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ボツネタ御曝台【エピタフ】混沌こそがアタイラの墓碑銘なんで#033



元歌 森山加代子「白い蝶のサンバ」


あなたに抱かれて わたしは 蝶になる

あなたの胸 あやしい くもの糸


ミルクとコーヒー 混ぜたら 何になる

コーヒー牛乳? カフェオレ? カフェラッテ?





気がつくと、目の前にはミルク色の天井が広がっていました

……

どうやら病院のようです

……

近くに先輩の気配を感じ、ハッと身を固くすると、アタイは叫びました

イサオ! イサオは?! イサオー!

起き上がろうとするアタイを先輩は無言で抑えつけました

何で生きてんの?! アタイ、何で生きてんの?!

アタイは、泣き叫びながら起き上がろうとしました

先輩はアタイから顔を背け、黙り込んだまま、アタイの体を抑え込み続けました

それは、柔道の抑え込みのように完璧で、アタイは全く動くことができませんでした

ついに諦めたアタイは、ベッドの上ですすり泣きました

先輩もアタイに覆いかぶさりながら泣いているようでした

……

力の抜けきったアタイは、涙を流しながら、ただ天井をジッと見つめていました

……

どういうわけか、その時アタイは、昔観たオリンピックの柔道を思い出していました

日本代表選手に抑え込まれ、全く動けない外国人選手

抑え込み一本のブザーが鳴り、負けが確定した外国人選手は、しばらくのあいだ立ち上がれずに横たわっていました

どうだ!? 日本柔道の凄さを思い知ったか!?

当時のアタイは、そんな風に思っていたのです

でも、今ではあの時の外国人選手の気持ちがわかるような気がします

もがいても、もがいても、自分では何もできない無力感

今まで必死に築き上げてきたものが、一瞬で崩れ去る絶望感

そして、体の隅々にまでみなぎっていた闘志は嘘のように消え去り、屈強な抜け殻だけがそこに残るのです

けれど、敗北と共に訪れる、ある種のすがすがしさ

優勝への重圧や様々な苦悩から解放された後にやって来るすがすがしさは、やはりアタイには無縁なのでした

アタイは勝者でも敗者でもない……そう、紛れもない加害者なのですから……

……

アタイが大きな波にのまれるところを釣り人が目撃し、通報してくれたのだと先輩が教えてくれました

けれど、イサオのことについては何もいいませんでした

……

それ以来、アタイは文字通り、抜け殻として生きることになったのです





退院したアタイが向かった先はアジトではなく、坂の途中にある小さなアパートでした

アジトに帰ったら、イサオのことを思い出してしまうからと先輩がアパートを借りてくれたのです

新居の家電などは、全てK君が準備してくれたそうです

「イイのか? 本当に」と先輩が訊いたら

K君は「あっ、はい、お二人が何不自由なく暮らせるようにサポートするのが僕の仕事ですから」と答えたそうです

……

玄関のドアを開けると、部屋の真ん中には電気こたつがおかれていました

「やっぱ、冬は〈こたつ〉だよなー」と先輩がいいました

アタイは起きたら、そのこたつに入り、夜になったら布団に入り、アパートからは一歩も出ず、ほとんど何も喋らず、布団、こたつ、布団、こたつ、のサイクルを繰り返すだけの日々をすごしました

それは、まるで動く死人のようでした

先輩にも「お前、死体みてーだな」といわれてしまいました

でも、その後に先輩は「死体みてーに生きてたってイイ、生きていてくれさえすれば、それでイイ」といってくれました

……




ある日、先輩がカフェオレを作ってくれました

先輩がアタイに何かを作ってくれたのは、これが初めてです

というか、アタイは先輩が料理をしているところも見たことが無いのです

ぬか床はかき混ぜるのに、料理をしたことが無いなんて、この人は一体なんなのでしょう?

そんな先輩が、アタイのためにカフェオレを作ってくれたのです

……

アタイは、恐る恐るマグカップに口をつけてみました

カフェオレは正直、美味しくありませんでした

……

……先輩これ、砂糖入れました?

「え? 砂糖入れんの?」

……

こうして先輩が作ってくれた不味いカフェオレを飲んでいると、昔、先輩と一緒にオムレツを食べに行った時のことを思い出します

知り合いのオムレツババアが作る絶品オムレツの店に、二人で行った時のことです

オムレツ定食を二人前注文したアタイラは、カウンターで先輩の健康診断の話を始めました

バイト先の健康診断で、先輩のコレステロール値が異常に高かったという話です

その話をこっそり聞いていたオムレツババアは、何と先輩のオムレツの卵の量を半分に減らし、代わりに牛乳を入れてしまったのです

そんなオムレツが美味いはずありません

不味そうにオムレツを食べる先輩の顔を覗き込みながら、オムレツババアは

「どうだい? 不味いだろ? でもアンタはそれでイイの!」といい

その後に「今日はアタシのおごりだよ!」とつけ加えました

「当たり前だ! こんな不味いもんで金取れるわけねーだろ!」と先輩は憎まれ口をたたきましたが、その横顔は何だかとても嬉しそうでした

その時、アタイは思ったのです

料理は美味いか不味いかではなく、ましてや、見た目がどうだとか、栄養のバランスがどうだとかでもないと

料理の本質は、作る人と食べる人の関係性なのだと……

美味いものを食べて、「美味い美味い」というだけだったら、ネコのイサオにだって出来ました

イサオは、モンプチの一番高いやつを出された時だけ

「ウーマイマイ、ウーマイマイ」と唸りながら食べたものです

……

アタイは温かいマグカップを両手で包み込みます

そして、先輩が作ってくれた不味いカフェオレをゆっくりと味わいながら飲み干します

嬉し泣きをしたい気分だけれど、アタイはもう涙さえ流すことができなくなっていました

……





先輩が毎朝暗いうちに起き出し、どこかに出かけるようになりました

ある日、帰ってきた先輩がアタイにこういいました

「なあ、知ってるか? 朝焼けの色ってのは毎日違うんだ」

そして、「今日と同じ朝焼けは、二度と見ることができねえんだ」とまでいいだしたのです

アタイは耳を疑いました

超夜型人間で、朝日が登り始めた頃にやっと眠りにつくのが日常だった先輩が、朝焼けを見るために、早朝の土手を散歩するなんて……

人のことを「死体みてーだ」といってはいますが、本当に死んでいるのは先輩の方なのではないか?

そんな疑念がふつふつと湧いてくるのでした

アタイラ、ヤンキーから見たら、仕事でもないのに毎朝早起きするような奴は、死体以上に薄気味悪い存在なのですから……

……

しかし、本当の衝撃はこの後に訪れました

先輩が俳句を始めるといい出したのです

そして、実際には始めてしまったのです。

これには、さすがにビックリしました

まるで、死体から仮死状態に一瞬戻ってしまうくらいの驚きでした

……

こたつの向かいには、広告の裏に筆ペンで何かを書いている先輩がいます

……

……先輩

「ん?」

俳句教室とか行かないんすか?

「何で?」

だって先輩、季語とか知らないっしょ?

「キゴ?」

いや、何でもないっす……

……

「まあ、あれだな、ルールとか全然知らねえんだけど、だからといって、俳句教室に入って叱られるのもヤダしな」

「この年になって、校長先生みてえなジジイに怒られたくねえだろ?」

いや別に怒ったりはしないと思いますけど……

でも、いちおう季語は知っておいたほうがイイんじゃないっすか? 日本に住んでるわけだし……

「日本になんか住んでねーよ、アタイは宇宙に住んでんだよ!」

……

ちょっと何いってるかわかんないですけど……

……

確かに先輩の処女作

「さかなクンが廊下の奥に立つてゐた」は、さかなクンの闇を暴いた素晴らしい無季俳句だったけれど……

もしかしたら、あれは精神のブラックホールを表現した作品だったのかもしれません

……

先輩?

「あ?」

お前も俳句やれ! っていわないんですね

「やりてえのか?」

いや、別に……

昔の先輩って、自分がバニラ好きだって理由だけで、お前もバニラ味にしろ! って強要してたじゃないっすか

「まあな」

だから誘わないのかな? と思って……

「だって、死体が俳句を詠んだら薄気味悪いだろ」

……

そうっすよね、アタイが詠んだら、本当の俳人(廃人)になっちゃいますもんね

「ん? ハイジ?」

いや、何でもないっす……

……

「とにかく、今のお前はな、死にたいだけ死んでりゃイイんだよ」

……

時がたてば、アタイはきっと回復する

先輩はそう思っていたのです

けれど、時に精神的な死というものは、自分の意思とは関係なく、まるで不随意運動のように向こう側から勝手にやって来るものなのです






春の苦しみが終わり、半地下の夏を通り過ぎると、辿り着いた公園のベンチの横には秋が座っていました

秋は、春のように前向きすぎることもなく、夏みたいな押しつけがましさもなく、ただ黙って隣に座っていてくれます

たまに目が合って、軽く微笑みあったり、ひとことふたこと言葉を交わしたりすることはあっても、その後に訪れる長い沈黙を無意味な会話で埋めるようなことは決してしないのでした

そんな秋の態度がとても心地良く、アタイは週に二回くらいなら散歩することができるようになったのです

別に回復したわけではありません

アパートの部屋にいる時よりも、秋に寄り添っている時のほうが心地良かっただけなのです

冬になれば、また部屋にこもり、よりいっそう死に近づいていくことになるでしょう

……

アタイは公園のベンチに座り、ただ、秋を眺めました

時々、先輩の目を通して世界を眺めてみようとしましたが、アタイには公園のベンチから眺めた秋の景色にしか見えないのでした

やはり、秋の公園の片隅が宇宙の中心に見えてしまうくらいの生命力を、アタイはもう持ち合わせていないようなのです





その日はとても気分が良く、それだけに、ちょっと不安になってしまうような心持ちでした

たまにやってくる調子のいい日に限って、何か取り返しのつかないことをやってしまいそうな嫌な予感がするからです

それでもアタイは、いつものように公園に行く気がしなくて、行ったことのない坂道の上へと上り始めました

……

家並みがまばらになってきたころ、右側にもみじの林が現れました

アタイは足を止め、ポケットに両手を突っ込みながら、美ししいもみじを眺めました

下の方に目を向けると、色とりどりの美しい落ち葉が地面を覆っていました

そしてそこに、林の奥へと向かう一本のゆるやかな坂道があるのを発見しました

坂道は舗装されておらず、人ひとりがやっと通れるくらいの幅しかありません

……

アタイは、その細い坂道に入ろうとしましたが、すぐに足を止めました

坂道のわきにある落ち葉の塊が、歪むように動いたからです

……

……何だ、お前か

……

それは一匹の三毛猫でした

アタイが外に出かけるようになってから、近所で度々見かける若い猫です

三毛猫なので多分メスなのでしょう

奴は初めて出会った時からアタイに興味津々なようで、気がつくとブロック塀の上からじっとこちらを見ていたりしました

しかも、こちらが見つめ返しても、目をそらすなんてことはせず「おっ? やんのか?」みたいな表情で睨み返してくるのです

正面から目を合わせること、それは猫の世界だと威嚇を意味します

そんな三毛猫の目つきを見ていると、まるで昔のアタイを見ているような気分になるのでした

……

その頃のアタイは、人から見つめられることを極端に嫌っていました

自分を恥じていたからです

親に愛されていない自分を恥じ、それがバレることを恐れ、そして、何よりも同情されることを恐れていたのです

アタイが誰かと見つめあう時は、喧嘩をする時だけでした

それは、猫同士の威嚇行為そのものでした

そうです、アタイは文字どおり野良猫だったのです

……

そんな頃にアタイは先輩と出会ったのです

先輩はアタイと同じ目をしていました

二人は見つめ合うこともなく、同じものを睨みつけ、同じものを眺め、そして、同じように何かを感じ取りながら生きてきたのです

どちらか一方が悲しくて落ち込んでいたりしても、慰めたりなんかはしませんでした

まるでカーチェイスのように、横からドーンと肩をぶつけるだけです

そして、ぶつけられた方は、気づかれてしまったとハッとするのです

それだけで十分でした

それだけで十分幸せだったのです

……

三毛猫は、のんきに毛づくろいを始めました

イサオのことを思い出してしまうので、最初の頃はネコを見るだけでも辛かったのですが、この三毛猫のふてぶてしい態度おかげで、そんな気分も徐々にやわらいでいったのでした






アタイは、もみじの敷き詰められた細い坂道を上り始めました

後ろから例の三毛猫がついてきます

アタイが振り向くと、三毛猫は歩みを止め、頭を低くしながら上目づかいにジッとこちらを睨みつけました

その表情がどことなくイサオにそっくりで、アタイは思わずハッとしました

そして、それと同時に、アタイは暮居カズヤスの言葉を思い出していました

「一匹のありふれた猫は、唯一無二で有限であるがゆえに、その他のあらゆる猫の中に、その面影を宿している」

そんな風に、暮居は猫の不思議さについて話してくれたのです

……

アタイは三毛猫に向かって、小さく「イサオ……」と囁いてみました

それでも三毛猫は、アタイをただジッと睨み続けるだけなのでした






地球の地肌を覆い隠すように広がる自然のパッチワークは、昨夜の雨のせいでしっとりと濡れているので、その深みを増した美しいコントラストが目に痛いくらいです

アタイは、もみじの敷き詰められた坂道を見下ろしながらゆっくりと歩きました

信じられないくらいに美しいけれども、よくよく考えてみれば、かれらも立派な死体です

若い葉が芽吹くために、かれらは自らその身を落としているのです

アタイに比べ、かれらの死の、なんと崇高で高貴なことでしょう

もみじが美ししいのは、その色彩のせいだけではないのです、きっと……

……

頭を上げると、前を三毛猫が歩いていました

もみじに見とれていたせいで、三毛猫に追い越されてしまったことに気がつかなかったのです

三毛猫は歩みを止めると、後ろを振り向き、鼻先を少しもたげながら勝ち誇ったような表情でこちらを見ました

アタイは思わず笑ってしまいそうになりました



   もみじ坂 見知りの猫に追い越され



頭上の梢をサラサラと鳴らしながら風が通り抜けていきます

アタイは、もみじ模様の猫に導かれ、ゆっくりと坂を上って行きました

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