、法的に区分された領土内の各平方センチメートルに、くまなく、ひらたく、均等に作用する。」
 19世紀半ばまで、国境ははっきりとひかれていなかった。幕藩体制下の法制度も、蝦夷地や琉球などにおいては曖昧であった。それが1889年当時の領土、北は千島列島から南は沖縄まで、隅々にわたってこの大日本帝国憲法を遵守するようになったのだ。

「三種の刃物」から始まった中華街
 JR石川町駅で電車を降りると心がはやる。横浜のシンボルともいえる中華街。現在のように牌楼を立てて観光地としたのは、1950年代以降のことという。それまで「南京町」と呼ばれていたこの地区を「中華街」としたのは、50年代の横浜市長が米国視察に赴いた際、現地のChinatownを見学して「横浜の南京町も『中華街(Chinatown)』と呼んで観光拠点にしようではないか」と思い立ったからという。
 ここは日本人から見ると十分「エキゾチック」なのかもしれないが、おそらく中国本国の観光客から見てもなにやら「作り物」的な空間であると思われがちだ。とはいえこの「作り物」っぽさは世界のチャイナタウンに共通して言えることかもしれない。ここは中国人の町というよりも、国を離れた中国人が、外国人からいかにみられるかという視点を考慮に入れつつ脳内で想像して作った商店街だからだ。
 横浜に華僑が大量に到来したのは日米修好通商条約締結後のこと。開港後横浜に集まった日本人商人たちのほとんどは外国人との取引に漢文を使った。その漢文を英訳し、英文を漢文に訳していたのが、欧米人にやとわれた英語を話す広東人たちだったのだ。ただ彼らは和食は口に合わず、食べなれた広東料理を好む。そこに本国からコックたちがやってきた。当時の男性は辮髪だったため、髪結いもやってきた。そして彼らの服をあつらえるテーラーもやってきた。そこで包丁、髪結いのはさみ、裁ちばさみという「三種の刃物(三把刀)」を携えた華僑たちがこの町を形成していったのである。そしてこの町は次第に「唐人街」と呼ばれるようになった。

辛亥革命の「梁山泊」だった中華街
 彼らの中から成功者が現れると、ここは一連の中国革命の拠点となっていった。唐人街は孫文や梁啓超ら革命家だけではなく、実に様々な人を受け入れ、送り出した。革命家たちが清朝を倒すべく潜伏する「梁山泊」の役割をするこの町の華僑たちは、孫文の要望を受け入れ、後の中華民国の国旗「青天白日満紅地旗」を作った。
 また辛亥革命の年に生まれた音楽家、聶耳(ニエアル)も亡命先として日本を選んだがが、1935年にわずか三か月の滞在期間に後の中華人民共和国の国家「義勇行進曲」を作曲したのち、鵠沼(くげぬま)海岸で謎の溺死を遂げた。彼が作曲したのは横浜なのか東京なのか湘南なのかは知り得ないが、国旗も国家もこの町を中心にしてできたこと、そしてこの「梁山泊」なくして革命は成り立たなかった事実は、日中関係史のなかでも記憶されるべきことだろう。このことに関してアンダーソンはこう述べている。
「当時のさめた分析者ならだれでも、いずれの国においても、まもなく革命が起きるとか、革命が破滅的勝利に終わるとか、予見しなかったであろう。(事実、これとほとんど同じことが、ほとんど同じ理由で、1910年の中国についてもいえる。)それを可能としたのは、結局のところ、「革命を計画し」「国民を想像する」ということであった。」
 つまりこの町を拠点に満洲族の支配を打ち破り、「中国人」の国を作ることを画策し、実行に移せたのも、彼らが「中華民族」というコンセプトを想像し、共有できたからに他ならないのだ。
 
 関帝廟
 この町の華僑たちの篤い信仰を受けてきた関帝廟は、1886年に広東系の華僑たちの心の拠り所として建設された。日本の商売人はしばしば店舗に恵比寿様や大黒様を祭るように、広東系華僑たちは商売に大切なのは信義であると考え、信義を守る英雄、関羽を、広東系華僑は店舗のなかにも赤い祭壇をしつらえて拝んでいる日本におけるその信仰の「総本社」が横浜の関帝廟といえるだろう。
 ある年の10月10日にここを訪れたことを覚えている。毎年この日は中華民国が誕生した「双十節」であり、町中に例の横浜生まれの中華民国の国旗「青天白日満紅地旗」が秋風にはためいていた。関帝廟に隣接するところには孫文が建てた横浜中華学院があり、ここにも校庭いっぱいにあの旗がはためいている。とはいえ、この町の住民がすべて国民党支持者というわけではない。政治的にも文化的にも、実に様々な背景を持つ人々が「中華民族」というコンセプトを信じてここに定着しているのだ。アンダーソンはいう。
 「国民は、限られたものとして想像される。なぜなら、たとえ10億の生きた人間を擁する最大の国民ですら、可塑的ではあれ限られた国境を持ち、その国境の向こうには他の国民がいるからである。いかなる国民も自らを人類全体と同一に想像することはない。」
 ここの華僑、そして日本に帰化した華人たちの集まりの実態は「日本に住んでいても日本人ではなく、もちろん在日コリアンでも在日米軍でもない、『中華民族』の血をひく者」という、「〇〇でない人々」のような比較的ゆるいつながりを持つ人々の寄せ集めに近いのが実態だ。

震災と戦災と人災
 1912年に中華民国が誕生してから、この町は天災、戦災、人災等、何度も壊滅的な危機に見舞われた。1923年の関東大震災で地盤のゆるい山下町は壊滅し、2000名以上もの人が犠牲となった。倒壊した関帝廟は、二年後に復旧させた。
 日中戦争が勃発すると多くの華僑が帰国した。ただ国民党が共産党と手を組み日本と戦う蒋介石政権と、「親日政権」とされる汪兆銘政権に分裂すると、在日華僑は汪兆銘政権を支持する者が多数だったために、「敵性外国人」として日本側の監視下にありながらも「準日本人」扱いされ、戦争に協力する代わりに財産の没収などは最低限に抑えられた。もちろん軍部に反発して拷問死した華僑もいた。
 ところで横浜は実は原爆投下予定地の一つだった。そのため1945年5月まで「実験結果」を検証するために大規模な空襲は控えられていた。しかし5月28日に米軍は原爆投下候補地から横浜を外した。すると方針が一変し、翌29日にB29が大挙して飛来し、この町を焼き払い、一万人近くの犠牲者を出した。もちろんこの中には横浜に残った華僑も含まれる。この時またもや関帝廟は焼失した。
 戦後の彼らの立場は「戦勝国民」として連合国の一翼を担うことになった。しかし問題は、華僑の多くが国民党とはいっても日本で生活していくために親日汪兆銘政権を支持し、戦勝国中華民国の蒋介石政権とは敵対関係にあったことだ。さらに日本に居住していた日本の傀儡国家、満洲国の出身者もいれば、それまで半世紀にわたって「日本人」扱いだった台湾人もいる。にもかかわらず彼らが「中華民族」という想像の共同体の一員として十把一からげにされたのは実に興味深い。ここでも彼らのまとまりのシンボルは、イデオロギーでも言語でもなく、焼失の二年後に再建した関帝廟だった。

イデオロギーに分断された華僑たち
 しかし冷戦期には国民党と共産党の内乱がこの狭い町をも分断した。中華人民共和国が成立してしばらくたった1952年、中華学校もイデオロギーによって分裂した。中華学校でも共産党勢力が強くなり、それをおさえるために本国の国民党はなんの前触れもなく新校長として黒竜江省出身の元国民党特務、王慶仁を学校に着任させた。そこで学校内で文字通りの「死闘」が起こった。
 結局学校は王校長率いる国民党が、小中学あわせて約860名いた児童・生徒のうち、660名の共産党支持者子弟を追放することで幕を閉じた。その後、追放された生徒たちの保護者は山手に横浜山手中華学校を建てた。本来これらの学校は異国で生まれた「黄帝の末裔たち」「龍の伝人たち」に母語と母国の文化を継承すべく建てられたはずだった。華僑にとって中国語というのは母なる祖国との絆でもあったからだ。ちなみに言語についてアンダーソンはこう述べている。
「ナショナリズムを発明したのは出版語である。決してある特定の言語が本質としてナショナリズムを生み出すのではない。」
 つまり、「中国語」だから彼らのナショナリズムになるわけではない。現に広東人が主流、三江(浙江省、江蘇省、江西省)出身者が傍流という横浜南京町で、「祖国」の「国語」を日常的に話す人はほとんどいなかったのが事実である。戦前は広東語などの方言で授業を行っていた。しかし昭和の中華街では「出版語としての中国共通語」が学ばれ始めた。逆に言えば戦後はそれのみが各中華学校における共通語となっていったのだ。
 このことからも、広東語など、特定の言語が本質的にナショナリズムを生み出すのではないことがわかるし、一方で共産党の香港における弾圧が高まる2010年代末期以降の香港では、広東語こそが香港ナショナリズムの担い手となっている。ただ広東語による本格的な出版は一部を除いて発展段階というが。

文革期の中華街
 1960年代後半の文化大革命の余波は横浜などの中華街をも巻き込んだ。特に大陸側の国慶節(10月1日)から台湾側の双十節(10月10日)までの十日間は、中華街では紅衛兵によるイデオロギーに基づいた乱暴狼藉がひどかったという。そして1972年の日中共同声明の時には数十人の共産党支持者の華僑青年たちが王元校長を暴行し、刀であごを斬るまでにいたったという。
 王校長はだれの仕業かわかってはいたが、「将来ある華僑青年の前途のために」と考え、告訴しなかった。蒋介石の「以徳報怨(徳をもって怨みにこたえる)」という思想があったのかもしれない。が、なによりも思想は異なっても同じ共同体の一員である、いや、あるべきだ、という原則を貫いたのかもしれない。アンダーソンの言葉を思い出す。
 「国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。」
 「想像力の産物のために、殺し合」おうとしたのは、中国大陸でだけではない。小さな横浜の街角でこのことが続いたのだった。そして日中国交正常化の前後、中華民国国籍だと中華人民共和国の国籍に自動的にスライドするといううわさが流れると、日本に帰化する華僑たちが続出した。特に台湾出身者の中には、戦後日本籍から有無を言わさず中華民国の国籍にスライドさせられた経験があったことも、その流れに拍車をかけたのだろう。ただ、日本籍をとっても「中華民族」であることには変わりはなく、「日本国」という想像の共同体の一部になるのを拒否した人たちも少なくなかった。

不審火で燃えた関帝廟
 十年の文革を終えた大陸が改革開放政策の真っただ中の1986年元旦、不審火で戦後の関帝廟が焼失された。本尊の関帝や観音像などは奇跡的に無事だったとはいえ、特に台湾系の人々は意気消沈した。早速再建に動いたが、中華学校内部から人通りの多い現在地に移すにあたって問題が発覚した。現在地にあった建物は大陸系の華僑総会が仮処分をかけていた場所だったのだ。そこでまず大陸側と台湾側が手を取り合って関帝廟を再建させることとなったのだが、その中心人物が前述の王慶仁元校長だった。
 幾多の困難を乗り越えてきたこの関帝廟を今、改めて詣でると、信仰心はそれほどわかないが、こんなちっぽけな町で震災と戦災と政治によって傷つけあった人々が信じてきた「中華ナショナリズム」の頑迷さと同時にその可能性をも感じないではいられない。

エレキとGS
 横浜生まれの60年代のスターとして特筆すべきは、ベンチャーズ等のエレキサウンドを完全に日本化し、エレキ民謡を確立した寺内タケシとブルーンジーンズ、そしてGS(グループサウンズ)のトップスター、ゴールデンカップスの存在である。そもそもなぜ60年代に横浜がスターを生み出したのか。その背景には終戦から1982年まで、山手の本牧が実に37年間にわたって米軍の居住地域として指定されていたため、米国直輸入のジャズやロックなどがバーで鳴り響いていたことが挙げられる。
 寺内タケシは茨城県土浦生まれだが、戦時中5歳にしてエレキギターを開発したと自伝にはある。50年代末に横浜の関東学院大学に入学するため横浜に来ると、学問はそっちのけで本牧の米軍バーでプレイしていたという。
 しかし「日本の音」「日本のにおい」を追い求めた結果、地元横浜から静岡にかけて民謡の「ノーエ節」や「津軽じょんがら節」等をエレキで演奏したかと思うと、「エレキは不良のおもちゃ」という世間の声に反発して、赤字を出しながらも日本中の高校の体育館でエレキギターの素晴らしさを伝えたりもした。エレキ=ロックに貼られた「不良」のレッテルは、米軍基地の持つ暴力性、または保守層に対する反抗と表裏一体だったのかもしれない。
 同時期に横浜で活躍したゴールデンカップスは、外国航路専門のクリーニング店の息子、デイヴ平尾や中華街生まれの華僑、エディー藩、そして日系米人やハーフの青年たちが結成したバンドであるが、メンバーの多くがやはり「不良」だったという。彼らのルーツ、横浜や本牧を歌ったヒット曲に「横浜ホンキートンク・ブルース」や「本牧ブルース」がある。メンバーの一人、柳ジョージの「FENCEの向こうのアメリカ」には、自らを身下ろす存在でありながら憧れないではいられないアメリカという存在が歌われている。

フェンスの外と中の関心の不均衡
 当時の面影が辛うじて残るところとして、根岸森林公園の競馬場の建物の周辺があげられる。ただ、ここに住んでいた米軍およびその家族は、「フェンスの外の日本」にはほぼ関心はなかったのだろう。アンダーソンは中南米のスペイン語新聞を引き合いにこう述べている。
「植民地のクレオールは、機会があればマドリードの新聞を読んだかもしれないが(しかし、そこには彼の住む世界については何も書かれていない)、同じ通りに住む半島人の役人の多くは、できることなら、カラカスの新聞など読もうとはしなかったであろう。この非対称性は、他の植民地の状況においても、無限に反復されうるものだった。」
 米兵たちがこの基地内で読んでいた新聞やニュースは、本国のもの、または朝鮮やベトナムといった、彼らが送られる前線に関するものが中心で、フェンスの外の日本にはさほど関心はなかった。JAPAN TIMES等の日本の英字新聞さえほぼ無視されていたのだ。この情報とまなざしの不均衡こそ、植民地のリアルであり、南米諸国はそこから独立を果たしていったが、一方の本牧は「独立運動」もないまま1982年にようやく全面返還された。
 それにしても丘の下の中華街では紅衛兵が「造反有理」「革命無罪」等、「大陸舶来」の言葉を叫んで乱暴狼藉をはたらいてていたころ、丘の上の山手では様々な背景を持った同世代のミュージシャンが米国舶来のロックをシャウトしていたのが、60年代後半の横浜だったのだ。

鶴見ー朝鮮人と沖縄人
 1923年の関東大震災の折、激震地だった首都圏各地で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマに踊らされた人々が自警団を組織した。そして無実の朝鮮人、または朝鮮人だと思われた人々を取り調べては朝鮮人と断定された人々を刀などで殺傷する事件がここ横浜各地でも相次いで起こった。
 この横浜にもあちこちに虐殺された朝鮮人の慰霊碑があるので、数珠を片手に集中的に歩いたことがある。地下鉄吉野町駅近くの宝生寺や菊名駅近くの蓮正寺、新横浜駅近くの東林寺などにあるこれらの慰霊碑で手を合わせつつ、何とも言えない「民族的罪悪感」を感じている自分に気づいた。
 その後、横浜市の工業地帯、鶴見駅で下車して歩いてみた。この町は沖縄や朝鮮などの「植民地」の労働力によってまかなわれてきた。アンダーソンはこう表現している。
「王朝の結婚は、多種多様な住民を新しい頂点の下にまとめあげた。」
 琉球王国は明治初期に、朝鮮王朝は明治末期に、大日本帝国と「結婚」させられたため、両地域の困窮した労働者たちがこぞってこの町にやってきたのだ。
 鶴見川を渡ってしばらくいくと、「沖縄タウン」があるというので行ってみた。2022年のNHKの朝ドラ「ちむどんどん」の舞台の一つにもなったというので多少期待してはいたが、何軒かまばらに沖縄の食堂があるだけで「沖縄タウン」というのはいささか羊頭狗肉の感がいなめない。ただこのあたりに沖縄からの労働者とその家族が肩を寄せ合い集住していたことはまぎれもない事実である。
 ちなみに沖縄の店に紛れるように南米系の店もちらほらする。工業地帯だけに平成以降南米系労働者も増えているのだ。

体を張った正義
 「沖縄タウン」の東漸寺という寺院で大川常吉という警察官を顕彰する石碑を見た。ここ鶴見でも派出所に朝鮮人らしき人物が井戸に毒を入れたとして連行されたが、46歳の大川分署長は朝鮮人が毒を入れたとされる水を飲んで、朝鮮人と疑われた中国人らの無実を証明した。
 しかし流言飛語はさらに過激さを増し、千人以上もの群衆に取り囲まれ、殺されそうになっている約三百人の朝鮮人、中国人の命を殺気立った自警団と群集心理にかられた市民から保護した。彼らを引き渡すように自警団にいわれても、大川分署長は「やるなら自分を殺してからにしろ!彼らの中に犯罪者がいれば、本官が腹を切ってお詫びする!」と一世一代の大見得を切った。その気迫に押されたのか、群衆は四散したという。
 ヘイトクライムに敢然と立ち向かう人物が国家権力側にもいたという事実を顕彰する石碑を見たときは、「民族的罪悪感」にさいなまれつつあった自分の中に一筋の光が見えてきたかのような気持ちが沸き起こってきた。ねじ曲がったナショナリズムをはねのけるほどの迫力があったからこそ群衆も彼の体を張った正義感に我に返ったに違いない。
 そこからしばらく行くとJR浅野駅であり、その隣は安善駅である。浅野とは浅野セメント等を築いた浅野財閥から、そして安善とは渋沢栄一とともに浅野セメントに出資した安田財閥の安田善次郎の略称である。近代日本資本主義の構図、つまり財閥の下にまとめあげられた旧植民地の多種多様な住民の図がピラミッドのように脳裏に浮かんだ。
 「港町ヨコハマ」とはいうものの、横浜市は本牧の米兵と山下町の華僑、鶴見の朝鮮人と沖縄人労働者など、居住地域によって民族構成が異なり、そしてそれがピラミッド状になっている事実にはあえて目をつむりがちなのが興味深いところだ。

川崎・池上というところ
 鶴見から浜川崎駅に向かった。浜川崎駅から海側に向けての工場地帯も、在日コリアンの集住地区である。「鋼管通り」という通りがあることから推測できるが、ここは旧日本鋼管(現JFEスチール)の企業城下町であった。そこの労働者として連れてこられた人の中には朝鮮人も少なくなかった。海側に池上町という地区があるが、ここは帰国しそびれた在日コリアンたちがそのまま住み着いた土地で、形式上は不法占拠となる。
 少なくとも戦前は、建前では朝鮮人も「内地人」も「天皇陛下の赤子」であったはずだ。しかし通常時ですらもちろんのことだが、池上町の廃墟かと見まごうばかりのバラック群をみていると、あきらかに明確な線引きがなされていたように思える。アンダーソン曰く、
「ほとんどのすべての場合において、皇帝ナショナリズムは、国民と王国の矛盾を隠蔽した。こうして、世界的規模で矛盾が起こった。スロヴァキア人はマジャール化され、インド人はイギリス化され、朝鮮人は日本化されることになった。しかし、彼らには、マジャール人、英国人、日本人を統治する地位に就くような巡礼に参加することは許されなかった。」
 厳密にいえば戦前は在日朝鮮人にも「内地」にいる限りは参政権が与えられていた。1930年代には朴春琴という朝鮮人の衆議院議員もいたほどだ。ただ「日本人を統治する地位に就く」立場にいたとはいえ、それも日本側に協力するという前提が確固としてあった。

池上から羽ばたいたヒップホップのスター
 事実上のスラム街、池上町から2010年代後半に巣立ったスターといえば、ヒップホップ・クルーのBAD HOPだろう。メンバーの多くが経済的にも家庭にも教育にも恵まれぬ環境に生まれ育ったが、自分たちの足元を見つめてこころに浮かんだものを歌詞にして叫ぶと、それがラップになり、ヒップホップダンスとなって日本中に広がった。
 この「朝鮮人部落」で90年代半ばに生まれ育った八人の中に、南北を問わず「コリアン」が一人もいないのには意外だった。彼らは日本社会から見放された「朝鮮人部落」にすむ「日本人」なのだ。とはいえメンバーたちは朝鮮人の家でご飯を食べさせてもらったりもしていると証言している。アウトサイダーにされた者同士のぬくもりがそこにあったのか、彼らはビッグになっても「ふるさと池上」を忘れず、池上の思い出をもとに「KAWASAKI DRIFT」を作詞・作曲し、踊って大ヒットに導いた。
 アンダーソンは、朝鮮人には日本人を統治する地位に就くことはできなかったというが、同時に「日本人」だったヒップホップダンサーたちにもその道は閉ざされている。60年代にはエレキを否定する大人たちに対して寺内タケシのように立ち上がり、民族の「ルーツ・ミュージック」としての民謡をエレキでかきならす大人もいたが、2010年代にはそんな熱い大人はいなくなり、代わりに若者が自らの力で自分たち個人の「根っことしての音楽」を赤裸々にシャウトするようになった。
 寺内のエレキ民謡には失われた「こころの歌」を共有しようとするナショナリズムを感じるが、BAD HOPのヒップホップには民族単位、国家単位ではなくどこの社会にもある階層の存在を突きつけてくるだけに、よりグローバルな存在といえるのかもしれない。

ヘイトスピーチにも負けず…
 池上町から空気が悪く殺風景な灰色の町を歩くと、焼肉屋がずらりと並ぶ通りに出た。大正時代にこの先にできた浅野セメントに通勤する労働者が帰りがけによった飲み屋街であるから「セメント通り」と呼ぶそうだ。労働者にホルモン焼きや焼肉などの在日コリアン料理を提供する大衆的な店が並ぶのがこの通りなら、その北側の桜本町にはその材料を仕入れる肉屋等が並ぶ。要するに本牧が「フェンスの向こうのアメリカ」、山下町が「牌楼の向こうの中国」ならば、池上からセメント通り、そして桜本までは、「フェンスも牌楼もないコリア」といえるだろう。
 桜本には青丘社という在日コリアン系社会福祉法人が運営するふれあい館・桜本こども文化センターがあり、ハングル入門教室や朝鮮の民族音楽、民族衣装、料理等を通して地域の隣人との相互理解・相互交流を続けてきた。ヘイトスピーチが吹きすさぶ中、直接の脅迫を受けてもひるまずに続けてきた態度には頭が下がる。
 ちなみに本格的な継承言語としての朝鮮語を身に着けるのは同じ町内にある川崎朝鮮初級学校や、横浜駅近くの沢渡にある神奈川朝鮮中高級学校がその役割を果たしている。

「民族言語」の限界
 ところで民族のアイコンとしての言語や民族衣装、舞踊などについてアンダーソンはこう述べている。
「ときにナショナリスト・イデオローグがやるように、言語を、国民というもの(ネーションネス)の表象として、旗、衣装、民族舞踊その他と同じように扱うというのは、常に間違いである。言語において、そんなことよりずっと重要なことは、それが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するというその能力にある。」
 在日コリアンのリーダーたちは、確かに朝鮮語・韓国語を異郷に生まれ育った子孫たちの民族意識のシンボルとして使っている。そして国旗はもちろんのこと、衣装や民族舞踊なども朝鮮学校では重要視されている。そして朝鮮語を学ぶことで連帯を構築できるというのも正しい。
 しかし日本の朝鮮学校で学んだ朝鮮語を韓国、または北朝鮮でそのまま使おうとすると、「本国」の人々に違和感を与え、「祖国」すなわち想像の共同体内の人々との間に溝が生まれることを彼はわかっていない。ある意味在日コリアンは日朝ちゃんぽんの「在日弁」ともいうべきクレオール言語を話している。連帯感が生まれるのは第一に「在日弁」スピーカーなのだ。

言語に限りなし、人生には限りあり
 ちなみに言語習得についてアンダーソンは興味深いことを言っている。
「我々はいかなる言語でも習得することができる。しかし、言語の習得には人生のかなりの部分を必要とする。(中略)人が他者の言語に入っていくことを制限するのは、他者の言語に入っていけないからではなく、人生には限りがあるからである。こうして、すべての言語は一定のプライバシーをもつことになる。」
 私も英語や中国語、韓国語などを学んできたが、いずれもある程度いくと停滞することをよくわかっている。それはまさに「限りある人生」で語学のみに費やすことの意義がわからなくなるからなのかもしれない。在日コリアンの言語が「在日弁」止まりになる事が多いのも、ナショナリズムよりも大切なことがあるからであり、例えば英語ができたほうが将来的に「日本人の上に立つ」機会がありそうであること、あるいは語学ではなく数学ができたほうが医大を目指せるなど、実利的な理由からであろう。
 もちろん趣味として語学をやる分はその限りではないが、趣味で韓国語・朝鮮語に取り組む人は、在日コリアンが民族的アイデンティティを守るための継承言語として学ぶよりも、軽い気でやってみる「日本人」が圧倒的多数だ。おかげでというべきか、本国のコリアンにとっては「日本人」に「言語的奥の院」に踏み込まれることもまずない。逆に在日コリアンにとってはその「言語的奥の院」に到達してこそ「本物の韓国人・朝鮮人」となるだろうが、やはり優先順位のトップに言語を置く人は少ない。 
 ちなみに桜本のふれあい館の活動は民族言語、民族舞踊、民族料理等を民族を問わずシェアしようとしている。それは新大久保でみられるような若者中心のおしゃれな韓流とは違う。人間が人間として生きていくうえで大切なことを、民族を問わず分かち合う心。それは朝鮮語を、朝鮮舞踊を、朝鮮料理を分かち合うことで、偏狭なナショナリズムを乗り越えようとしていることは言うまでもない。

「上を向いて歩こう」に励まされるのはナショナリズムか
 帰りに川崎駅に向かった。駅前に「石敢當」と彫られた石碑を見た。これは沖縄や鹿児島のT字路でよく見る魔除けであるが、1950年代から60年代にかけて米軍施政下の沖縄を何度も台風が襲ったとき、川崎にいた沖縄県出身の労働者たちが中心となって義援金を贈った。そのお礼として沖縄から送られたものの一つだという。
 ホームで電車を待っていると、どこからか発車メロディが流れてきた。「上を向いて歩こう」である。1963年にアメリカのビルボード史上初めて一位を獲得したアジアの曲は、この町の電気屋の息子、坂本九が歌ったものだった。この記録は2021年にBTSが“BUTTER”でトップになるまで半世紀以上破られることはなかった。
 思わず口ずさんでしまうこの歌だが、そういえば東日本大震災の後に日本各地のミュージシャンたちがこの歌のワンフレーズごとを歌ってつなげていたのを思い出した。この歌は戦後から平成にかけて生きてきた人々をつなげる何かがあったのだ。国民を、民族をつなぐ「歌」について、アンダーソンはこう述べている。
 「ただ言語だけがーとりわけ詩歌の形式においてー示しうる特殊な同時存在的な共同性がある。(中略)たとえいかにその歌詞が陳腐で曲が凡庸であろうとも、この歌唱には同時性の経験がこめられている。正確にまったく同じ時に、おたがいまったく知らない人々が、同じメロディーに合わせて同じ歌詞を発する。この斉唱のイメージ。(中略)我々は、我々が歌っているちょうどその同じときに、ほかの人々もまたこれらの歌を歌っているということを知っている。しかし、かれらが誰なのか、(中略)我々にはまるでわからない。我々すべてを結び付けているのは、想像の音だけなのだ。」
 あの震災で東北の「同胞」たちがたくさん亡くなった。今も苦労している。無力感の中で「国民」をつなぐかに思えた歌が「上を向いて歩こう」だったのだろう。複数ある動画は、みなパートごとに歌い、時にそれを斉唱する。歌の向こうに「同胞」を感じるのも、それがみなで斉唱できる歌だからだろう。偏狭なナショナリズムには抵抗のある私だが、「上を向いて歩こう」を聞くと胸にこみあげるものが、涙なのかナショナリズムなのかわからなくなったことを告白せねばなるまい。

要塞都市だった鎌倉の切通し
 何度も行った鎌倉であるが、「ナショナリズム」という視点から改めてこの町を訪れると新たな発見が少なくない。JR北鎌倉駅を降りると、そこは円覚寺の境内だった。宋・寧波から渡来した無学祖元が八代執権北条時宗のもとでここの開山となったところだ。またそこから線路沿いに歩いてしばらく行った建長寺は、無学祖元の大先輩で今の重慶から渡来した蘭渓道隆が五代執権北条時頼の参禅の師として開山となった鎌倉五山の筆頭である。
 ところで宋から渡来した僧侶たちは多くが日本語を話さなかったはずである。当時の日宋間のパワーバランスからして、日本の僧侶のほうが中国語を話したと考えるのが妥当だろう。戦後本牧の米軍住宅に横浜の人々が羨望のまなざしを投げかけ、英語で話そうとしていたように、宋の禅僧に対する日本人のまなざしも舶来文化に対する憧れがつまっていたのだ。そこにナショナリズムは生まれようもない。
 巨福呂(こぶくろ)坂の洞門を通ると鶴岡八幡宮である。この洞門は、かつて切通しだった。切通しというのはやわらかい岩をくりぬいた細道であるが、鎌倉は東西北の三方は山で囲まれ、南は遠浅の海になっている、日本初の巨大な要塞都市である。当然市内への出入りはこのような検問所で厳しく制限される。
 しかし巨福呂坂はバスも通る大きな道なので雰囲気がでない。この町の「要塞らしさ」がもっとも感じられるところは、逗子市との境にある「名越(なごえ)の切通し」である。山の中の未舗装の細道であるが、町のほとんどが崩れやすい凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)であるため、掘りやすく、トンネルなども作りやすいのだ。ここから内側はいわば京都の朝廷であろうが、他の武家であろうが、外敵に絶対攻め込ませないという強い意志が感じられる。

坂東武士という「国民」
 アンダーソンは「国民」の定義をこう述べている。
 「国民とはイメージして心に描かれた想像の政治共同体であるーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。」
 鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の前に立ちはだかる京都の皇室こそが、当時なりの「国家」であったとしたら、その下にあるものが「国民」ということになる。しかし外敵から襲われたことが皆無だった奈良・平安時代において、「国民」概念は生まれたとしても観念の遊びでしかなかったろう。
 しかし東国では様相を異にする。10世紀に朝廷の支配を拒否し、自らを「新皇」と称して朝廷の拠点だった坂東各地の国府を襲った平将門以来、坂東はしばしば朝廷と対峙してきた。将門の乱が三日天下で終わったことは、「平家物語」の序文をそのまま引用したアンダーソンも熟知している。ただ、その300年後に坂東を本当の意味で朝廷の支配から独立させたのが鎌倉幕府だったのだ。

国境線がファジーな前近代
 鎌倉の地形の特徴として「谷戸(やつ)」という三方を尾根に囲まれた谷間が挙げられる。前述した鎌倉最古、15世紀の舎利殿が残る円覚寺や五山筆頭の建長寺、夢窓疎石作庭の瑞泉寺や竹の庭で知られる報国寺など、鎌倉の名刹はみな谷戸に作られている。そして建造物は残ってはいないが、平安末期の浄土式庭園が復元された史跡、永福(ようふく)寺も谷戸の奥まったところにある。
 この庭園のモデルとなるのは奥州平泉の寝殿造の浄土式庭園、無量光院である。なぜ鎌倉からみても「辺境」に位置した奥州をモデルにこの庭園を造ったのか。その前にまず、アンダーソンの「辺境」に関する一節を引用してみよう。
「国家が中心によって定義された旧い想像世界にあっては、境界はすけすけで不明瞭であり、主権は周辺にいくほどあせていって境界領域では相互に浸透しあっていた。このことから、逆説的に、前近代の帝国、王国は、きわめて多種多様な、そしてときには領域的に隣接すらしていない住民を、かくもたやすく長期にわたって支配することが可能となったのだった。」
 つまり、平安時代の「旧い想像世界」では、鎌倉を中心とした東国と、奥州との境界はファジーだった。同じように、南西諸島もどこまでが朝廷に従う地域かははっきりしなかった。はっきりしない統治だからこそ、逆説的にいえばなんとなく統治しているつもりではあっても、統治される「辺境」にとってはそれを時には利用し、時には無視することができたのだ。

平等院→平泉無量光院→鎌倉永福寺
 頼朝は1189年に弟義経をかくまう奥州藤原氏を討とうとした。奥州に兵を進める前に、平泉の当主である藤原泰衡は義経の首をとって鎌倉に送っていた。しかし頼朝の真意は奥州藤原氏壊滅にあったため、後白河上皇に泰衡追討の願いを出した。上皇はこれを認めず延期するように命じたが、奥州藤原氏を討った。つまり朝廷の配下にある征夷大将軍に任じられながら、朝廷の命に従わなかったのだ。これは坂東の棟梁が京都の皇室の命に必ずしも従わないという、軍事的独立を宣言したようなものだ。
 ただし平泉に進軍した頼朝は衝撃を受けた。奥州藤原氏は領内で豊富にとれる黄金にモノを言わせて京風文化を普及させていたからだ。そこで宇治の平等院鳳凰堂をモデルにした平泉の無量光院をモデルに、義経や泰衡の鎮魂を目的として鎌倉二階堂に建立したのが永福寺だったのだ。 
 
ふるさと鎌倉でよそ者扱いだった文人将軍 
 頼朝の後を継いだ嫡男頼家が二代将軍となった時代には、北条氏ら「十三人の鎌倉殿」による合議制が敷かれた。その後、頼家は現役の将軍でありながら伊豆修善寺温泉に幽閉され、殺害された。その跡を継いだ三代将軍実朝は、武人である前に和歌集「金槐集」を編纂するほど京の文化を身に着けた文人であった。特に彼は和歌に関して後鳥羽上皇に師事し、新古今和歌集を編纂していた藤原定家にも和歌の添削を受けていた。この三人の関係がうまくいっていたころは朝廷と幕府の関係もうまくいっていた。和歌という京都の貴族文化を仲立ちとした平和だったといえよう。
 ただ坂東武者の棟梁でありながら京風文化に染まり切っていた実朝は政治の世界にはそれほど熱心ではなかったらしい。同じような例を、アンダーソンは英国文化に染まり切ったインド人の例を引用して述べている。
「(インド人行政官は)英国人行政官と同等のきわめて厳格な試験に合格したばかりでなく、その青春の人格形成期の最良の歳月をイングランドで過ごした。故国に戻ると、かれらは事実上、同僚の文官と同じ生活様式を維持し、その社会慣習と倫理基準をほとんど宗教的に順守した。(中略)その思考と作法において、彼はいかなる英国人にも劣らぬ英国人であった。それは彼にとって少なからぬ犠牲を要した。それは、彼が、彼自身の人々の社会から自らを完全に疎外し、かれらのなかで、社会的にも倫理的にもパーリアとなったからである。(中略)彼は、彼自身の生まれた土地で、そこに住むヨーロッパ人居住者と同じくらいよそ者であった。」
 つまり、京の貴族文化に染まったがため、彼は武家の町鎌倉では浮いていたのだ。ふるさとでありながら教育によって彼はよそ者になってしまったのだ。

金沢文庫にて
 ただし彼の死後も京都文化は絶えず鎌倉に入ってきた。鎌倉の外港だった現横浜市金沢区の六浦(むつら)に近い金沢(かねさわ)文庫では、北条実時が収集整理した京都や宋の書物が今なお残っている。また鎌倉幕府の視点から整理した編年体の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」もここで執筆、編纂されたようだ。そしてそれも京都の皇室中心の史観とは異なる。アンダーソンはナショナリズムの発生原因の一つに、中南米の現地新聞の普及を挙げているが、「吾妻鏡」編纂にはそれといくつか類似点がある。
「これらの新聞の豊かな特色のひとつは、その地方性にあった。(中略)もう一つの特色は多元性にあった。十八世紀末に発展したスペイン領アメリカの新聞は、それぞれ、自分たちの世界と併存する世界、そしてそこにすむ地方人たちを十分意識して書かれていた。」
 この文章の「新聞」を「史書」に、「スペイン領アメリカ」を鎌倉に、十八世紀を「十三世紀」に差し替えれば、「吾妻鏡」が意図するものがわかる。つまり、「十三世紀末に発展した鎌倉の史書は、それぞれ自分の世界と併存する世界(=坂東)、そしてそこに住む地方人(=坂東武者)たちを十分意識して書かれていた。」ということだ。
 このような経過を見ると、鎌倉の町づくりも、「吾妻鑑」の編纂も、京都の皇室の支配から坂東を独立させたいという思いを強く感じずにはいられない。アンダーソンのいう「想像の政治共同体の国民」は、この場合「日本人」ではなく「坂東人」である。そしてその土地が「限定的」であるのは鎌倉の周囲に残る切通しをみればわかる。あるいはその外郭は箱根の坂なのかもしれない。さらに将軍に坂東の主権があり、それが最高の意思決定主体であると想像され、そのシンボルが鶴岡八幡宮だったのだ。
 こう考えると鎌倉は関東地方における最初の「想像の共同体」ではなかったかと思えてならないのだ。

 「多桑(とうさん)」富士山を見たがる台湾人
 「想像の共同体」を読み、神奈川県にてナショナリズムを考える旅も終盤に差し掛かってきた。神奈川県のいろいろな場所から富士山が見える。横浜ランドマークタワーや江の島のシーキャンドル展望台、はたまた湘南の海岸や箱根からの富士も捨てがたい。神奈川県を歩きながら、何かの折にふと顔を上げるとビルの谷間に富士山が見えるのは実にうらやましい限りだ。
 出雲に生まれ育った私が初めて富士山を見たのは18歳の時だった。その時「ようやく日本人になれた」というような妙な感情が込み上げてきた。静岡県や山梨県、そして首都圏の、富士山を見慣れている諸氏にとっては何を大げさなと思われることは重々承知だが、18歳の私は確かにそう感じた。富士山を見ることで日本人になる?これは理屈ではない。
 1994年の台湾映画に呉念真監督の「多桑(とうさん)」という佳作がある。後に台北でも見たことがあるが、日本統治下の台湾に生まれ育ったために日本語教育を受け、子どもには自分のことを「とうさん」と日本語で呼ばせる男の人生を息子の視点で見た作品だ。「光復」すなわち国民党統治下におかれると疎外され、鉱山労働者として働いていたので肺を病んでしまう。
 幼いころ「皇民化教育」によって自分が日本人だと思わされ、日本敗戦後も生年は「大正四年生まれ」としか言わず、支配者国民党の公用語である中国語はろくに覚える気もなく、中華民国と日本とのバレーの試合では日本を応援するので子どもからは「売国奴の汪兆銘が!」と中国語でののしられる始末。65歳で亡くなる前に家族に言っていた言葉が「日本に行って宮城(皇居)と富士山を見たい」だった。

「ロゴ」としての富士山
 「富士山」を見たい。それによって日本人だった頃の自分を取り戻すのか、単なるノスタルジーなのかはわからない。しかし富士山には民族を超えてナショナリズムを想起させる何かがあるようだ。見た瞬間にある国や民族のことを想起させるロゴ(アイコン)について、アンダーソンはインドネシアにおけるボロブドゥール遺跡を引き合いに出してこう語っている。
「ここでわれわれが本当にみているのは、(中略)国家の勲章としてのボロブドゥール、『もちろん、これはあれだ』という、ロゴとしてのボロブドゥールである。そしてこのボロブドゥールは、(中略)みんなが知っているというまさにその理由により、国民的アイデンティティの記号としてますます強力なものとなる。」
 私が初めて富士山を見たとき、現実の富士山を見ているのではなかったように思えてくる。私が見たかったものは、アンダーソンの表現を借用するならば「ロゴとしての富士山」だったのだろう。そしてそれを目の前にしたときにはそれまでロゴでしかなかったものが自分のものになったかのような気がしたに違いない。富士山を仰ぐという体験を通して「国民意識」を身につけてきたのだ。
 そして大正四年生まれの台湾人も、その孫の世代の私も、富士山というロゴをみれば「日本人」を想起するだけでなく、そこで「日本人としての教育」を受けていれば「日本国民」としての自覚を持つようになるのだろう。朝鮮民族にとっての白頭山や、漢民族にとっての万里の長城も同じ効果を持っているに違いない。

連綿と続いてきた富士山への思い
 富士山は大昔から人々の心をつかんできた。奈良時代の万葉歌人山部赤人の「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」から始まり、平安時代の「更級日記」では菅原孝標女(たかすえのむすめ)が、「伊勢物語」では在原業平も富士を仰いで歌を詠み、「竹取物語」でもクライマックスでは富士が出てくる。鎌倉時代には「十六夜(いざよい)日記」の阿仏尼も、「新古今和歌集」の西行法師もみな富士山を見て心動かされ、一首詠まずにはいられない。
 江戸時代になると富士講で庶民が詣でに来る旅行ブームが起こるだけでなく、北斎は「冨岳三十六景」、広重は「東海道五十三次」で富士を描き、世界にその「ロゴ」としての富士山が拡散していった。さらに近代には横山大観が富士山を日本画で量産し、あの「無頼派」の「デカダン」、太宰治でさえ、「富岳百景」の中で「富士山には、かなわない」と書かないではいられないのだ。
 富士山のロゴが、古典作品から近代の文学者や画家まで、連綿と伝えられてきたものが私の前に立ちはだかると、その流れの末端に自分も置くことで「民族的な安心感」を感じないではいられないのだ。そして現代人もみなこころの中の「ロゴとしての富士山」と現実の富士山を一致させ、「日本人」になっていくに違いない。そしてアンダーソンがもっとも言いたいことは次の一文だろう。
「国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。」

「日本沈没」と日系人
 小松左京が1973年に発表した「日本沈没」は社会現象にもなった。日本のシンボル、富士山の爆発後、日本人6500万人が離散してしまう文学作品だ。タイトル通り、専門家チームが二年以内に日本列島の大部分は海面下に沈むとされると、政府は「D2計画」という極秘プロジェクトを実行する。政界の黒幕にして、197X年当時101歳の渡老人は、プロジェクトチームに政府としての方針をまとめさせると、1新しい国を作る、2外国に帰化させる、3難民として分散させる、4何もしない、に別れた。
 この四つの方針をみていると、近代日本の「満洲国」や南北アメリカに移民した日系人を思い起こす。「2外国に帰化する」は南北アメリカやハワイに移民した人々を連想するし、「1新しい国を作」った結果、ソ連侵攻によって「3難民として分散」というより離散させられたが、それに対して日本政府は二十数年間「4、何もしなかった」ことを想起する。
 これらの方針を聞いた渡老人は言う。
「生きのびたとしても、子孫は…苦労をするじゃろうな…日本人であり続けようとしても…日本人であることをやめようとしても…日本人から日本をなくして、ただの人間にすることができたらかえって問題は簡単なんじゃが、そうはいかんからな…」
 横浜の赤レンガの近くにJICAの海外移住資料館がある。ハワイや南北アメリカに離散した日系人の歴史や社会、文化などを展示する大変興味深い場所だが、どこでも日系人は辛酸をなめつくしていることがわかる。アメリカ西海岸の日系人は太平洋戦争中、収容所に入れられたあげく、対日戦の駒として使われた。戦争が終わっても、ブラジルの日系人は日本が勝ったと信じる「勝ち組」と、現実を受け入れる「負け組」に分断され、互いに殺傷事件まで生じた。そのうち日本が経済発展すると、彼らの子孫は日本の工場労働者として再び故国の土を踏んだが、日本の行政は彼らには冷たい。

「縦糸」と「横糸」でつながる「想像の共同体」
 「日本人であり続けようとしても」「日本人であることをやめようとしても」という渡老人の言葉の「日本」を「中国」、「コリアン」に置き換え、「中国人(コリアン)であり続けようとしても」「中国人(コリアン)であることをやめようとしても」とすると、それはそのまま在日華僑・華人や在日コリアンの分断と、偏見、そしてなによりも政府からの保護が全く期待できず、低賃金労働者として景気の調節弁にされ、ヘイトスピーチや虐殺の対象にまでさせられてきた彼らの姿は、そのまま海外及び日本での日系人につながる。
 富士山の爆発からはじまる日本沈没で、6500万人の日本人が国を離れるのだが、地球物理学者の田所博士は「日本に恋をしてしまった」ために列島とともに海に沈む道を選んだ。しかし過半数の日本人が国を離れるのを目の当たりにして嘆く。
「もっとたくさんの人に、日本と…この島といっしょに…死んでもらいたかったのです…(中略)この島が死ぬとき…私が傍でみとってやらなければ…(中略)いったい、誰がみとってやるのです?」
 それに対して渡老人自身は「日本人というものは…わしにはちょっとわかりにくいところがあってな…わしはー純粋な日本人ではないからな…」と、田所老人の日本に対する熱い思いをクールに見ている。そして自身が明治初期に渡来した華僑の僧侶を父に持つ、「日中混血児」であることを独白する。
 年齢的には日清日露戦争も、辛亥革命も、関東大震災も、日中戦争も、そして戦後の中華街における華僑同士の対立も見てきたはずの渡老人だが、「純粋な中国人ではないからな…」と同じようにクールにみていたのではないか。ナショナリズムについて考えるとき「混血児」の帰属意識についてももっと思いを巡らすべきだろう。
 「国破れて山河在り」とはいうが、山河が沈没したら「国」はなくなるにしても、「国民」はどうなるのか。江の島から富士山をみるとすぐ手前に渡老人が住んでいたことになっている茅ヶ崎の海岸がみえる。この湘南の浜辺やあの富士山すらなくなっても、日本人は世界のどこかで離散してでも生きていくのだろう。こころに「想像の富士山」を抱きつつ。
 そして歌人や絵師などがたたえた「想像の富士山」と自分が「縦糸」のようにつながることによって「日本人」に戻り、同じように「想像の富士山」とつながった人々と「横糸」のようにつながることで、「想像の共同体」を築き上げるのだろう。私は「想像の共同体」に必要なのは、この「縦糸」と「横糸」を想像する力であると考えている。

四種類のナショナリズム
 富士のふもとで生まれ育った人々には、扇子を逆さにしたような、あの優美な姿こそふるさとを思わせるものであろうが、他地域の圧倒的多数の人々はロゴとしての富士山をこころに抱きつつ「日本人」になる。しかしその「日本人」というのも想像されたものであり、現に我々は富士山を見て「日本人」になっている「大多数の同胞」に会うこともない。それでいて国民意識を想起させる。国民意識を想起させる装置としては他の山、例えば筑波山や大文字山、日本アルプス等ではかなわないものである。
 「想像の共同体」とともに神奈川県を歩いてきたが、川崎を中心に、事あるごとにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが止まらないことなどからしてナショナリズムというものに距離を置きたがっている自分がいたのは事実である。しかし「日の丸」「君が代」はさておき、富士山という圧倒的な存在と、「上を向いて歩こう」には「国民」の存在がちらほらしつつも理屈抜きで受け入れるということが分かった。
 これもナショナリズムというのなら、ほとんどの人がナショナリズムから逃れることはできないのだろう。ようやく気付いたのが、ナショナリズムには以下の四つの種類があるということだ。
・人々、特に弱者同士をつなぐ共時的な「下からのナショナリズム」
・国家が国民に強制する「上からのナショナリズム」
・先祖の伝統や自然を子孫に伝えたいと思う通時的な「内なるナショナリズム」
・他国民を排斥する「外へのナショナリズム」
 私が抵抗を感じていたのは「上からのナショナリズム」と「外へのナショナリズム」なのだ。ただしこれらすべての共通点は、すべてのナショナリズムは「想像の所産」であるということ。読みながら歩いているうちにそれがはっきりと見えてきて、ナショナリズムに対する抵抗が雲散霧消してくる神奈川県の旅だった。(了)

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