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縄文海進と古神道、神社、天皇制(35)、「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」

縄文海進と古神道、神社、天皇制(35)、「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」

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縄文海進と古神道、神社、天皇制(35)、「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」


さて、理系にありがちな(私も理系ですが)真面目な邪馬台国に至る計算をしている #播田安弘 氏の記事を引用してみましょう。

★『魏志倭人伝』から見えた邪馬台国への最も合理的なルート

★「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」

その前に、「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」のお話。

「白髪三千丈」、「中国四千年の歴史」、中国人は修辞的に数値を表現します。

李白の五言絶句『秋浦歌』の中の「白髪三千丈」

 白髪三千丈
 縁愁似箇長
 不知明鏡裏
 何処得秋霜

 白髪三千丈
 愁に縁って箇の似く長し
 知らず明鏡の裏
 何れの処にか秋霜を得たる

一丈が約3メートルですから三千丈は9,000メートル。大げさの典型のように言われています。

これはあくまで文学的な誇張です。この場合の「三千丈」は「孔門弟子三千」「食客三千」「宮女三千」などの言い方があるように、数量の多いことを表す慣用句であるにすぎません

白髪三千丈」を受ける次の「縁愁似箇長、愁に縁って箇の似く長し」の「長」は、白髪の長さの表現だけを意味していない愁いもまた長し、という意味があります。いつの間にか長く伸びてしまった白髪は、深い愁いの象徴でもある。「白髪三千丈」ほどもある「愁に縁って箇の似く長し」という実感が込められています。

日本語でも私たちは疑問に思わず「汗が滝のように流れる」、「目を皿のようにする」、「もう何万回も言っているでしょう?」、「針一本が落ちた音もはっきり聞こえた」という比喩表現を平気でしているそれと同じなんです。

★ じゃあなぜ「三千」という数字になったのか?

というと「平仄(ひょうそく)」という漢詩で重視される発音上のルールがあるからです。だから、漢詩を発音せずに読んだらいつまで経ってもわからない。漢詩は朗読して楽しむものだからです。

「平」は平声「仄」は上声・去声・入声なのだそうで、中国語の漢詩を発音できない私はわかりません。が、「白髪三千丈」の「平仄」は、最初の二字「白髪」が「仄仄」なので、

★ 漢詩の規則によれば続く二字は「平平」でなくてはいけないそうです。

」から「」までの漢数字と「十・百・千・万・億・兆」という位(くらい)の数の内、

★「平」声の字は「三」と「千」だけ。

選択の余地はありません。

だから「白髪」のあとは「三千」しかありえなくなります。

この漢詩の「平仄(ひょうそく)」に合わせるではありませんが、

★ 中国の文献の数値表現、距離などの記述は、伊能忠敬のように測量してちゃんと辻褄が合うようにしているわけでは決してない、ということです。

『魏志倭人伝』から見えた邪馬台国への最も合理的なルート
「船の科学」で読み解けばこれしかない!
『魏志倭人伝』を読む (1)帯方郡から奴国まで

ですので、この記事の著者、播田安弘氏は理系で造船業界に従事されている(映画『アルキメデスの大戦』では製図監修を担当)ので漢詩なんぞは知らないでしょう。魏志倭人伝の数値表現を真面目に受け取っています

この記事の魏志倭人伝の引用はわかりにくいので、私の記事から説明しましょう。

縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ
★ 魏志倭人伝

播田安弘氏、『魏志倭人伝』から見えた邪馬台国への最も合理的なルートより

倭人は、帯方郡(朝鮮半島)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三(さん)十国である。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、韓の国々を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。これまでが七千(せん)余里である。

播田安弘氏:朝鮮半島の帯方郡から倭(日本)に行くには、海岸に従って水上を「水行」し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりしながら、倭の北岸の狗邪韓国に着く。この行程は7000里以上ある、としています。「狗邪韓国」は現在の釜山あたりとされています。ここからいよいよ海を渡ります。千余里を航海して、「対海(つかい)国」に至ったとあります。対海国は「対馬」の誤記である可能性も指摘されていて、対馬国(現在の長崎県対馬市)とみて間違いないでしょう。

でましたよ、でました!「千」ですよ、「千」!「白髪三千丈」の「千」です。大雑把です。なんでも「数」「千」です。よほど「十」「百」「千」「万」「億」「兆」という位(くらい)の数の中で平仄上「平」声の字の「千」の座りが文章上心地いいのでしょう。

そこから、はじめて一海を渡ること千(せん)余里で、対馬国(対馬、長崎県上県郡・下県郡)に到着する。その国の大官を卑狗、次官を卑奴母離という。居るところは絶島で、広さ四百余里平方ばかり、その土地は、山は険しく、深林が多く、道路は獣のふみわけ道のようである。千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。

播田安弘氏:ここからいよいよ海を渡ります。千余里を航海して、「対海(つかい)国」に至ったとあります。対海国は「対馬」の誤記である可能性も指摘されていて、対馬国(現在の長崎県対馬市)とみて間違いないでしょう。

それからまた南に一海を渡ること千(せん)余里で一支国(壱岐、長崎県壱岐郡)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。この国の大官もまた卑狗、次官は卑奴母離という。広さ三(さん)百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千(さんぜん)ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。

播田安弘氏:その後、また南へ千里余り、「瀚海(かんかい)」という海を航海したとあります。この海は対馬と壱岐の間の海を指すとされ、「一大国」は壱岐であろうと推定されています。当時、ほかの中国の史書などでは壱岐は「一支国」と記されていることが多く、「一大国」は誤記ではないかと考えられています。

また一海を渡ること千(せん)余里で、末盧国(松浦、佐賀県東松浦郡・唐津市)に到着する。四千(せん)余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。草木が繁り、道を行くのに前の人は見えない位である。人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。

播田安弘氏:さらに千里余り海を渡ると「末盧国」に至ったとあります。末盧は「まつろ」とも「まつら」とも読み、そこから考えても、現在の伊万里湾(長崎県松浦市や佐賀県唐津市など)の一帯に残る「松浦」という地名のあたりであろうとみられています。この末盧国から、使節団はいよいよ日本の本土に上陸します。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(糸島、福岡県糸島市)に到着する。長官を爾支、次官を泄謨觚・柄渠觚という。千(せん)余戸がある。代々王がいたが、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。

播田安弘氏:末盧国からは船を下りて、「陸行」となります。東南に500里行くと、「伊都(いと)国」に着きます。読みからしても、現在の福岡県糸島市などであろうと考えられています。

これから先は、東南、奴国(博多津、福岡市)にいたるのに里。長官を馬觚、次官を卑奴母離という、二万余戸がある。おなじく東、不弥国(宇美、福岡県粕屋郡宇美)に至るのに里。長官を多模、次官を卑奴母離という。千(せん)余家がある。

播田安弘氏:伊都国から東南に100里行き、「奴(な)国」に着いたとあります。後漢の光武帝に使節を送って「漢委奴國王」の金印を与えられたとされているのが、この奴国の王であろうと考えられています。この金印が江戸時代に志賀島(福岡県福岡市)で農民に発見されたことは有名な話です。奴国から東に100里行き、「不彌(ふみ)国」に着いたとあります。この不彌国から次の国までの行程の解釈が、近畿説と九州説では大きく異なってくるのです。

さすがに、九州上陸、千(せん)なんて単位を使っていたら九州を突き抜けちゃいます。そこは中国人、多少の理性が働いて、実状に近い数値の「百里」とかに落ち着いています。しかし、戸数はいまだに「千(せん)余家」という大雑把さ。

また南、投馬国(筑後上妻・下妻、福岡県八女市)に至るのに水行二十日。長官を弥弥、次官を弥弥那利という。五万余戸ばかりがある。

また南、邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳という。七万余戸ばかりがある

そしてその南にあるのが狗奴国(球磨、熊本県球磨郡、囎唹、鹿児島県會於郡)で、男子を王とし、長官に狗古智卑狗がある。この国は女王国に服従していない。

邪馬台国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(恒帝 [147 - 167]と霊帝 [168 - 189]の時代)、諸国は共に一女子を立てて王とした。

播田安弘氏:投馬国から南へ水行10日、さらに陸行1ヵ月で、ついに邪馬台国に至ったと『魏志倭人伝』は記しています。なお、「邪馬壹國」の「壹」は「壱」の旧字体ですが、中国で写本されているうちに誤記が生じたものという解釈が多いようです。

ともかく、不彌国の位置を、現在の福岡県飯塚市あるいは北九州市あたりとします。そこから南へ水行20日で「投馬国」に着いたとすると、当時の櫂を漕いで進む船は時速3〜4kmくらいと考えられますから、日中に6~8時間を航海したとすると1日に進むのは20〜30kmくらいです。すると投馬国は現在の宮崎県あたりとなります。

そこから邪馬台国へは、また南へ「水行十日」とありますが、その通りに行けば九州を飛び出します。しかも、さらに「陸行一月」とあります。これを素直に読めば、使節は洋上を1ヵ月も歩いたことになってしまいます。
つまり、『魏志倭人伝』に記述されている通りの方角を進むと、邪馬台国の存在が論理的に破綻してしまうのです。

そもそも方角についていえば、奴国までのルートにも問題はあります。図1‒25を見れば、末蘆国から伊都国に向かう方角が「東南」となっているのも、「東」とすべきではないかと思われます。

豊臣秀吉の「中国大返し」の計算じゃあるまいし、真面目に時速何キロで行軍すると姫路到着がいつ、京都到着がいつ、だから秀吉は最終決戦の山崎に間に合った、なんて想像力がなさすぎる。

だから、理系は困る。むろん、文系の歴史学者も似たような計算をしてます。

時は弥生後期、古墳時代。沿線の人々は粗末な衣服を着て、裕福でない暮らしをしています。

そこに、中国の使節団。

★ 大魏国の使節団は綺羅びやかな漢服を着て、雅楽を奏しながらダラダラと行進していった。

卑弥呼率いる倭国三十余国は、江戸時代の参勤交代同様、行く先々の村で饗応していたはずです。

「桶狭間の戦い」に向かう今川義元が、村々で酒・食い物を饗応されて、数キロ行っては宴会、数キロ行っては休憩、あげくに、桶狭間で午後からここで宿泊!とかダラダラ、ダラダラ、行進したのと同じこと。

大魏国の使節団も未開の倭国の饗応に辟易しながら、しかし、礼儀の国ですので、丁寧に応対、雅楽を奏してサービスしながら、こっちの村、あっちの村でご休憩です。

★ 水行二十日、邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月

かかるのも当たり前です。

つまり、この行程、経路の計算は、

★ 豊臣秀吉の「中国大返し」の計算

でしてはいけない!

★「桶狭間の戦い」に向かう今川義元軍のダラダラと行進

これで考えないといけません。

播田安弘氏:方角は信頼できないとすれば、距離や日数を重視するしかありませんこれらは方角ほどには誤差は生じないように思われます。では、そのように『魏志倭人伝』を読みなおした場合、不彌国から邪馬台国までの行程はどのように考えられるでしょうか。

方角は信頼できないとすれば、距離や日数を重視するしかありません。これらは方角ほどには誤差は生じないように思われます」って、頓珍漢な想像をし始めました。

★「桶狭間の戦い」に向かう今川義元軍のダラダラと行進

なんだってば。

豊臣秀吉やローマ軍団みたいに規則正しく、巡航速度で行進したとでも思っているんでしょうかね?

播田安弘氏:不彌国は現在の北九州市あたりと考えます。ここから投馬国まで水行20日という日数が正しいとすると、南へ20日行けば、前述のように宮崎あたりに投馬国があることになり、さらに南へ行くと海に飛び出してしまいます。

不彌国から南ではなく、西方向に水行20日の場所にある投馬国に着き、さらに水行10日、陸行1ヵ月で邪馬台国に着いたのではないか、という指摘もあります。

だとすると邪馬台国は熊本あたりにあったことになります。大胆で面白い考えですが、この西コースに水行20日+水行10日+陸行1ヵ月というのも、日数がかかりすぎと思われます。長崎の西彼杵(にしそのぎ)半島は入り組んでいるので意外と時間はかかるものの、やはり現実的とは思われません。

これ以降、推理が破綻していますので論評は控えますが、

★ いい加減な「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」的中国の数値表現と雅楽を奏してダラダラ行進して饗応される大魏国の使節団

これを考慮して、邪馬台国の位置を推理しないといけないようですね?

やれやれ。


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参照:フランク・ロイドのマガジン

私のトップページを見ても、続き物が多いので、何がなにやらわかりません。できれば、下記のマガジン一覧から追っていただければ幸いです。


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マガジン「フランク・ロイドのエッセイ集」

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