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花瓶粉砕派かく語りき。

 花屋の店先に並んでいるのは誰が見ても「美しい」と思える花で、誰かが通りかかったら「テーブルの上にでも置いてみようかな」とか「大切なあの人にプレゼントしよう」とか、金額とイメージだけ伝えてあとはAOYAMA FLOWER MARKETのエプロンした店員さんに任せて「いかがでしょう?」などと問われて「いや、もうちょっとこう……」なんて不満を表明することもせず、そう、自分で選ぶのは自分で選んでいない花を束ねるリボンの色くらいなものだろう。

 偏見だ。わかってる。わかってるから先を綴らせてくれ。

 そんで家に持って帰って、茎先をそろえるくらいのことはして適当な花瓶に突っ込むのだ。
あら綺麗。はい終わり。
 あなたの心が感性が享受する「美しさ」はそこで終わる。そしてそれでいい。ちっとも悪くない。まったくもって正しい。

 ところがだ、

 それでよくない人種もいて、何をどう間違ったか花を挿した花瓶を叩き割ってこそ「美しさ」は極限まで拡張する、輝く、首のもげたガーベラを、水浸しのカスミソウを、惨めに潰れた薔薇を、陶器だかガラスだかの粉々になった破片に触れた指先が切れて床にたまった水に赤い血が滲むそのあり様にこそ、「美しさ」が壊れてしまうときこそ、美というものは絶頂に達すると心から感じる過敏な生き物もいるのだ。

 これは真実だ。もう少し続けさせてくれ。

 そんな過敏過ぎる花瓶粉砕派に花を渡すな。
彼らがあまりに繊細過ぎてこの世界を覆う空気の吸い方吐き方を忘れてその命が果てるときが来たら、その時こそ花を手向けて欲しい。

 棺桶の中にそっと散らしていく花に花瓶はいらないのだから。果てた身体と共に炎に包まれてたちまち黒く焦げて跡形もなくなる、それこそが「美しい」ものだと、過敏すぎる花瓶粉砕派は主張する。ヘルメットを被り、タオルで口元を覆い、針金を巻いた角材を右手に、火炎瓶を左手に。

 さあ。同志たちよ。
 革命の朝が来るぞ。

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