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言の葉を編んで船にして、流す。


 言葉を扱う仕事を何年も何年も続けてきた。とは言っても別に作家や評論家というわけではなく、そういった人たちが紡ぎ編む言葉を世に出す仕事、「編集者」という虚業。

 かの土田世紀が「編集王」の中で綴った台詞、

「集めて編むのが俺らの仕事だ」

 にすっかり心酔し、実際に読んで読んで読んで書いて書いて書いて、それらの言葉を集めて編んできた。今となっては斜陽も斜陽な仕事、泥舟にしがみついて息することもままならないまま、浮かび上がっては一瞬で消えていくWEBのテキスト、SNSの呟きを横目に、いつまで保つだろう、と全身びしょ濡れで、それでも泥舟の縁を離さないでいる。

 キャリアの中で5年ほどWEBの編集もやったし、テキストも書いた。
 ただ、「一度世に出したら二度と直せない」という紙の編集のヒリヒリするような恐怖、不安、それを通り越して覚える快感にはついぞとらわれることはなかった。

「間違えたら、直せばいい」

 が通用する世界には向いてなかったようで、同じく文字を綴る表現なのに、そこには歴然とした違いがあり、自分はその世界には馴染めず、途端にポンコツと化した。

 しょうがないからまた紙やれ、という会社の温情か見切り付けかどうかはしらないが、ここ最近、紙の編集に戻ってきて、200文字のリードにどんな言葉を並べるか、どう書き出してどう終わるかでうんうん唸ったり、後輩の書いたテキストに赤入れを残酷なまでに施すとかして仕事をしているわけだ。

 やり直しのきく文章というのは、このnoteというフォーマットもそうだけれど、いくらでも言葉を紡ぎ直せるし、組み替えたり句点と読点のアリナシを試したりできるわけで、極端なことを言ってしまえば、まずい文章をWEBに書いたところで人は死なない(炎上云々含めた内容のことは別として)。

 子供のころから、「こういうことを書けば大人は喜ぶだろう」ということがよくわかるいけすかないガキで、作文の一本も書かせればよく褒められた。とにかく言葉を並べることに夢中になったし、向いていた。だからこの仕事を選んだ。

 商業雑誌のテキストにも作家がこしらえる作品にも、必ず最初の一文字があり、最後の句点がある。その間をどんな言葉で埋めていくか、どんな言葉を歌おうか、どんなリズムをつけようか、イントロからアウトロまでを演じ切る果てない作業。

 見事に始まり見事に終わる文章というものは世の中にあふれていて、それを書く過程において、そう簡単にdeleteキーで消されてはいけない一文字一文字が積み上がって絡み合って表現として成り立っている。

 だから消してはいけない、消すくらいなら消す必要のない言葉を頭の中で何度も何度も推敲するのだ。少なくとも。少なくとも、そうであるべきだと考えている。もう何年も。赤ペンを右手に。

 こうして、センテンスの頭を一角空けるやつは編集者だ……こうして、3点リーダを2つ並べるやつは編集者だ。「 の中に『 を入れるやつは編集者だ。やたら接続詞や体言止めに逃げないやつは立派な編集者だ。

 そ して 、この 文章は、駄文、だ 。

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