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「感性」ってなんですか? 

 いい音楽を聴くと言葉を綴りたくなる。
 いい漫画を読むと言葉を紡ぎたくなる。
 いい映画を観ると言葉を掬いたくなる。

 なんにせよ「表現」に触れると心のどこかが微振動を始め、その震えを揺らぎをテキストとして形作って残すにはどうすればよいかということを考える。考えるが書かない。少なくともすぐには書かない。心の中でその震えがいつまで続くか試している。米を炊く前に水に浸しておくのに似ている。いや、似ていない。

 何十年も寝かされたワインとかいい塩梅に熟成した肉とか、心の中で誰かから受け取った「表現」を寝かせることはそれと似ている。いや、似ていない。

「感性」ってなんですか? 
などという眩暈がしそうな問いを人から投げかけられ、いや、「感性」というものがわからないあなたのその心の有り様が「感性」なんだよ、と答えてあげればよかった。そう、でもそんなものの存在に気が付かない方が幸せには生きられると思うよ、とも付け加えてあげればよかった。

「感性」なんてものさえなければこうして言葉を連ねることも束ねることもしなくていい、音も色も光もない世界では「書くこと」なんて何の意味もない、そんなものは市が指定したゴミ袋に突っ込んで捨ててしまえばいい、喉で絡んでうざったくてしょうがない「言葉」なんてものは吐き出してしまえばいい。

「感性」ってなんですか? 
「生きづらい」って具体的にどういう状態ですか?
 と真顔で問われて、言葉を、大切で何物にも代え難い言葉を、あっさり失った。

 脆くて儚くて手を伸ばした瞬間消えてしまうようなヤワな「感性」とやらを、しなやかで柔らかくともすれば見えなくなってしまうような「言葉」とやらを、また取り戻さなければならない、紡がなければならない。
骨の折れる作業だ。心が揺れる苦行だ。
そんな憂鬱と不安を愛しているのかもしれない。
そんな憂鬱と不安を愛している自分を愛しているのかもしれない。

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