名君か?暗君か?明治維新への決断
幕末、すっかり徳川政権が弱体化した頃、ありとあらゆる考え方や思想が錯綜して、260年間の平和が崩壊しようとしていました。
そんな時、肝心かなめの立場にあったキーパーソンたちは、結局ただの暗君だったのか、それとも名君だったのか?
今回は、日本史上のもっとも大きな革命となった幕末から明治維新を生きたリーダーたちを振り返ってみます。
そうしてみると、現代にも通用するような教訓が見えてきました
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旧幕府軍
徳川慶喜>最初からヤル気なし?
結論から言うと、最初から幕府なんてどうせもたないだろうと思っていたのではないか?
鳥羽・伏見の戦い後、家臣たちを置き去りにして自分だけ逃げ帰るという「敵前逃亡」したのが、一気に信頼を無くし、暗君と言われる要因となりました。
彼は幼少時から文武両道に長けた聡明さを持ち、父・斉昭をはじめ周囲の期待を一身に背負って成長します。
斉昭は七男だった彼を、少しでも未来が開けることを期待していずれは将軍も視野に入れて「一橋家」へ養子に出すのです。
しかし慶喜自身は、いざ将軍を依頼された時、頑なに将軍職を固辞し続け、前将軍の家茂が急死した事で仕方なく将軍となります。
そう。仕方なくです。
世の中の流れをよく見て理解していた慶喜は、「桜田門外の変」や「天狗党」でなにかとお騒がせなふ尊王攘夷を掲げる水戸藩に生まれていたとはいえ、攘夷など実現不可能だと悟っていたのででしょう。
もしかしたら、一番先に開国派になっていたかもしれません。
攘夷など馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたはずです。
「大政奉還」を土佐藩・山内容堂から建白された時、戦争を回避できるとすぐに実行したのは英断だったと思います。
その後、「朝敵」という汚名をきせられたら、すぐに謹慎するなど、その場その場の状況を素早く判断して、速やかに行動しています。
きっと彼は世の中を俯瞰して見る事に長けていて、見えすぎるからこそ、様々な思想が飛び交うカオスな時世の中、彼なりに上手く立ち回ったのではないでしょうか。
要するに、ここぞという時には目の覚めるような決断力と行動力を発揮しているのです。
松平容保>一途過ぎて視野が狭い?
彼が治めた会津藩ほど、先祖代々、藩祖の保科正之以来、朝廷や幕府に忠誠の深い藩はないのです。
なぜなら、その藩祖が残した家訓にしっかり徳川家への忠誠は明記されていますから。
容保も藩主として忠実にそれを守ります。
さらに当時の孝明天皇から直筆の感謝状(御宸翰)までもらったものですから、忠臣としての正義感はマックスになります。
それなのに戊辰戦争では薩長などで構成された「新政府軍」から、あろうことか「朝敵」にされ、見せしめのように徹底的に攻撃されてしまうのです。
やがてそれは東北全土にまで広がります。(奥羽列藩同盟)
会津藩の被害は甚大で、膨大な死者数を出し、籠城して徹底抗戦を繰り広げますが、そんなの勝てるわけがありません。
どうにもならなくなってから、やっと降参しているのです。
そもそも。
会津は攻められるような理由などないのです。
容保の中では「え?なぜなぜ?」
と自問自答しているうちに、家臣や領民たちは戦死し、領内は破壊されていったのでしょう。
領内に侵攻される前に降参すべきでした。
もっとも、早く降参して恭順していても攻められていたのかもしれません。
薩長の勢いは止まらなかったでしょう。
では容保はどこで間違ったのでしょう?
もっと以前の京へ上るキッカケになった京都守護職を引き受けた時から、このシナリオは出来ていたのです。
罠にかかったようなものでした。
忠臣としての心構えは立派なのですが、多くの領民と家臣を抱えている立場であるという責任を忘れてはいけない。
新政府軍
毛利敬親>放任主義が家臣を伸ばした?
長州藩の藩主の敬親は、「そうせい公」と言われるほど、家臣からの進言を何事も「そうせい。」という一言で済ましていました。
自分の意見を積極的に述べるわけでも、反対するわけでもなく、なんとも手応えのない藩主だったようです。
だからこそ、臣下の者たちは思いっきりノビノビして生き生きと幕末を謳歌できたのかもしれません。
吉田松陰の唱えた「草莽崛起」の通り、名もない庶民至るまで立ち上がり、とうとう倒幕を実現したのです。
なにせ攘夷思想にかぶれて、下関を通る外国船に砲撃するという、身の程知らずな事をしでかしますが、その後、仕返しに来た英・米・仏・蘭の連合艦隊にボコボコにされて、大ダメージを受けます。
しかし、タダでは転ばないのが長州藩で、この後は開国派に転じ、倒幕へと加速するのです。
高杉晋作らの活躍で、幕府軍に勝利したり、劇的な勝利をおさめたりしています。
こんな過激な機動力を持つことができたのは、藩主・敬親の放任的な態度のおかげでしょうか?
彼は意図して、わざと家臣たちを野放しにしていたのか?
それとも、自分ではわからないから家臣に丸投げしていたのか?
どちらであれ、結果的に、藩主が口うるさく過保護にしなかったため、
家臣たちは、自分で頭を打ちながら成長して”世渡り上手”となったのではないでしょうか。
島津久光>力み過ぎて空回り?
薩摩藩藩主と言いたい所ですが、実際の藩主は実子の忠義です。
国父として事実上、藩内の権力を掌握したので、久光がほぼ藩主としての役目を果たしました。
四賢侯と言われた異母兄・斉彬が急死したため、その遺言により、表向きには忠義が薩摩藩最後の藩主となりました。
溢れるほどの知性と行動力と理解力を備えた兄・斉彬をいつも憧れの対象として傍観していたのに、思わぬ形で権力を手にしてしまったのですから、
それは張り切ったことでしょう。
しかし、時代は彼をのほほんと権力に浸っている時間を与えませんでした。
薩英戦争、禁門の変、2回の長州征伐、薩長同盟の締結、将軍・家茂や孝明天皇の崩御など目まぐるしく事変は続きます。
公武合体派であったため、中央の幕政に参加しますが、掴みどころのない慶喜に見切りをつけて倒幕へと変わっていきます。
しかしながら、この先は、久光の知らない所で、西郷隆盛や大久保利通らの変わり身の速い上手い立ち回りでの主導で、思いがけない方向に事態は急変し、久光は蚊帳の外に置かれたまま明治を迎えます。
自分が主導権を握れず、下級の家臣たちが主導でできた新政府には、最後まで反発し、生涯、髷を結い、和装に帯刀といういでたちでした。
もしかしたら誰よりも熱い気持ちを持っていたはずなのに、気付けば取り残されて、局面を捉えきれずに空回りしていたのです。