ep16 千年斧入らずの笠捨山
十津川村には数え切れない位の山のピークがあって、目立つものには名前があります。地図で見る公式な名前もあれば、地元の人が言い伝える名前もあります。村境のルート上にも、代表的な山がいくつもあり、ルートを進む際には次の目標として目指す事となります。
眺望の良い山頂もあれば、全く眺望の無い山頂もあります。ほとんどの場合、人気のある山ほど眺望が良く、人気の無い奥山ほど眺望が悪い状態になっています。
人気のある山は、おおよそ街道であったり、宗教的な物であったり、昔から人が多く入り、周りがよく見渡せるように周囲の木々を伐採した事が多かったのではないでしょうか。
前回の投稿では蛇崩山と茶臼山について書きました。2つともユニークな名前ですね。蛇崩山(ダグエヤマ)は、蛇にまつわる伝説より名付けられています。蛇崩と言う場所はあちこちにあるようです。私の知り合いにも屋号が蛇崩(ジャングエ)と言う方もいらっしゃいますので、きっとそのような場所に家を構えていたのでしょう。
茶臼山に関しても形が茶臼に似ているからだと思われます。前回記述した通り、茶臼山は全国で何十カ所もあるようです。ウィキペディア参照。
笠捨山と言う所
①名前の由来
大峯奥駈道から蛇崩山と茶臼山に向かう分岐点に笠捨山(カサステヤマ)があります。
『千年斧入ラズノ森』と伝えられている深い深い森だったそうです。
今から約900年前の平安時代後期から鎌倉時代に生きた西行法師。修行の為この場所を訪れた時、深い森があまりにも寂しく、よほど怖かったのか、自分の持っていた傘を捨て逃げたと言う伝説からこの名前がつけられているようです。
そもそも、そんな時代、既に人が行き来してたと言うことが驚きです。【百人一首で有名な西行法師】
②化け物の出る山
笠捨山の由来は、西行法師によるものでしたが、その他にも十津川村の昔話にも笠捨山が登場します。
笠捨山は、十津川村から下北山村の浦向集落へ続く逓信道(テイシンドウ)郵便の道として利用されていました。郵便物があればそれを届けるために笠捨山を越えたそうです。笠捨山の少し北側に『笠捨越え』と言う交差点があり、今でも下北山村に道が続きます。
日本人の気質上、きっちりと決まった時間に郵便物を運んでいたそうで、夜中1時〜2時頃に山越えをしていたそうです。(これは多分事実だと思います)
こんな道を真夜中頻繁に歩いていた当時の逓信人(郵便局員)の体力と精神力は半端ないものだったと想定されます。
昔話に戻りまして、逓信人が笠捨越えをする際に、なんと不気味な女性の化け物と出くわします。勇敢な逓信人がその化け物を追い払ったと言う話なのですが、何度かその化け物と出会う事に。最終的にはその化け物が形態を変化させ、身長3メートルの大入道になります。怖い物知らずの逓信人でしたが、恐怖あまり動けなくなって再起不能となってしまいました。
これ以降、夜中に山越えするのは中止したいと中央に申し入れ、深夜の配達仕事は無くなったという事です。
何のためにこのような話が作られたのかは分かりませんが、昔からの言い伝えであろう西行法師の笠捨て事案に通じるものがあると私は想像しています。深夜に笠捨山は行きたくありません。
③天誅組が敗走した笠捨山
今から約160年前の明治維新が起こるちょっと前、鎖国が解除された日本では、外国人を排除(攘夷)する機運が高まりました。天皇が攘夷を決断するため大和(奈良)への行幸が行われる。そのように聞きつけた土佐出身の浪士、吉村虎太郎など勤王の者たちが結集し、その時の天皇の甥、まだ19歳の中山忠光と言う公家の侍従を総大将として天誅組を作りました。
(天誅)とは「月に変わっておしおきよ!」某アニメのセリフそのものです。
要するに、黒船が来て外国人に日本が乗っ取られる事を危惧した若者達が、天皇を中心に戦う集団を作り、開国に応じる幕府側を悪としました。幕府をおしおきし、倒して政権を奪取(クーデター)しようとしたのです。
メンバーは約40名。彼らは超過激派集団で天皇が大和行幸に来る事を期に、露払いをすべく五條市に入り、そこにあった代官所(幕府の役所)を襲撃して重役を殺し、斬首。 今も政所として残る桜井寺にて首を洗ったのだとか。超、、超過激です。
しかし、五條代官所襲撃直後、中央では攘夷派の人達が追い出され突然の政変により天皇が大和へ来る事も中止となりました。天誅組は一変して逆賊扱い。幕府軍に掃討される事となりました。天地がひっくり返るとはまさにこの事です。
そこで次の手を打つため目をつけたのが、勤王の地、十津川郷です。挙げた拳を下げれなくなった天誅組は、十津川郷へ督促を出し、何も知らない1000人近くの十津川兵を無理矢理集め、幕府側高取藩の高取城へ攻め入るのです。
しかし、力の差は歴然。最強の城で名高い高取城に侵入する事も出来ず、返り討ちにされます。
諦め切れない総裁の吉村虎太郎は夜襲をかけるも、途中で見つかり交戦。運悪く味方の誤射にて重傷を負います。その後あちこちで幕府軍と戦った天誅組ですが、離脱する者も現れ、最終的に十津川村に逃げ込みます。
十津川郷の兵は何も知らずに無理矢理参加させられた事もありました。後に逆賊扱いされると聞くと、幕府に許される代わりに天誅組を郷外へ出す必要がありました。離反した天誅組は幕府軍に包囲され敗走します。
大将中山忠光一行は逃げ道として十津川村小原から玉置山へ登り、紀州藩の追手を逃れて険しい奥駈道に入ります。その時に通ったのが笠捨山です。
葛川と言う集落に一旦寄っている記録があるので、そこから逓信道を登ったと思われます。怪我で担がれる者もいたでしょう。哀れな状況だったと想像されます。
天誅組の分かりやすい動画
笠捨越えから北山に出た一行は北上を続け、東吉野の地に辿り着きます。総裁の吉村虎太郎はそこで最期を迎え、現在も終焉の地として祀られています。27歳でした。
総大将の中山忠光は大阪まで逃げ切り殺される事はありませんでしたが、後に暗殺されます。
まとめ
このように十津川村には至る所、山の名前があって、その一つ一つに先人の思いやその時代の出来事などが染み込まれているという事です。
西行法師の寂しい思い。化け物と出会った逓信人の恐怖、天誅組の無念さ。修験の辛さや登山者が見る景色の感動。その場に立つと『生』を実感出来るのではないかと思います。
名前の由来などを調べていると思わぬところから、当時の状況などが紐解かれ、興味深い話にたどり着くこともあります。これもまた面白いです。
因みに私は笠捨山の山頂に未だ登った事がありません。余計に楽しみです。
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