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さて。どうしようか。
生まれる権利はある、この世界に落っこちてきておぎゃあと泣いた瞬間が初めての権利の行使だろう、でも生きることは義務になってないか、生まれた以上生きるのが義務ならばそれがどんなにしんどくても全うしなくてはならんのか、ならば死ぬ権利を行使することだってあったっていいだろう。なんて世界だ
言の葉を編んで船にして、流す。
言葉を扱う仕事を何年も何年も続けてきた。とは言っても別に作家や評論家というわけではなく、そういった人たちが紡ぎ編む言葉を世に出す仕事、「編集者」という虚業。
かの土田世紀が「編集王」の中で綴った台詞、
「集めて編むのが俺らの仕事だ」
にすっかり心酔し、実際に読んで読んで読んで書いて書いて書いて、それらの言葉を集めて編んできた。今となっては斜陽も斜陽な仕事、泥舟にしがみついて息することも
『業が深い』ってなんだよ。
「つくづく業が深いんだね」
と割と身近な人間に言われて、あらためて意味を調べてみたわけだ。
そうですか。
その通りかも知れないけれどもその業がなかったら今の自分は自分ではなくなっていたかもしれなくて、その業ってやつを背負うのと引き換えに、罪と悪に塗れる代わりに、人が見落とすことに気付く力と世の中に溢れる美しいものを際限なくインプットし続ける頭と心を授かった、いや、業の悪魔とトレードオフ
ロックバンドが必要な瞬間。
たとえば終わらない仕事を前にしてやるかやらぬかの何ラウンド目かの葛藤を頭の中でしている時とか、
暇な休日の午後に混んだ喫茶店で煙草をふかしながら唐突に何年も前のまあまあ楽しくない記憶が蘇ってきたときとか、
起き抜けに見上げた真夏の青空がじわりじわりと自分の身体を蝕んでいくような気がする瞬間とか、
さして飲みたくもない缶コーヒーを買うために、真夜中にいくつかの真っ暗な角を曲がり路地を歩いてい
血まみれになりながら、それでも笑って踊り続けるそんなダンスみたいなもの。
仕事の企画を語っていると、
「それもいいけどわたしならこうするね」
ってさ。
そうやって被せてくる、それがマウント取りなのかどうかはよくわからないけれど、「俺はこうしたい」って話をしているわけであって「それより優れたよりよい案を私は提示できる」って返しはいらないんだって。いらないんだってば。ここは会議の場でもプレゼンの場でもないんだからよ。
俺の、この俺の根拠もエビデンスも定量的理屈
ささやかで美しいな、土曜日ってよ。
なにがささやかでどう美しいのかとか野暮なことは聞くな。好きな服を買って映画館で映画を観たからだ。休みの日に行く場所がないと落ち着かない。落ち着かないが、だれかと会う気にもならない、それ以前に会う人がいない。結構なことだ。実に結構。
それだけだ。だから、何がささやかでどう美しいかなんて聞かないでくれ。
「今度の土曜日、映画行かないか」
LINEやら電話やらで誘える人はいない、いないこともな
閉じた箱の中で起こることのすべて。
なんとなく。
なんとなくだがなんとなくではなくて確かな事実のような気もしているのだけれど、コロナ禍からこっち、映画も漫画も音楽も、「六畳一間に共に暮らす男女」をテーマにした表現が増えているような気がしてならず、たとえばどれ? と聞かれれば結構な数の映像が、引かれた線が、メロディに乗る歌詞が、と答えられる気がする。
同棲。
世代によって『南瓜とマヨネーズ』だったり『ソラニン』だったり、ま
週末で終末が踏める。
今週は在宅勤務が四日間つまり1日しか出社していない。なんなんだろうな、仕事に熱中してるときほど辛いのに幸せで、仕事から逃げてるときほど幸せなのに苦しいのは。
パラドクスは延々と続いているわけで、自分の頭が首が目がどっちを向いてんだかわからない、わかろうともしたくないのかもしれないが、しれないが、なんだかもういいよ、という気はしてる、くっきりと「なんだかもういいよ」とボールドをかけてシャツの袖口
松居大悟監督が本気でグサる映画を作るということ。映画『ちょっと思い出しただけ』
スマホにインストールしてあるアプリに、1年前の今日、2年前の今日…の写真をワンタップで見ることができるってのがあって。なんだか日課のようにそれを開く。iPhoneの純正カメラロールにも、Google photoにも同じような機能はあるけれども、ただ、なんの装飾も衒いもなく淡々と8年くらい前の「今日」を突きつけてくるそのしょぼいアプリが何故か削除できない、できないまま何年も経っている。
大抵の