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縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ

参照:マガジン「縄文海進と古神道、神社、天皇制

後漢の光武帝よりの「漢委奴国王」金印(西暦57年)、魏の皇帝よりの「親魏倭王」の金印(西暦239年)

勘違いする人も多いが、金印はふたつある。一つは後漢の光武帝から賜ったもの。もう一つは、魏の皇帝より賜ったもの。AD57年、AD239年と200年近い時差がある。

西暦57年に奴国王が後漢の光武帝から受けた「漢委奴国王」金印は志賀島から出土した。

奴国王の後継者である卑弥呼は、西暦239年に魏の皇帝より「親魏倭王」の金印を受けたので、「漢委奴国王」金印を綿津見神のもとに返納することとし、聖地である志賀島に埋納した

つまり、志賀島から出土した「漢委奴国王」金印は卑弥呼が返納したものである。

それから、古事記の編纂者の稗田阿礼は、女性との見方もある。そして、彼女としたら、稗田阿礼は卑弥呼と同じ巫女である。

稗田氏は、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の子孫・猿女君の末裔である。

猿女君は、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の夫の猿田彦からとった「猿女」を名乗る天神・天鈿女命(アメノウズメノミコト)を始祖としており、君を姓に持つ氏族とされる

天鈿女命の陰謀の詳細は、次回Ⅱで。

縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀

縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ

邪馬台国、大和王朝年代史

★ 魏志倭人伝(卑弥呼以前)

◯ 大規模鬼界カルデラ噴火-7,300年前、九州の縄文人壊滅
◯ 縄文海進-6,900年前、現在よりも6メートル以上の海面上昇
紀元前四世紀頃(縄文時代後期)吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成
倭国大乱、後漢の桓帝/霊帝の治世(147 - 189)
◯ 諸国は共に一女子を立てて王とした。(卑弥呼以前の女王)
◯ 三世紀頃吉野ヶ里丘陵、集落は最盛期を迎える。

★ 魏志倭人伝(卑弥呼時代)

◯ 景初三年六月(魏の明帝の年号、西暦239年)倭の女王(卑弥呼は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に朝献したいと請求した
◯ 景初三年十二月西暦239年)魏の明帝は詔して倭の女王(卑弥呼)に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。汝(卑弥呼)を親魏倭王(外臣の爵号としては最高に属する)に任じ、金印・紫綬を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした」
◯ 景初六年西暦242年)、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた

★ 魏志倭人伝(卑弥呼の死)

卑弥呼の日食(1)、247 年 3 月 24 日
※ 部分日食は日没前に始り欠け具合は西にいくほど大きい。
※ 近畿では日没時に半分欠けたが北九州では八割くらい欠けた。
※ 日没前に日食は終了せず、太陽が死んだと錯覚される。

卑弥呼の日食(2)、248 年 9 月 5 日
※ 日の出前にすでに日食は始まる。
※ 太陽が昇って来た時にはすでに真っ黒く欠けていた。
※ 午前七時までで日食は終わった。
※ 247 年 3 月 24 日と異なり太陽は死んでまた復活した錯覚された。

◯ 卑弥呼の謀殺
  祟り神として、卑弥呼がアマテラスⅠに祀られる

★ 邪馬台国王位の簒奪

◯ 倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。
狗奴(くな)国(薩摩)、国王卑弥弓呼(ひみここ)による邪馬台国簒奪

★ 臺與がアマテラスⅡに祀られる

◯ 祟り神のアマテラスⅠ(卑弥呼)の「天」家(臺與の系統)への憑依による報復
◯ 祀り神のアマテラスⅡ(臺與)と祟り神のアマテラスⅠ(卑弥呼)の闘い
  祀り神のアマテラスⅡ(臺與)の勝利とその封印

★ 天家(天皇家)の確立

巫女王の廃絶と男系の世俗的権威の王、「天」家の嫡男の「天皇」家世襲の確立
邪馬台国連合王国の西進、畿内への進攻、山陰山陽畿内への王権の確立
◯ 邪馬台国連合王国から、大和国(日本国)天皇絶対王権への移行
  女系アニミズム社会から男系社会への移行
(一妻多夫制から一夫多妻制へ)

★ 継体天皇家、臺與系神武天皇家の断絶

傍系天皇(継体天皇)家の家系移譲(臺與系神武天皇家の断絶)
臺與系神武天皇家、傍系天皇家(現天皇家)による家系隠蔽
  卑弥呼系、臺與系、傍系天皇家の歴史書上の隠蔽
◯ 崇神天皇五年(五世紀頃)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた
(アマテラスⅠの祟り)

垂仁天皇第四皇女の倭姫命、垂仁天皇二十五年(実際は六世紀頃)
  天照大神Ⅰ(祟り神のアマテラスⅠ)として八咫鏡Ⅰと共に伊勢神宮に
  祀った(伊勢神宮に封印した)

六世紀頃、天照大神Ⅱ(祀り神のアマテラスⅡ)として八咫鏡Ⅱと共に
  宇佐神宮に祀った(宇佐神宮に封印した)

古事記(和銅五年、712年)、日本書紀(養老四年、720年)の完成
◯ 古事記、日本書紀では卑弥呼は触れられていない。それは祟り神(アマテラスⅠ=卑弥呼)だったからだ。祟り神にあえて触れるのは、祟り神を揺り起こすことになる。その祟り神を封殺した祀り神(アマテラスⅡ=臺與)も祟り神を想起させる存在として、封印される。
◯ アマテラスⅠは八咫鏡Ⅰと共に伊勢神宮へ、アマテラスⅡは八咫鏡Ⅱと共に宇佐神宮へ。


★ 魏志倭人伝

倭人は、帯方郡(朝鮮半島)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、韓の国々を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。これまでが七千余里である。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(対馬、長崎県上県郡・下県郡)に到着する。その国の大官を卑狗、次官を卑奴母離という。居るところは絶島で、広さ四百余里平方ばかり、その土地は、山は険しく、深林が多く、道路は獣のふみわけ道のようである。千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。

それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(壱岐、長崎県壱岐郡)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。この国の大官もまた卑狗、次官は卑奴母離という。広さ三百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(松浦、佐賀県東松浦郡・唐津市)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。草木が繁り、道を行くのに前の人は見えない位である。人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(糸島、福岡県糸島市)に到着する。長官を爾支、次官を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸がある。代々王がいたが、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。

これから先は、東南、奴国(博多津、福岡市)にいたるのに百里。長官を馬觚、次官を卑奴母離という、二万余戸がある。おなじく東、不弥国(宇美、福岡県粕屋郡宇美)に至るのに百里。長官を多模、次官を卑奴母離という。千余家がある。

また南、投馬国(筑後上妻・下妻、福岡県八女市)に至るのに水行二十日。長官を弥弥、次官を弥弥那利という。五万余戸ばかりがある。

また南、邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳という。七万余戸ばかりがある

そしてその南にあるのが狗奴国(球磨、熊本県球磨郡、囎唹、鹿児島県會於郡)で、男子を王とし、長官に狗古智卑狗がある。この国は女王国に服従していない。

邪馬台国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(恒帝 [147 - 167]と霊帝 [168 - 189]の時代)、諸国は共に一女子を立てて王とした。

これを卑弥呼という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく、婢千人をその身辺に侍らせ、ただ一人の男子が飲食を給し、女王の言葉を伝えるのに居処に出入りした。宮殿・物見櫓・城柵などは厳重に設けられ、つねに兵器をもった人々がこれを守衛していた。

景初二年六月(魏の明帝の年号。景初三年 [239] の誤り)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に朝献したいと請求した。

帯方太守夏は、役人を遣わし、これを引率して洛陽に至らしめた。

その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。

「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝の献じた男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉り、わがもとに至った。汝の国ははるか遠いのに、使を遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現われで、感心なことである」

「今、汝を親魏倭王(外臣の爵号としては最高に属する)に任じ、金印・紫綬を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした」

「汝は倭人を綏撫しわれに孝順をなせ。汝の使者難升米と牛利は、遠くからはるばる労して来朝したので、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉に任じ、共に銀印・青綬を授けることとし、引見し賜物してこれを送り返す」

景初四年 [239] 、倭王はふたたび大夫伊声耆・掖邪狗ら八人をつかわし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木𤝔 ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。

景初六年 [242]、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた。

景初八年 [243] 、帯方郡の太守王があらたに任官された。倭の女王卑弥呼はもともと狗邪国の男王卑弓弥呼と不和で、倭の載欺烏越らを帯方郡につかわし、互いに戦っている状況を報告した。そこで太守は塞曹掾史張政をつかわし、先の詔書と黄色の軍旗をもって行かせ、難升米に授けて檄文をつくって卑弥呼に教えさとした。

その後、卑弥呼が死んだ。(248年9月5日)多いに冢を作りその径は百余歩、殉葬された奴婢は百余人であった。


★「卑弥呼の日食」247年3月24日、248年9月5日


★ 後漢の光武帝よりの「漢委奴国王」金印(西暦57年)、魏の皇帝よりの「親魏倭王」の金印(西暦239年)

卑弥呼はかなり高齢で夫が無く、男弟が国を治める補佐をしていた。王となってからは見かけた者はほとんどいない。侍女が千人ほどいる。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を取り次ぐために出入りしていた。宮室や楼観には城柵が厳重に設けられ、常に兵士が武器を持って警護していた。

西暦107年に後漢に朝貢した奴国王は、「倭王帥升」として認められた。それ以来、奴国王は倭国(北部九州の30ヵ国ほど)の王を兼ねるようになった。その70~80年後の倭王兼奴国王は、伊弉諾(西暦125年頃出生、185年頃没)であった。

後漢の西暦184年に太平道の教祖・張角による黄巾の乱(184年~192年)が勃発、後漢の崩壊は決定的になった。倭国は戦乱の大陸と交易ができなくなってしまって、後漢の後ろ盾がなくなり、伊弉諾の権威は失墜、倭国戦乱となる。伊弉諾は淡路島に隠遁して亡くなる。

倭国が共立した奴国王族の卑弥呼が201年頃に倭王兼奴国王となり、戦乱は治まった。

卑弥呼は奴国(博多湾周辺の呉人の国)の生まれで、奴国の王族であった。

臺與は豊国(投馬国=福岡県東部、大分県、山口県西部)出身で、倭国の重要豪族であった

福岡市東区志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ、しかかい)神社の祭神は綿津見三神で、古代より阿曇氏(安曇氏)が祀っており、現代でも阿曇氏の子孫が祭祀を執り行っている

西暦57年に奴国王が後漢の光武帝から受けた「漢委奴国王」金印が志賀島から出土した

奴国王の後継者である卑弥呼は、西暦239年に魏の皇帝より「親魏倭王」の金印を受けたので、「漢委奴国王」金印を綿津見神のもとに返納することとし、聖地である志賀島に埋納した

縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ


● 稗田阿礼

稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『日本書紀』にも、この時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ

通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。平田篤胤は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏は天鈿女命を始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で、「アレ」は巫女の呼称である、ということがある。例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命がいる。

● 稗田氏

天鈿女命の子孫・猿女君の末裔。猿女君の本拠地は伊勢国と想定されるが、一族の一部が朝廷の祭祀を勤めるため、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称したという。各種史書に姓に関する記載が無いことから無姓と考えられる。氏人に『古事記』の編纂に語り部として参加した稗田阿礼がいる

● 猿女君

天神・天宇受売命を始祖としており、君を姓に持つ氏族とされる。

日本神話において天宇受売命が岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族とされる。この名前は、天宇受売命が天孫降臨の際に猿田毘古神と応対したことにより、猿田毘古神の名を残すために邇邇芸命より名づけられたものであると神話では説明している。実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。

本拠地は伊勢国と想定されるが、一部は朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田氏を称した。

● アメノウズメ

『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する(「命(みこと)」は敬称、以下同様)。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説などがある。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。『古語拾遺』では、鎮魂(たましづめ)は天鈿女命から出たものとされる。

天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神(=猿田毘古)が行く手を阻んだ。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。 「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」 つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。

アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる。

アメノウズメは猿田毘古神を送って日向国(または志摩国)に帰った後、大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けている。アメノウズメの功績により、代々の天皇は志摩国から新鮮な海産物が献上される時は、猿女君に与える。

● 台与

臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)、あるいは壹與(壱与、いよ)は、日本の弥生時代3世紀に、『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である。卑弥呼の後継の男王(名は不明)の次に、13歳で女王になり倭をまとめたとされる。魏志倭人伝中では壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。

魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてある。「台与」は「臺與」であり、『ヤマト』(邪馬『臺』)を『』したのが『壹與、臺興、台与』であるのかもしれない。

● 海部氏系図

海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

● 安曇氏、阿曇氏

弥生時代のころ、北九州の福岡市周辺にアズミという氏族がいた。アズミは安曇、阿曇などと書く。安曇は、海の民である。当時北九州には、大陸から渡って来た人たちが大勢いたという。主に海上を活動の拠点とする人たちで、その中心が安曇氏だが、他にも宗像氏、海部氏、住吉氏などの氏族が知られている。

スサノオ
三貴神のうち天照大御神は天(高天原)であるが、月読命は天、滄海原(あおのうなばら)または夜の食国(よるのおすくに)を、須佐之男命には夜の食国または海原または天下を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。

『記紀』に登場し、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記されている。その他、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

● 和気氏

備前国和気郡(古くは藤野郡と称した)を本拠とした豪族である。垂仁天皇の皇子・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を祖とすると伝えられる。「別氏」とも書く。姓(かばね)は公(きみ)から真人(まひと)、宿禰などを経て774年(宝亀5年)に朝臣の姓が与えられた。

● サルタヒコ

『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた

邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た

邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売命に、その名を明らかにしたのだから、猿田毘古神を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売命は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田毘古神は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った

猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。

● 和珥氏、和邇・丸邇・丸とも書く。

和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った。その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡で、後漢中平年間(184年 - 189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されている。年代や規模の観点から、最初期の東大寺山古墳が彦国葺命の、赤土山古墳が大口納命の墓と推定されるが、和邇下神社古墳は規模から見て武振熊命の墓とは考え難いと指摘されている。


過去記事

【創作】note:Data 2021/01/31/1、天鈿女命1

【創作】note:Data 2021/01/31/2、天鈿女命2

【創作】note:Data 2021/02/01/1、天鈿女命3

【創作】note:Data 2021/02/02/1、天照大神と建速須佐之男命(表)(裏)

【創作】note:Data 2021/02/04/1、大国主神の国譲りなどなかった

【創作】note:Data 2021/02/09/1、琉球神道

縄文・弥生時代年表

縄文弥生年表

縄文・弥生時代人口推移

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縄文・弥生時代の人口密度

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第三章数学と幽霊Ⅱ、第十六話 二人のアマテラス Ⅰ

第三章数学と幽霊Ⅱ、第十七話 二人のアマテラス Ⅱ

神話にみる「芸能の力」、アメノウズメノミコトと俳優(ワザヲギ)

縄文海進と古神道、神社、天皇制(13) ー 創建年代順に並べた神社

縄文海進と古神道、神社、天皇制(12) 縄文時代早期~前期


リンク

参照:マガジン「縄文海進と古神道、神社、天皇制

参照:マガジン「ヒンズー教と仏教の原風景


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