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一乗谷:義景と光秀と義昭と信長の交差点

一乗谷の衝撃
 ここでしばらく東海道を離れて、北陸は越前一乗谷を歩いてみたい。一乗谷は朝倉氏の城下町であり、都の没落貴族たちを招聘して街並みを貴族風に改めた「元祖小京都」の一つと言えよう。このようなタイプの「小京都系城下町」は他にも今川氏の駿府や大内氏の山口などもあるが、現在街並みが200mにわたって推定復元されたところといえば一乗谷しかない。
 白山西麓の静かな町である。2kmほどの細長い谷間に大きくはない川が流れている。城戸(きど)を通り過ぎ、しばらく進むと左岸に昔の街並みが復元され、右岸には朝倉義景の時代の遺構が広がり、向かいの山は山城である。唯一の建造物として夏草の中にぽつりとたたずむ京風の唐門が「兵どもの夢の跡」を物語っている。檜皮葺きの門をくぐると礎石がずらりと並び、館の規模をうかがわせる。足利義満の「花の御所」を思わせる建築だったという。そして片隅に岩のかたまりがいくつか残っている。かつて朝倉氏たちが眺めたであろう石組だ。規模は小さいながらも風格を感じさせる。聞くと、足利義政の慈照寺庭園を模したものという。いかに京都の将軍家を意識していたかが分かる。
 初めてここを訪れたときはここまで引きかえしたが、二回目にはつづら折りの坂を上って「湯殿跡庭園」を目にしたときには足が震えた。岩の荘厳さ。迫力。かつて岡本太郎をも震えさせたというこの庭の無言の凄味を十分に堪能した。同時代の京都の庭園でここまで凄味を持つ岩はあっただろうか。しばらく思い浮かばない。ここは復元ではなく、長い間土に埋まっていたのを掘り起こしたものというから、まさに朝倉義景らが将軍たちを接待して見せたところに違いない。

奔走する「志士」明智光秀と一乗谷
 この小京都にしばらく草鞋を脱いでいた戦国時代有数の文人武士がいる。若き日の明智光秀だ。清和源氏の後裔、美濃土岐氏の血筋を引き継ぐというが定かではない。福井方面から町に入る手前に、若かりし日の光秀が住んでいたという。この美濃人は「裏切り者」の烙印を押され過ぎたせいか、まともにその功績を見ようとしない傾向にあるようだが、司馬さんは彼をしてこう評している。
「この、武士としては史書や文学書を読みすぎている男は、たとえば諸葛孔明のような、たとえば文天祥のような、そういう生涯を欲した。(中略)この男を、どう理解すればよいか。自分の生涯を詩にしたいという願望は、つまりそういう願望を持つ気質は―男の中では、志士的気質というべきであろう。」
 「修身斉家治国平天下」という言葉が「大学」にある。学問をして身を修め、それを一族に、そして国中に波及させれば天下泰平となる、つまり学問の意味は天下泰平にあるのであり、逆算すれば天下泰平の世を望むなら学問で身を修めよ、ということになる。光秀にとって学問とは天下泰平のためにあると司馬さんは考えているのだろう。さらにこうも言っている。
「この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。(中略)戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛光秀しかいない。」
 司馬さんから見れば、下馬評では「裏切り者」にすぎない光秀こそ、時代が異なれば吉田松陰や高杉晋作、吉田松陰と並ぶような「志士」なのだという。確かに彼は、学問はあっても仕官先はない一介の素浪人であった。しかし結果的に朝倉家、足利家などを転々としながら織田家に落ち着くことになった点を見れば、「奔走する志士」である。朝倉家のような旧態依然とした中世そのままの大名に仕えながらも、彼自身は中世と近世の狭間に立ち、新時代を注意深く観察している。だからこそ上洛を急いで朝倉に頼ってきた流浪の将軍候補足利義昭を、主君に敵対する信長につなぐなどということができたのだろう。

「資本主義的戦争」を行う信長・秀吉ライン
 また彼はいつでも自分を「士」として迎えてくれる人物がいないか探しているように思える。例えば織田家が近江を席巻しているのを見て、司馬さんは彼に
「芸がほろび、素人風のやり方がいい時代になったのかもしれない」
と言わせている。「兵法」に従って「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げつつ「物理的」に戦うよりも、情報戦や新兵器などを積極的に活用する信長は、兵法の素人かもしれないが、光秀はそんな彼を嫌ってはいない。肌は合わなくても時代の移り変わりはそれなりに受け入れているようだ。また、近江攻略で大津を支配下におこうとしている信長を見た光秀はこうも言う。
「大津には、物と銭があつまる」(中略)(なるほど運上金⦅商品税⦆をとるためか)と、光秀は、信長の着眼のよさにうめくおもいであった。(中略)(信長の生国の尾張が、熱田のあたりを中心に早くから商いがさかんだったせいでもあろう。(中略)米でしか勘定のできぬ大名とちがい、信長は金銭というものを知っている)
 刀や弓矢で純軍事的に戦うのではなく、貨幣を、経済をおさえることで敵を圧迫する「資本主義的戦争」を行った最初の人物が信長であり、それを全国に展開したのが秀吉だったと考えてほぼ間違いないだろう。
 ところでこの「資本主義的商人気質」の信長・秀吉ラインに対して光秀は決して反対はしないし純軍事的に攻めるだけの力も持っていない。あくまで傍観者である。司馬さんは信長のもとでこの二人がどうリアクションを取るか対比しながら描いている。
やがて光秀が参上した。『数えろ』と信長はいった。癖で、言葉がみじかい。その信長の言葉癖を理解するにはよほど機転のきいた男か、よほど古くから近侍していなければわかるものではなかった。光秀はとまどった。」
 ここでは「ツー」といっても「カー」と響かない光秀の勘の鈍さを描いている。この文はこう続く。
「たまたまそこに居合わせた木下藤吉郎秀吉が小声で光秀にささやき、『拝謁の礼式をでござる』と、たすけ舟を出してくれた。この藤吉郎という小者あがりの高級将校は、どういうわけか信長の叫び声が理解できるようであった。『十兵衛、聞こえぬか』と、信長はもういらいらしていた。」

陽気ではないが民政にたけた光秀
 光秀は家格は高く学問もあるが勘が鈍い。一方、秀吉は180度対照的に描かれている。司馬さん自身が臨機応変に「ボケと突っ込み」をかまし、ひょうきんな一面を持つ大阪人であるからか、秀吉のこういうところが司馬さんごのみなのだろう。また光秀を評して曰く、
「光秀は謹直な男だが、陽気さがない。(中略)時勢の人気に投じ、新しい時代をひらく人格の機微は、人々の心をおのずと明るくする陽気というものであろう。」
 このくだりを見て思い出したのが、幕末の志士でダントツに陽気に描かれている坂本龍馬である。いや、先ほど光秀を戦国唯一の「志士」として評したのではなかったか。確かにそうであろうが、志士は志士でも「陽性の志士」こそ新しい時代を開くというわけだ。それは信長にも家康にももちろん光秀にも不足しており、ただ秀吉のみが持ちえたキャラクターだった。
 とはいえ司馬さんも光秀を認めないわけではない。乱世に必要とされるタイプが志士なのだろうが、彼は平時のほうがむしろ向いていたのかもしれない。一乗谷が陥落したあと、この地を一時任せられた光秀をこう評している。
「占領地司政官としての光秀の評はよかった。この男の才能の第一は、民政の能力であるらしい。かれが朝倉家にいたころに彼をいじめた連中も、いまとなってはひざまずいて自分の窮状を陳情しに来たが、いずれもこころよく応対してやった。」
 少なくとも信長と比べると、なかなかハラのある人物に思えてくるではないか。

華やかながらも質実剛健な一乗谷
 一乗谷に県立博物館がオープンした。その名も「朝倉氏一乗谷遺跡博物館」である。最大の見ものは先ほど歩いた礎石の上にあったはずの館(やかた)の内部が原寸サイズで復元されていることである。足利義昭が朝倉義景を頼ってきたときにここに座って三日三晩の宴会をしたのだろう。そして隣接地の中庭には花壇がある。花壇はこの時代最先端の南蛮文化のはずだ。かつて蝦夷地にまで輸出された濡れると青く光る地元の笏谷石(しゃくだにいし)で囲いをしたこの花壇の中には、越前和紙で本物そっくりに作られた草花が「植えられて」いる。朝倉氏が京都のみならずその向こうの南蛮文化にまで精通していたことの証拠だろう。
 資料館ではさらに明や欧州の舶来品まで展示されていて、グローバルでダイナミックな桃山時代の息吹を感じさせる。質実剛健を旨とするだけの三河者の家康とは大違いである。しかし地形のジオラマを見ると、山に囲まれた細長い盆地が上下の城戸で閉じられており、まるで巾着のようである。三方を山、南方を遠浅の海で囲まれた鎌倉を想起した。
 さらに復元された街並みのはずれに見た数多くの笏谷石製の井戸は、この谷間がいかに水資源を持っていたかの表れであり、籠城に適しているかが分かる。九州から蝦夷地をむすび、京都につながる日本海航路の要衝である三国や敦賀の港町をおさえることで得た莫大の利益をもとに、桃山風にして京風の文化を取り入れてはいても、ここは町中が臨戦態勢である武家の町なのだということに気づかされる。とはいえ一世紀にわたって続いたこの町の繁栄は信長によって文字通り一晩にして灰燼に帰した。
 敵対した朝倉義景と自分を裏切って朝倉方についた近江小谷城主にして、妹お市の方の夫でもある浅井長政に対して信長はどうしたか。想像するだに精神の異常をきたしそうな表現だが「敵に対しては、たとえば朝倉義景・浅井長政の頭蓋骨を細工して酒杯にこしらえさせるほどに憎悪の深いこの男」と描いている。もっともこれに続けて「が、自分が庇護すべき庶民に対してはそれとおなじ奥深い場所で憐れみを感ずるたちであるらしい。」とフォローはしている。二重人格なのだろうが。もちろん敵将の頭蓋骨の漆塗りは敵に対する尊敬の念だという意見もあるのだが、にしてもまともな精神構造とは思われない。
 信長のこのような極端に残忍な性格が光秀に謀反を起こさせたという通説には基本的にその通りと思わないではいられない。(続)


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