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脱学校的人間(新編集版)〈63〉

 分業とは、大きく一つに集約された労働の活動力が、全体としてその始まりから終わりまで抜け目なく構築された、一つの大きな生産過程の、その個々の具体的な生産作業の各ラインにおいて、それぞれ一定の水準を有した生産機能として分配されることによって、あたかも一つの大きな身体においてそれぞれ別個に稼働する腕や足といった各部位のように、その生産過程が全体として統一されている中で、その個々の具体的な生産局面において個々に実行していく、現実的な生産活動の様態である。それをさらに要約するならば、この生産活動は協業のように「それぞれにできることを一つに持ち寄る」というようなものではなく、「一つのすべきことをそれぞれに分ける」ようなことなのだ、ということになる。
 とすれば生産手段としての分業は、たしかに協業とはちょうど反対な方法(※1)だということが、ここで明白に理解できるだろう。それを踏まえつつ、さらにここで明白に言いうることは、現にある産業社会において、用いられるべき主たる生産方法としてより強く求められているのは、明らかにこの分業の方なのだということなのである。
 生産手段としての分業の、協業に対する「ちょうど反対」ぶりというのは、その生産活動の「完成品」においても明瞭に認められる。協業は「それぞれがそれぞれの生産活動による完成品を持ち寄って、さらにその上位の完成品を生産する」というものであるのに対して、分業では「それぞれ個々の生産活動において、生産物の完成品はけっして生産しえない」のだ。とすると分業は、協業に対して明らかに生産能力が劣っているようにも思える。しかし、産業社会において生産機能として求められるのは、それでもやはり分業の方なのである。

 産業社会において、生産された生産物を「商品」として売るのは生産者ではなく、その生産物を生産する生産手段を独占的に所有し、かつ独占的に使用している者、すなわち産業資本である。だから生産物の「完成品」は、個々の労働力が関わる個々の生産過程で完成している必要は全くなく、とどのつまり資本がそれを商品として売る段階で完成しておればそれでよいのだ、ということになる。実際にその生産物の完成品を目にするのは、それを商品として売る者と買う者でありさえすればよいのであって、それを生産する者が実際に目にする必要は全くないのである。
 そんなわけで、生産物を「完成品として生産しえない」ような個々の労働の活動力は、明らかに生産物を生産する能力において、独自にその価値が見出されるようなものにはけっしてなりえないのだと言える。つまり生産者が生産する生産物は、個々の労働の活動力の価値を「表象」したりなどはけっしてしないのだ。生産物が表象するのはあくまでも、その生産物が商品である限りにおいてのその使用価値なのである。
 一方で個々の労働者の、そのそれぞれが携わる労働の社会的な活動力は、産業資本による生産活動の手段として表象される。そしてその生産機能としての、それぞれ個々に表象されているところの有用性にもとづいて、個々の生産過程へと別個導入されていくことになる。そのような労働の活動力は、それ自体として導入されている完成品であり、「それ自体として購入される商品」である。それらが生産手段もしくは生産機能として集約された生産活動の集約体、すなわち産業資本の現実的な生産装置(具体的には実際の生産現場である工場など)において、それを具体的に構成している個々の生産活動の構成員(要するに生産現場で実際に働く労働者)は、そのように完成品あるいは「商品」であるからこそ、互いに「全て同一で交換可能なもの」(※2)として、実際の生産過程に導入されているわけである。それは、その一定の生産機能を「使用価値として見出されている限り」において、種々の生産装置の生産手段として融通無碍に使用されているのであり、なおかつその使用価値の「消耗度」に応じて、「同一の生産機能である、他の労働の活動力」と交換されることにもなる、ということである。平たく言えば、その生産力が減衰劣化するようにもなれば、容赦なく「生産装置のパーツとして、別の製品と交換されることになる」わけであり、実際にそうすることが可能であり、また現実にそうされているのだ、ということである。

 労働の活動力を具現化している個々の労働者の、その「社会的人間性」の扱われようについて、アレントはこうも言っている。
「…労働にとって最良の『社会条件』というのは、ひるがえって人間がアイデンティティを失うような条件であるということだけである。…」(※3)
「…『労働の集団的性格』は、労働集団の各メンバーに、認識でき確証できるリアリティを与えるものではない。それどころか反対に、個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去るよう要求する。…」(※4)
 生産手段として使用されている限りにおいて、個々の人間の「社会的な生活者」としての個別性、つまり彼らが個々に生活している、個別の生活共同体においての個性やアイデンティティは、生産手段としての機能としては、その機能を果たすこと自体に全く無関係なものとされる。つまり労働者は、労働力でさえありさえすれば誰でもよいものとして、その生産手段の中に集約されるということである。
 しかし、一定の労働の活動力を一つに集約した、社会構成体として機能する人間集団の内部、ありていに言えば「職場の内部」においては、「その内部においてのみ通用する個性やアイデンティティ」が、それぞれの個人には付与されることにもなる。それは要するに役職だの担当ポジションだのといったいわゆる「肩書き」の類いである。
 労働者は、そのような生産環境の内部でのみ通用する個性やアイデンティティ、すなわち役職や肩書きなどにもとづいて、その生産環境の内部において「それぞれ個別に、人格的に機能する」ものとなる。つまり労働者は、生産手段として機能することにおいては、その生産に対して個別に主体性を持たないのだが、一方でその具体的な生産環境、つまり彼らが実際に職務にあたるため、一日のほとんどの時間を過ごすことになる「職場」においては、その人間集団の中においてのみ通用する個性やアイデンティティにもとづいて個々の人格的な主体性を持ち、そのような主体性を有した人格を相手に、互いに社会的な関係性を構築していくことになるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」
※2 アレント「人間の条件」
※3 アレント「人間の条件」志水速雄訳
※4 アレント「人間の条件」志水速雄訳


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