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閉じた箱の中で起こることのすべて。

 なんとなく。
 なんとなくだがなんとなくではなくて確かな事実のような気もしているのだけれど、コロナ禍からこっち、映画も漫画も音楽も、「六畳一間に共に暮らす男女」をテーマにした表現が増えているような気がしてならず、たとえばどれ? と聞かれれば結構な数の映像が、引かれた線が、メロディに乗る歌詞が、と答えられる気がする。

 同棲。

 世代によって『南瓜とマヨネーズ』だったり『ソラニン』だったり、まあそういう抉る系の名作というのはあったのだけれど、「ふたり」というこの世界の社会の最小単位が、酔っ払ったりセックスしたり喧嘩したり仲直りしたり泣いたり笑ったり怒ったり病んだり、
 別れたり。

 恋愛に生活の影が忍びよるとやがて幸せに満ちた「六畳一間」は監獄じみてくる、もしくは戻りたくない、帰りたくない場所に変わる。なんだろう、あれだ、ジェンガみたいな、トランプで作り上げる城みたいな、小指の先が少し触れただけですべてが壊れていく崩れていく、そんな結末を迎えて、やがて「社会」は消え失せる。

 散るとわかっている花を誰もが愛でるように、離れるとわかっていながら6枚の畳の、あるいはそれくらいの広さのフローリングの箱のなかで何かを一緒に育み、熟れて、乾いて、やがて互いに朽ちていくところまでが「同棲」だとするならば、それを知りながら同じ鍵を持って同じドアを開けるふたりは美しい。

 建て付けの悪い網戸が軋む音、脚がのばせない小さな浴槽、そして、最後に耳にするのはいくつものダンボールを閉じる時に悲鳴のように軋むように鳴くガムテープの音だ。


 いつか終わりが来るとしても、別々の家で暮らして恋愛を続けるほうが同棲するより恋愛の寿命は延びるだろう。ただ、それをとりあえず押し退けてでも見て見ぬフリしてでも一つのドアを共に開けたい、ってそっちのほうがわかる、理解できる、いやそれ以外の選択などないとまで言おう。だってその時は「永遠」を信じているのだから。なんて悲しくて尊い思いなのだろう。

 で。

 で、コロナはきっと多くの同棲カップルを生み出したのだろうとは推測できる。同じ部屋に篭るのなら、ひとりよりふたりがいい、できればこのまま世界が得体の知れない感染症によって終わることがあるのならば、私はあなたといたい。

明日世界が終わるなら。

だから「六畳一間」を舞台とする表現が求められた、生まれた。

そんなことを考えている。
六畳一間でひとりきり。
煙草をふかしながら。

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