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日本人気質のルーツ(?)三河人気質

三河・岡崎城
 桶狭間の戦いで今川義元が雑兵に討たれると、今川家の人質となっていた松平元康、すなわち家康は悩みに悩んだ。今川家を見限り織田家につくかどうかという選択である。それまでの三河衆の今川家に対する健気なまでの尽力は特筆すべきなのだろう。司馬さんは家康の家来たちの口を借りて三河衆の心境をこう書いている。
「このように今川のために死働きしてさえおれば、今川家のほうでもやがて我等に同情し、我等を信頼するようになり、ひいては駿府に構われてござる竹千代(家康)様を返してくれるにちがいない」(中略)「竹千代様は、われわれが無明長屋(むみょうじょうや)のともしびよ」
 三河衆の盲目的なまでの主君家康への思いが伝わってくる。ただ没落しつつあったとはいえ、今川家はまだ健在である。しかし尾張の織田の勢力も無視できない。結局は岡崎城に戻った家康だが、なおも今川家に対し「律儀」を「演じて」いたと司馬さんは考える。
この『律儀』は、むろんただの正直者のあの正直ではないであろう。正直を演技するという、そういうあくのつよい正直であった。この用心ぶかい男は、義元が死んでなお今川家をおそれていた。
 家来たちの主君に対する盲目的な忠誠心だけではない。家康もトップダウンではなく、部下たちを気遣っていた。司馬さん曰く、
家康の徳川家のばあいは、家康は名手としてかれに属する族党群の族長どもに対して大きな遠慮がある。この『遠慮』の感覚が、いわば内部政治というものであった。家康はその麾下の三河武士団をよく統御していたが、しかしかといって信長のようにその重臣をまるで奴隷のように追いつかうという立場ではなかったために、かれらにこまかく心くばりし、ときには彼らの歓心を得ようとするような言動もし、とくにかれらの自尊心を傷つけることのないようにこまかい配慮をつねにはたらかせていた。
 これは信長とは正反対といってよい。だからこそ忠誠心を勝ち得たのかもしれない。そんなことを考えながら岡崎城の天守や三河武士のやかた家康館などを歩いてみたが、特にそれを感じさせてくれるものは見当たらなかった。

三河人VS尾張人
 この用心深さや律義さについて、司馬さんは「三河気質」という表現を使ってこう説明している。
「三河には、徳川家康とその家臣団の気風で代表されるような『三河気質』というものがある。極端な農民型で、農民の美質と欠点をもっている。律儀で篤実で義理にあつく、侍奉をすれば戦場では労をおしまず命をおしまず働く。着実ではあるが逆にいえば、投機がきらいで開放的でなく冒険心にとぼしい。印象としては陽気さがない。」
 私は家康がさほど好きではない。信長に憧れていた人間である。が、このくだりを読んで、私は三河人に好意を持つようになった。三河人がもし本当にこんな真面目だけが取り柄で安定志向の地味な人々ならば、これは私の生まれ育った山陰人、ひいては「裏日本人」の気質そっくりではないか。一方で司馬さんは隣国尾張人の気質をまず地形にかこつけてこう記している。
隣国の尾張はまるでちがう。地形がちがうのである。いちめんの平原で、その平原のあいだを数多くの川が貫流している。道路が多く、水路も多い。となれば自然の勢いで商業が発達してゆく。さらに尾張は熱田を起点に伊勢との海上交通がひらけ、京への道程が早い。(中略)さらに、この国は干拓がしやすい。
 この地形が人々にどのような性格を植え付けたのか。司馬さんは続ける。
自然、農民に金がある。そのうえ地勢的に商売がしやすいために人間が利にさとくなり、投機的になる。かつ、国の地勢が低地で河川の氾濫が多くせっかくの美田も秋になれば川に流されることがしばしばであった。当然、土地にしがみつく保守的な生き方よりも、外に出て利をかせぐ進取的、ときには投機的な生きかたをとらざるをえない。尾張は、農民まで商人的な気質をはやくから帯びているのである。」
 これは我々山陰人が山陽人、ひいては関西人に対して抱く偏見にそっくりである。ますます三河人に親近感をもち、かわりにあれほど憧れた信長を生み出した尾張人の存在が私から遠のいていった。さらに司馬さんは言う。
「三河の庄屋然とした家康の性格、ゆきかたは死ぬまでかわらず、その死の前に遺言して、
『徳川家の家政の制度は三河のころのままを踏襲してゆくように』といった。」
 つまり、徳川三百年の太平の世は、進取の気質とはかけ離れた保守的な三河人の気質を全国に広げたために守られたようなものだったのだ。ようやくわかりかけてきた。なぜ小学生の私が家康を敬遠し、信長に憧れたのか。私を取り巻く山陰の「三河人気質」に嫌気がさしたからに違いない。ないものねだりの対象が信長だったのだ。

三河一向一揆と本證寺
 三河は安城市の本證寺を訪れた。若き日の家康にとって三河国内最大の敵は一向宗の門徒たちであったが、彼らが本拠地とするところの一つがこの寺だった。阿弥陀如来を信じ、来世での極楽往生を信ずることが、三河人気質に与えた影響を、真宗門徒の司馬さんはこう述べる。
「三河の本願寺門徒の風はこの国の気質が気質だけにかくべつに頑固で、(中略)この三河では守護大名に力がなく、それにかわるべき松平氏の実力が振るわず、一国を統制すべき武権が成立していないからであろう。なにしろ門徒の地侍たちは、「主人といえども一世の契り。弥陀の本願未来永劫のちぎり」ととなえて地上の権を軽く見、むしろ阿弥陀如来の家来、というような意識で生きている。」
 この世で生きる時間よりもあの世での時間のほうが長いという発想が、現実社会における特定大名の家来という感覚を麻痺させていたと考えるのだ。ちなみにこの寺は後に再建されたものであるが、城郭の櫓そっくりな建築物が目立ち、その前には濠が巡らされている。さらに土塁もまことに実用的で、立派な平城といっていい。臨戦態勢であることを感じさせるその城郭兼寺院というユニークさに、普段はもらわない「御城印」をいただいたほどだ。こうした寺に関して司馬さんも言及している。
「寺々も、様子が違う。この宗旨にかぎって寺院の建築は半ば城塞化している。堀をめぐらし、練塀を高くし、さらに「太鼓楼」と称する櫓をあげ、その櫓には白壁を塗って火箭(ひや)の防ぎにしているという騒ぎである。」
 中に入ると畳の向こうに阿弥陀如来が立ち、こちらに歩んできそうな感じである。高田家は曹洞宗ではあるが、真宗門徒がみな唱える「正信偈」をあげさせてもらった。司馬さんは民衆の宗派としての浄土真宗を、支配層の宗派としての側面も持つ真言宗と比較する。
「真言宗にあっては大日如来を宇宙の中心とし、阿弥陀如来はその一表現にすぎない。階級でいえば大日の家来が阿弥陀ということになるだろう。(中略)が、門徒ーつまり親鸞を宗祖とする本願寺の浄土真宗にあっては、まるでちがう。阿弥陀如来こそ、宇宙の主役であり中心であり、それどころか宇宙そのものであり、他の仏は居ない。大日も観音も地蔵も、家来どころか、存在もしないのである。いわば一神教であった。」
 そう、一神教的な宗派であるから阿弥陀如来のもとにみなが結集し、世俗勢力である家康だけでなく、信長にまで反抗しえたのが一向宗門徒たちだったのだ。こうした門徒たちから構成される三河衆であるから、
「この当時すでに 三河衆一人に尾張衆三人。ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類という不思議な小集団であった。
と司馬さんがいうように、命知らずの軍事集団が形成されていったのも不思議ではない。

こうして三河気質が日本人気質になった?
 ところで家康の家である松平家は、奥三河の土豪であるが、詐称して源氏の子孫ということにした。司馬さん曰く、
家康はこのころ、ー自分は源氏の流れを汲んでいる。と称しはじめていた。むろんたしかな根拠のあることではなく、そう私称していたにすぎない。その私称をいわば公称にするために「勅許によって改姓した」という手続をふんだ。三河松平郷の土豪あがりの氏素性も知れぬ出来星大名、というのでは、足利将軍に拝謁したり御所へ参内したりする手前、体裁がわるいとおもったのであろう。
 このように、落ちぶれたとはいえ将軍家に拝謁しようとすることを考えるだけでも、いかにも「三河人的」なのかもしれない。「腐っても鯛」ではないが、とりあえず名家は名家である、という中世的感覚を持ち合わせていた家康は、信長よりもずっと若い割には古いタイプに思える。司馬さんも言う。
将軍を擁立しようというほどの熱意をもつ大名は、一つの点で共通している。名家意識である。例:越後の上杉輝虎、薩摩の島津、(中略)そこへゆくと、織田家はどうか。数代前は越前から流れてきた神主にすぎぬというのではないか。
 尾張の都会人である信長は出自は気にしない。しかし三河の田舎者である家康はそうはいかない。このような感覚が新しい幕府ができてからも中世から近世的な信長風になるのではなく、かえって復古的になっていった。そしてそれが全国に波及し、その後のまじめで保守的な日本人気質を生み出したと考えると極めて興味深い(続)


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