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小牧・長久手の戦い

「資本主義社会の光」を知ってしまった農民、石川数正
 ここで尾張人秀吉と三河人家康の間に立ち、苦悩した人物のことを書き記すべきだろう。その名は家康に幼いころから仕えてきた三河人、石川数正である。彼の名はおそらく日本史の教科書には出てこないだろう。彼だけでなく家康の側近で時代劇には出てきても日本史には名を残さない人物は少なくない。これについて司馬さんはこう述べている。
「家康がつくりあげた家風の最大の特徴は、その家臣どもの知名度がきわめて低いことである。実質を離れて名ばかりが華やかになることは三河者の好まぬところであったらしく、家康はこの傾向を意識的に家風として仕立てあげた。」
 表に出ずに蔭で主君を支える。この「縁の下の力持ち」の礼賛が徳川三百年の安泰を通して津々浦々まで広がり、政財界人や芸術家など「表で活躍する人物」を見たら反射的に「裏方も注視する」という日本人気質に広がっていったのかもしれない。
 さて、この石川数正のたどった数奇な運命は、信長存命時から尾張との折衝を任せられたことにある。司馬さんはこう述べる。
「家康はつねにこの人物(石川数正)を織田家に派遣した。自然、数正は三河のやや暗い閉鎖的な侍集団のふんいきよりも、織田家の開放的な、働きがあればたとえ徒士侍でも騎乗士(うまのり)にひきあげられ、功があれば戦闘の真最中でも大将の信長みずからが金箔に手を突っ込み銀の粒をつかみどりにして与えてくれるという家風に親しみを持った。「尾張ではこうぞ」と、数正は口癖にいう。が、三河者からいえば、尾張の風というのはなるほど陽気ではあったが、反面、侍どもに必要以上に射幸心をかきたてさせ、主君に対する忠義よりもむしろおのれの功利心で働くというところが露骨で、まだ中世の気風をのこしている三河者からみれば、―尾張衆は武士か商人かわからぬ。と罵りたくなるような気分である。」
 これでは嫌われるだろう。今でいえば、日本企業に勤務しながらニューヨーク支社にしばしば行き来し、英語ペラペラの人材がいたとする。そして日本での合理的に見える働き方を見て「NYではそんなことしない」とか「アメリカでは実力次第でこんなにもらえる」などと言うようなものではないか。彼は三河の農村社会にどっぷりつかりながら、輝かしいばかりの「資本主義の光」を見てしまったのだ。
 しかし今でこそ同じ愛知県とはいえども、三河人にとっては隣国尾張よりも甲州や、場合によっては「律儀者」毛利氏の治める中国地方のほうが性に合ったのかもしれない。

小牧・長久手の戦い
 だが数正は若き主君家康に忠誠をつくし続けてきた。信長との間の清洲同盟に貢献し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を、長篠の戦では武田勝頼軍を倒すのに貢献してきた。また信長の子、信雄(のぶかつ)が秀吉と覇権を争うために家康と同盟を組んで戦った小牧・長久手の戦いのときは「対尾張外交」で培った外交能力を発揮して和睦にこぎつける手筈を整えた。家康配下の功労者の筆頭である。が、その交渉中に数正の心は尾張方に動いていた。
 安土城をしのばせるまっすぐな石段をはじめ、空堀や土塁がそのままの形で整備されている小牧山城を歩きながら感じた。規模は小さくとも実に堅牢な城である。信長が築いたこの城に信雄・家康が入城し、秀吉軍を迎えうつことからこの戦は始まり、南東20㎞あまりの長久手で両軍は激戦を繰り広げた。2020年代には某社の「住みごこちランキング」トップに躍り出た長久手市だが、市民が集まるイオンモール一帯では秀吉軍に2500人以上もの死者を出させたためか、駅名はそのまま「長久手古戦場駅」である。さらに付近には「血の池公園」などという子どもたちの遊ぶ公園の名前には似つかわしくないネーミングの公園がある。約八か月も続いたこの戦は「小牧・長久手の戦い」とは言えども、尾張だけでなく伊勢、美濃、さらには関東、関西、四国、北陸にまで飛び火し、戦闘を繰り広げさせる「関ケ原状態」になった。
 結局秀吉軍のほうが軍事的損失は大きかったが、講和中の1586年1月に石川数正は突如家族を率いて秀吉方に寝返った。ただその直後天正大地震が起こり、双方とも戦争継続ができぬほど大打撃を受けたため、秀吉と信雄は「痛み分け」という形で手を打った。そうなると家康も戦う大義名分がなくなったため、次男於義丸(結城信康)を秀吉の養子とすることで、秀吉方と講和した。このときの石川数正の心理が読みきれなかった家康について、司馬さんはこう述べる。
「家康といえども知らなかったのは、三河衆のなかにおける数正という世間広い人物が持った孤独というものであるにちがいない。というより、三河衆は、数正が世間広い感覚をもっているがゆえに、ただそれだけで猜疑し、「誑(たぶら)かされておるわ」と、ただちに、数正が秀吉に内通しているものとうけとり、数正の言動のひとつひとつをその目で見るというおそるべき作業を集団でやりはじめた。三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者にたいしては矮小な想像力をはたらかせて裏切者―というよりは魔物―といったふうな農民社会そのものの印象をもった。(中略)数正は、これ以上この三河衆の世界に居ればどういう疑いをうけ、どういう破滅を見るかもしれないと思い、いわば居たたまれずに出奔を決意したのだろう。」
日本社会は「空気」が支配する。その「空気」に苦しめられた挙句の行動であったと司馬さんは見ているのだ。(続)


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