雑色【ざっしょく】
小説です
さて。どうしようか。
いい音楽を聴くと言葉を綴りたくなる。 いい漫画を読むと言葉を紡ぎたくなる。 いい映画を観ると言葉を掬いたくなる。 なんにせよ「表現」に触れると心のどこかが微振動を始め、その震えを揺らぎをテキストとして形作って残すにはどうすればよいかということを考える。考えるが書かない。少なくともすぐには書かない。心の中でその震えがいつまで続くか試している。米を炊く前に水に浸しておくのに似ている。いや、似ていない。 何十年も寝かされたワインとかいい塩梅に熟成した肉とか、心の中で誰
毎年12月になるとSpotifyが届けてくれるまとめが割と好きだ。クソみたいな日も馬鹿みたいな日もクズみたいな自分にも、音楽はなんの差別も区別なくクソ(クソ2回目)みたいな日々と共にあったんだと教えてくれる。 ていねいな暮らし、とか好きですか。惹かれますか。俺は、俺はね、クソ(クソ3回目)くらえと思うセクトに所属している。同志は俺自身。たったひとりのノンセクトラディカルとして生きてきたし生きていく。 変わり映えのしない日々が苦痛でしかないし、かと言って毎日何かを求め
花屋の店先に並んでいるのは誰が見ても「美しい」と思える花で、誰かが通りかかったら「テーブルの上にでも置いてみようかな」とか「大切なあの人にプレゼントしよう」とか、金額とイメージだけ伝えてあとはAOYAMA FLOWER MARKETのエプロンした店員さんに任せて「いかがでしょう?」などと問われて「いや、もうちょっとこう……」なんて不満を表明することもせず、そう、自分で選ぶのは自分で選んでいない花を束ねるリボンの色くらいなものだろう。 偏見だ。わかってる。わかってるから先
生まれる権利はある、この世界に落っこちてきておぎゃあと泣いた瞬間が初めての権利の行使だろう、でも生きることは義務になってないか、生まれた以上生きるのが義務ならばそれがどんなにしんどくても全うしなくてはならんのか、ならば死ぬ権利を行使することだってあったっていいだろう。なんて世界だ
言葉を扱う仕事を何年も何年も続けてきた。とは言っても別に作家や評論家というわけではなく、そういった人たちが紡ぎ編む言葉を世に出す仕事、「編集者」という虚業。 かの土田世紀が「編集王」の中で綴った台詞、 「集めて編むのが俺らの仕事だ」 にすっかり心酔し、実際に読んで読んで読んで書いて書いて書いて、それらの言葉を集めて編んできた。今となっては斜陽も斜陽な仕事、泥舟にしがみついて息することもままならないまま、浮かび上がっては一瞬で消えていくWEBのテキスト、SNSの呟き
「つくづく業が深いんだね」 と割と身近な人間に言われて、あらためて意味を調べてみたわけだ。 そうですか。 その通りかも知れないけれどもその業がなかったら今の自分は自分ではなくなっていたかもしれなくて、その業ってやつを背負うのと引き換えに、罪と悪に塗れる代わりに、人が見落とすことに気付く力と世の中に溢れる美しいものを際限なくインプットし続ける頭と心を授かった、いや、業の悪魔とトレードオフした。 だから、自分は綺麗じゃなくていい、みっともなくていい、恥ずかしくてい
たとえば終わらない仕事を前にしてやるかやらぬかの何ラウンド目かの葛藤を頭の中でしている時とか、 暇な休日の午後に混んだ喫茶店で煙草をふかしながら唐突に何年も前のまあまあ楽しくない記憶が蘇ってきたときとか、 起き抜けに見上げた真夏の青空がじわりじわりと自分の身体を蝕んでいくような気がする瞬間とか、 さして飲みたくもない缶コーヒーを買うために、真夜中にいくつかの真っ暗な角を曲がり路地を歩いているときとか、 電車での帰路、溜息を小さくついてうなだれた頭をもたげたときに窓に
仕事の企画を語っていると、 「それもいいけどわたしならこうするね」 ってさ。 そうやって被せてくる、それがマウント取りなのかどうかはよくわからないけれど、「俺はこうしたい」って話をしているわけであって「それより優れたよりよい案を私は提示できる」って返しはいらないんだって。いらないんだってば。ここは会議の場でもプレゼンの場でもないんだからよ。 俺の、この俺の根拠もエビデンスも定量的理屈もクソもない、ただ、心が跳ねた、同じように跳ねる人がいるかもしれなくて、その手に
なにがささやかでどう美しいのかとか野暮なことは聞くな。好きな服を買って映画館で映画を観たからだ。休みの日に行く場所がないと落ち着かない。落ち着かないが、だれかと会う気にもならない、それ以前に会う人がいない。結構なことだ。実に結構。 それだけだ。だから、何がささやかでどう美しいかなんて聞かないでくれ。 「今度の土曜日、映画行かないか」 LINEやら電話やらで誘える人はいない、いないこともないが400kmくらい離れているから無理だし、仮に隣の部屋にいたとしてもドアをノッ
なんとなく。 なんとなくだがなんとなくではなくて確かな事実のような気もしているのだけれど、コロナ禍からこっち、映画も漫画も音楽も、「六畳一間に共に暮らす男女」をテーマにした表現が増えているような気がしてならず、たとえばどれ? と聞かれれば結構な数の映像が、引かれた線が、メロディに乗る歌詞が、と答えられる気がする。 同棲。 世代によって『南瓜とマヨネーズ』だったり『ソラニン』だったり、まあそういう抉る系の名作というのはあったのだけれど、「ふたり」というこの世界の社会
今週は在宅勤務が四日間つまり1日しか出社していない。なんなんだろうな、仕事に熱中してるときほど辛いのに幸せで、仕事から逃げてるときほど幸せなのに苦しいのは。 パラドクスは延々と続いているわけで、自分の頭が首が目がどっちを向いてんだかわからない、わかろうともしたくないのかもしれないが、しれないが、なんだかもういいよ、という気はしてる、くっきりと「なんだかもういいよ」とボールドをかけてシャツの袖口あたりに書き込みたい。 歳のせいなのか性格のせいなのか時代のせいなのかこのク
道端に咲いている「雑草」と呼ばれる花の美しさなら100通りの言葉で言える。 その花は「雑草」ではなく立派な名前がついていることも知っている。 ツタバウンランとトキワハゼ、ハルジオンとヒメジョオン、ノゲシとタビラコ、最寄りの駅から会社までの道のりを歩く間に目に入る花の名前を全部区別する術を学んで、正しく覚えたのはいつのことだったか、名前がどうしてもわからなかったときは勝手に名前をつけてやった、とびきり可愛らしい、けれどどこか哀しい名前を。 道端に咲いている「雑草」
諸々理由があって去年の12月から今年の2月まで、高円寺に部屋を借りて住んでいた。 吉祥寺に家、高円寺に部屋。カネをかけた道楽でもリモートワーク用の別宅でもない、ただ、死ぬまでに高円寺か下北沢で暮らしてみたいという願望が心の奥底にこびりついていた、走って転んで擦りむいてできた傷のかさぶたように。 今しかないかな、とかぼちぼちいいかな、とかやっとかないと後悔するな、とか、雑にでっち上げた理由でもって、高円寺南口の不動産屋を尋ねた。 3度の週末をつかって部屋を探して、
いっこうに仕事に対するファイティングポーズはとれないし生きてて楽しいこともない。 春だというのち肌寒く、楽しみと言えば音楽聴いたり映画見たりすることだけだ。その楽しみも右から左へ抜けていって、留まることをしない。 勤めている社屋が移転した。 陸の孤島みたいな場所で大蛇のごとく長い都営大江戸線のエスカレーターを登って降りて。笑うことなど、口角を上げることすらせず、ただ席に座っている。申し訳程度にキーボードを叩いて、暗くなったら帰る。大蛇の如くながいエスカレーターに揺られ
スマホにインストールしてあるアプリに、1年前の今日、2年前の今日…の写真をワンタップで見ることができるってのがあって。なんだか日課のようにそれを開く。iPhoneの純正カメラロールにも、Google photoにも同じような機能はあるけれども、ただ、なんの装飾も衒いもなく淡々と8年くらい前の「今日」を突きつけてくるそのしょぼいアプリが何故か削除できない、できないまま何年も経っている。 大抵の場合、「何年か前の今日」は今よりずっとマシで。いやかなりマシで。眺めていると、自