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名古屋の「アク」が生んだ近世桃山文化

秀吉と尾張中村
 新幹線からJRセントラルタワーが見えてくると、じき名駅(めいえき)すなわち名古屋駅についた。駅の西側が太閤通り口である。さっそくこの町の生んだ英雄、秀吉に関わる通りを目にすることになった。この通りを西に2㎞あまり進み、中村公園駅で北を目指すと、中村公園につく。「尾張中村」というのは秀吉が「日吉丸」時代に育った故郷ということは小6のころから伝記を読んで知っていたので何やら懐かしい。公園内には名古屋市秀吉清正記念館がある。そう、中村は加藤清正の故郷でもあったのだ。
 秀吉という人物も陽性なようでとらえどころがないが、司馬さんによれば、書物の勉強はともかく若かりし日々の放浪生活で培ったたたき上げの観察眼がその後の彼を作りあげたことが分かる。例えば駿河や遠江を放浪しているときの彼の所感はこんな感じである。
「なるほど駿遠領国は、いい土地である。冬は暖に、夏は涼しく、日光はあふれ、野の物成りがよく海に幸が多い。」
 この部分などは年末にここを訪れた裏日本人としての私の感想とまったく一致する。しかし彼のこの後彼の人間観察、社会観察の目の鋭さが発揮される。
「(おもしろい土地だ)と思うのは、小規模(こやけ)農家でさえ農奴をつかって旦那然と暮らしている。その農奴は北方の貧国甲斐からきた者が多い。戦さは三河兵にさせ、田仕事は甲州人にさせているとはなんと怠惰なことであろう。(なるほど環境にめぐまれすぎてはいる。しかしひとたび他国の兵の侵入を受けたならば駿遠の武士は必死に働くかどうか)
猿はそんな目でこの国を見ていた。」
 この部分を見て、私は身の回りを見返した。令和の静岡県は工場労働者はブラジル人、農村ではベトナム人にさせている。ホテルではネパール人や中国人が大活躍だ。そして静岡県だけではなくこれは日本中がそうなのだ。そしてひとたび他国の兵の侵入を受けたならば私たちは必死に働くだろうか。そして駿府ではさらに興味深い人々に目がとまったようだ。
「駿府では、美少年が多い。町を、華麗な小袖をきた美童があるいてゆく。理由がある。今川義元の好みであった。この京都文化の心酔者は、京都におけるあらゆる知的文化を駿府に導入することに熱中し、ついには京に淫するあまり、こういう嗜好までひき入れてしまった。」
 これなど、欧米などから本来人権問題であったLGBTQが鳴り物入りで輸入され、広まっていきつつある令和の日本そっくりであるが、司馬さんは秀吉の観察眼の鋭さをこのように想像している。そして「猿」呼ばわりされていた彼にこう言わせている。
「いやさこの世は、いわば長い狂言の場ではありますまいか」
 この世は長い狂言の場。波乱万丈の彼の人生、そして死後の豊臣家のたどった道を思うと、狂言として笑い飛ばす以外になさそうな気がしてくる。

あくの強さが名古屋気質
 名古屋はいわゆる「観光地」とは異なる。東京や横浜や大阪や京都や札幌が「観光地」としての側面をもっており、少なくとも観光目的にこれらの大都市を訪問することはあっても、半径100㎞以上離れた地域の人が観光目的で名古屋に行く人があったとすればよほどのマニアックな趣味があると思って間違いない。しかし一大都市としての風通しのよさは感じられる。町が明るく豪勢なのだ。私にとって桃山文化がもっとも息づいている大都市といえばこの町をまず思い浮かべるほどだ。
 「尾張名古屋は城で持つ」というが、戦災で名古屋城を焼失し、敗戦を迎えた後に市民が真っ先に考えたことが、耐火性のあるコンクリート天守の再建だったという。目に見える豪勢さものを作ることで戦後復興を実感し、それを見ながら中京工業地帯の中心地として日本の高度経済成長を牽引していったのだろう。平成にはそれにも勝る豪華絢爛な本丸御殿群を木造で復元し、さらに令和に入ってからは市長が先導して耐震基準を満たさないコンクリート天守を、焼失前の木造で復元しようという。市長だけでなくそれを支える市民のあくの強さを感じずにはいられない。
 味噌カツ、味噌煮込みうどん、ひつまぶし、手羽先、あんかけスパ、天むす、台湾ラーメン、モーニングなど、平成期に「なごやめし」と呼ばれるようになった一連の料理群も、地味さがなくインスタ映えするうえに食べ応えがある。あっさり、さっぱりしたものよりこってり、がっつりした食文化が似合う大都市として大阪に肩を並べられるところはこの町しかないかもしれない。そんなことを考えながら司馬さんは信長に仕官してからの「猿」つまり秀吉の心境をこう描いている。
「織田家の家風が陽気なせいか、例の鬱し顔も影をひそめ、年中罪のない法螺を吹いている剽軽者として長屋の人気者になった。猿の人生は一変したといっていい。」

ベターっとした中世からサラッとした近世へ
 生まれ育った尾張の信長に仕えた秀吉はまさに水を得た魚のように力を発揮していった。それどころかあの信長の懐にもぐりこんだだけでなく、基本的な価値観においてウマが合ったのは彼だけかもしれない。司馬さんは秀吉と信長の用兵の仕方についてこう語る。
「猿は戦さの玄人という連中のあたまが疑わしくなった。何の思慮分別もなく、勇気と運だけに頼って戦さをしているようである。同じ侍でも美濃人のほうがはるかに芸と工夫がある。(中略)信長は、(尾張者は頭脳で戦さをしようとはしない)という自国の通弊を知ったであろう。」
 地勢に恵まれた尾張の明るい空気では軍略家は生まれ育たないと二人とも思っていたのだ。
 信長にとって舅となる斎藤道三が息子に殺され、弔い合戦として信長が美濃攻略を行った際、先鋒にあった家来の一人が秀吉だった。そして司馬さんによれば信長に軍略の大切さのヒントを与えたのが秀吉だという。
「信長は、こんどの侵攻こそ成功すると思ったのは、以前に施したことのない要素を、こんどの作戦に加味してあるからであった。過去二十年、織田方は美濃を純軍事的に攻めた。このたびは、猿の働きによって謀略の手を施してある。「調略」と、この当時の言葉でいうべきであろう。(中略)しかしこの調略家の信長でさえ、調略を大規模に用いはじめたのはこの永禄十年の美濃攻めの前後であった。つまり、藤吉郎の登用と時期を同じくしている。藤吉郎のいうことに耳を傾けたということである。
 確かに秀吉のその後の城攻めのやり方を見ると、土木工事によって備中高松城を水攻めしたり、事前に米を買い占めて鳥取城や三木城を飢餓状態にする兵糧攻めなど、正面から正々堂々と「純軍事的」にはぶつからない。そしてその効用を認めたのがプラグマティストの信長であった。
 また、秀吉の信長に対する思いが当時の主従関係とは全く異なっていたという司馬さんの観察が実に興味深い。褒美として加増されたときのリアクションはこうである。
「殿様に、御損をかけた。倍の千貫はかせぎとらねばならぬ」猿はさかんにそれをつぶやいた。侍の常識からみればひどく滑稽な思想であった。ふつうの家士なら功名をたてて禄を得ればそれだけで侍の名誉をあげたとして自足するところである。そういうことで主従関係は成立している。猿はこの点、侍ではなく、あたまから商人であった。新恩を頂戴して信長に損をかけたという。損をかけた以上、敵地を切り取り、切り取る以上すくなくとも千貫切り取り、信長の出費を零にし、残る五百貫分だけ信長に儲けさせねばならぬ、という。(中略)いや、この発想法は信長の影響によるものかもしれなかった。(中略)家柄や門地に一文の価値もみとめず、自分に儲けさせるものを好む。」
 他の家来たちが「(株)織田信長」に就職した正社員とするなら、彼はその会社に外部のコンサルとして、あくまでクライアント的に付き合い、会社の発展に尽くそうとしているかのようなのだ。そしてそんな発想は信長の影響かもしれないという。「主従関係」というベターっとしたものが中世的とするならば、信長も秀吉も個人事業主として大企業とサラッと付き合うかのようである。
 勇壮豪快でありながらサラッとした人間関係。この商人気質が中世を終わらせ、近世に突入していったかのようだ。そしてその始まりはこの尾張名古屋だった。


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