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富士山と神仏と国立公園
「切手」が教えてくれた国立公園
私は日本の山々を歩いてきた。とはいえ、「日本百名山」のうちまともに「自力で登った」のは富士山や筑波山、大山、三瓶山等、わずか数か所で、またロープウェイや車で中腹まで登ったり、下から遥拝したものをふくめても半世紀で百か所中三分の一に過ぎない。一方で国立公園はというと、小笠原と尾瀬と利尻礼文サロベツを除き、九割がた訪れている。今回は国立公園として訪問者数が最多の富士箱
大坂城で見た司馬さんの思い
秀吉ですら勝てなかった「世間の空気」
大坂城へ向かう。一般的にこの城は太閤秀吉の城ということになってはいるが、私も城郭マニアの端くれである。ここはそもそも本願寺の一向宗が一世紀にわたって立てこもり、信長が天下に号令する大本営として狙いを定めたが十年攻撃しても落とせず、交渉の結果出て行ってもらった場所であることぐらいは十代のころから知っていた。しかし信長はすでに安土城を建造中だったうえに本能寺の変
本能寺の変と三人の動き
本能寺の変が起こった場所はどこか
安土で家康を接待する饗応係としての光秀はすぐにお役御免となった。中国地方の毛利を攻める先鋒隊として送られていた秀吉からSOSがきたため、援軍の将として派遣されることになったからだ。その後を追うようにして信長は京都にむかい本能寺に逗留した。これについて司馬さんはこう述べている。
「信長自身は、つねに寺で泊まった。(中略)信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわ
一乗谷:義景と光秀と義昭と信長の交差点
一乗谷の衝撃
ここでしばらく東海道を離れて、北陸は越前一乗谷を歩いてみたい。一乗谷は朝倉氏の城下町であり、都の没落貴族たちを招聘して街並みを貴族風に改めた「元祖小京都」の一つと言えよう。このようなタイプの「小京都系城下町」は他にも今川氏の駿府や大内氏の山口などもあるが、現在街並みが200mにわたって推定復元されたところといえば一乗谷しかない。
白山西麓の静かな町である。2kmほどの細長い谷間に
実直なモノづくりの町、浜松と家康
「出世大名家康くん」の銅像
浜松駅を歩いていると、小さな金色の銅像を見つけた。浜松市のゆるキャラ「出世大名家康くん」の像である。それにしても小さい。90センチの台座にわずか60センチ、つまりぬいぐるみサイズである。大名の銅像がこのような形で据えられている例も珍しいが、出来栄えは岐阜駅前の信長とは比較にならない。そもそも「家康」に「くん」をつける時点で権威はなく、親しみのみ感じさせる。
「出世大
岐阜から上洛した信長
秀吉と竹中半兵衛「七顧の礼」
信長の美濃攻めで活躍した秀吉が、美濃の軍師竹中半兵衛をリクルートしたことについて、司馬さんはこのように述べている。
「あの男をわが家来にしたい」といってそのころすでに織田家の武将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのはこのあとである。藤吉郎は(中略)六度とも半兵衛にことわられた。信長の直臣になるということではない。藤吉郎の参謀になる、
名古屋の「アク」が生んだ近世桃山文化
秀吉と尾張中村
新幹線からJRセントラルタワーが見えてくると、じき名駅(めいえき)すなわち名古屋駅についた。駅の西側が太閤通り口である。さっそくこの町の生んだ英雄、秀吉に関わる通りを目にすることになった。この通りを西に2㎞あまり進み、中村公園駅で北を目指すと、中村公園につく。「尾張中村」というのは秀吉が「日吉丸」時代に育った故郷ということは小6のころから伝記を読んで知っていたので何やら懐かしい。
司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く
なぜ戦国の東海道か
子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。
関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり