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実直なモノづくりの町、浜松と家康

「出世大名家康くん」の銅像
 浜松駅を歩いていると、小さな金色の銅像を見つけた。浜松市のゆるキャラ「出世大名家康くん」の像である。それにしても小さい。90センチの台座にわずか60センチ、つまりぬいぐるみサイズである。大名の銅像がこのような形で据えられている例も珍しいが、出来栄えは岐阜駅前の信長とは比較にならない。そもそも「家康」に「くん」をつける時点で権威はなく、親しみのみ感じさせる。
 「出世大名」とはなにか。浜松城を経て将軍になった家康は別格だが、例えば天保の改革を指揮した老中水野忠邦のように、江戸時代に浜松城主になった後は幕閣に加わるケースが多かったことから、縁起を担いで作られたキャラである。ちなみにちょんまげは浜名湖のうなぎをイメージしており、ピアノの鍵盤柄の袴は地場産業であるピアノ(ヤマハ、カワイ)を表している。総体的にみて、これは戦国大名としての家康を顕彰した像というより、キャラにこめた浜松市の名所や名物をPRするものとみるべきだろう。
 このことからふと思った。この町は浜松城の城下町ではあるが、城下町意識はいったいどれぐらいあるものだろうか、と。

実直なものづくりのまち、浜松
 家康は1570年、故国である三河の岡崎城からここに本拠地を移した。その時の家康の戦略について司馬さんはこう描いている。
「『気でも狂いなされたか』と、みな言いさざめいた。(中略)遠江は手に入れたばかりの領国で、本国の三河からみれば植民地にすぎない。というのに、徳川圏の首都岡崎を廃して遠江の浜松にそれを置くとはどういうことであろう。(中略)『浜松は、敵に近い』と、家康は言った。敵は東のほうの駿府からくるのである。この敵をふせぐためには最前線に指揮所をもつべきだというのである。」
 石橋を叩いても「渡らな」そうな家康にとって、これは極めて大きな方向転換である。しかし桶狭間の戦いの後、尾張の信長は西へ西へと上洛を目指す一方、東隣りの三河の家康が目指すべきは自然に東へとなるのは必然であった。桶狭間の戦いから二年ほどたつと、織田・徳川連合軍を生み出す「清洲同盟」が締結された。以降、家康の行動は常に信長の意向に振り回されることになる。ならばこの浜松の町も、豪華絢爛で派手好きな信長的遺構でも残されているかと思うとそうでもなさそうだ。司馬さんは述べる。
「家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長に引きずりまわされ、それほどに深い縁をむすんだわりには家康はついに信長の好みや思考法はまねず、(中略)秀吉に対してもおなじである。(中略)内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。たとえば茶の湯がそうであろう。」
 浜松は実直な街である。この町とその周辺が生んだ世界的企業のそうそうたる顔ぶれがそれを証明している。先述したヤマハやカワイだけでなく、自動車産業ならホンダ、スズキ、そしてお隣湖西市はトヨタグループの創業者豊田佐吉を生んでいる。人口規模からすると日本一地に足の着いたモノづくりの町といっても過言ではない。

中途半端な模擬天守でもかまわない浜松城
 町はずれの三方原台地の隅に築いた浜松城を訪れた。東に遠州の大河、天竜川の激流が城下町を守る。名古屋城のような大きな天守はないが、石垣は城郭マニアもうなる野面積みの積み方が荒々しい。天守台に近づくと、「天守門」なる復元櫓門があるが、そこから除く模擬天守には違和感を覚えざるを得ない。天守台よりも模擬天守のほうが小さく、サイズがあっていないのだ。実に中途半端な感じである。
 戦時中の浜松はモノづくりの町が災いし、軍需工場も密集していたため、またサイパンなどから関東、関西に飛来した米軍爆撃機が最後にこの町に来て残った爆弾を投下され、さらに艦砲射撃まで受けたこともあり、この町は灰燼に帰した。
 戦後1958年に城址公園として整備しなおし、模擬天守を建設した際、「台所事情」もあって天守台よりも3割ほど小さめに造らざるを得なかったという。ほとんどの城下町の住民ならばこんな中途半端なことはしない。城は住民のこころを反映する鏡でもあるからだ。それにしても天守というその町の「顔」ともいうべき建造物をそれほど立派にしないのは、この町の人々に城下町気質がさほどないからだと思う。むしろモノづくりを通して実直に稼ぐという道を歩ませたのは、家康的な嗜好かもしれない。司馬さんはいう。
「家康とその三河侍の集団は豊臣期の大名になっても農夫くさく、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべきことにすこしも参加していない。かれらには他の大名を魅了した永徳も利休も南蛮好みもなにもなく、自分たちの野暮と田舎くささをあくまでもまもった。」
 そういえば資料館になっている模擬天守の内部にも、浜松市博物館にいっても、名古屋城本丸御殿のような豪華絢爛な常設展示物はほぼ見当たらなかった。むしろ司馬さんは家康の嗜好を次のようにまとめている。
「家康は味方の信長からまなばず、敵の信玄に心酔したところがいかにも妙で、三河者にとっては、商人のにおいのする尾張者よりも、おなじ農民のにおいのする甲州者により親近の思いがあったのかもしれない。」
 同盟国の気風よりも敵対国のそれになじんだという点が実に興味深い。今の日本でいうと、米国の民主主義・資本主義よりも中国の徳治主義・農本主義が保守層の体質にあっており、和紙に筆と墨で故事成語をしたためるような者かもしれない。

三方ヶ原の戦い
 しかもこの敵対国甲州者のカリスマ、武田信玄には人生最大の敗北を三方ヶ原で喫している。浜松築城のわずか三年後、風前の灯火だった駿河の今川勢を蹂躙した武田軍は上洛すべく遠江に侵攻してきた。織田徳川連合軍に対する攻撃ではあるが、矢面に立たされたのは徳川がほとんどだ。司馬さんは述べる。
「このとき、戦国期を通じて稀有といっていいほどの律義さを発揮した。信長との同盟を守り、信玄と戦い、自滅を覚悟したほとんど信じられぬほどのふしぎな誠実さであった。」
はたして律義さのみで家康は動くだろうか。しかも同盟国とはいえ親分格の信長は冷たい。
「信長は、別の立場をとった。(中略)信長にすれば、進んで戦ったところで、負けることは負ける以上、士卒の損害だけがむだであった。三千の援兵派遣は、家康への義理立てだけにすぎない。」
 まさに四面楚歌のなかを戦国最強の武田の騎馬隊に蹂躙されることを知りつつ立ち上がった健気なこの青年武将を、司馬さんはこう分析する。
「家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつにその内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、敗れることがあるらしい。彼は全軍に出戦の支度をさせた。(中略)
 ちなみに信長や秀吉と比べると、彼は負け戦を何度も経験している。司馬さんは
「この時代の名のある将のなかで家康ほど敗走の経験の多かった者はない。」
と述べている。浜松城の北方一キロに、台地の地形を利用した犀ヶ崖(さいががけ)という断崖絶壁がある。この古戦場に建てられた三方ヶ原の戦いの資料館に行ってみた。史実はともかく人形で合戦の様子がパノラマのように繰り広げられる大ジオラマが圧巻である。一方、戦没者を供養する「遠州大念佛」なるお盆行事の展示を見て気づいたことがある。禅宗や密教を信奉する他の名だたる戦国大名と異なり、家康は極楽往生を目指す浄土信仰の持ち主であった。

じわじわとしみいる合理性
 だが、この行事が死者の極楽往生を祈るものであることが示すように、徳川軍は完敗であった。命からがら逃げ伸びて浜松城に戻った家康の心境を、司馬さんはこう述べる。
「この間の家康の苦痛がいかに大きかったかということは、かれは浜松城の奥にこもったきり、三日間決断をくださなかったことでもわかる。」
 しかしいつまでもうじうじと悩んでいる家康ではない。立ち直りが早いのだ。
「家康は、物学びのすきな男である。(中略)かれはひそかに師を設定していた。それは甲斐のいまは亡い武田信玄であった。」
 自分を完膚なきまでに倒した信玄を師として尊敬する。ある意味自分を超える人物から学ぶほうが上達も早く、またあの負け戦をいつまでも心に留めておくことで二の舞にならないようにするというのは合理的ですらある。そして司馬さんは家康に言わせている。
「自分は三方ヶ原で大敗けに敗けたが、この敗けがその後どれほど薬になったかわからない」 
 「合理的」というと信長が思い起こされるが、この種の「素直な合理性」は信長には見られない。日本刀でスパッと斬るような信長の合理性と、じわりじわりと漢方薬のように体中にしみ込ませる家康の合理性があるのかもしれない。(続)


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